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JINさんの陽蜂農遠日記

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jinsan0716@ Re[1]:藤枝市・駿河 田中城跡へ(その1)(06/03) オジン0523さんへ ありがとうございます。…
オジン0523@ Re:藤枝市・駿河 田中城跡へ(その1)(06/03) 田中城シミ屋敷になっていますよ(笑)

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2019.06.26
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カテゴリ:旅行
舞阪宿を浜名湖岸に向かって進む。



宝珠院前に立つ『仲町常夜灯』



「文化6年(1809)舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をしました。
火防(ひぶせ)の山、秋葉信仰の高まりと共に、仲町の願により4年後の文化10年
(1813)5月吉日に、この常夜燈が建立されました。両皇大神宮・秋葉大権現・
津嶋牛頭天王の銘が刻まれ、高さは台座ともで2.7mあります。
なお、西側の石の祠は、秋葉山を祀ってあります。ちなみにここ宝珠院は、
明治6年(1873)舞阪町に初めて小学校が開かれた所です。」 



寶珠院の山門。



山門横の『六地蔵』。



『本堂』。
明治六年(1873)舞阪町に初めて小学校が開かれた所であると。

山 号 海上山

寺 号 宝珠院

住 所 浜松市西区舞阪町舞阪1927

宗 派 臨済宗方広寺派

本 尊 延命地蔵願王菩薩

札 所 浜名湖岸新四国八十八ヶ所霊場第61番札所



次に『養泉寺』を急ぎ足で訪ねた。



入口右には『常夜燈』の如き建物も。



『本堂』。
伝承によれば寛永年間(1624~43)の開創という。延宝年間(1673~81)の
検地帳に所載されていることから、信憑性は高そうだ。18世紀中ごろ編纂の
『遠江國風土記傳』には「曹洞宗、入野村宗源院末、在天派」。文久2年(1862)の
『宿内軒別畳数坪数絵図面』によれば、当時の規模は本堂7間×5間5尺、庫裡4間半×11間。
総畳数71畳、総坪数は77坪8分5厘だったと。



名 称  海福山 養泉寺 
所 在      静岡県浜松市西区舞阪町舞阪1907-1
宗 派      曹洞宗
創 建      寛永年間(1624~43)
本 寺      宗源院(浜松市中区蜆塚)
開 山      風山大威和尚
本 尊      釈迦如来
扁額には『海福山』と書かれていた。



『六地蔵』。



旧東海道に戻りやや戻ると旧東海道(往還道路)案内板が設置されていた。



『旧東海道(往還道路)案内図。』
旧東海道(往還道路)沿いには多くの神社仏閣や本陣、脇本陣が並んでいた事が理解できた。
現在地は『養泉寺』の角の『現在地』。



『東海道五十三次之内 舞阪』。
舞坂から次の荒井までは舟渡しで、海上一里を行く「今切れの渡し」といった。
今までの徒歩での陸路の旅とは異なり、束の間の憩いのひとときでもあったようだ。
冬の舞坂の港の図であるが、水面に突き出た山、手前には大きな帆、更に手前の沢山の
杭が遠近をよく表わす。遠景には冬の白い富士山、青い海が爽やかに描かれている。



『東海道五十三次宿駅名』
現在は31番舞阪宿(日本橋より30番目の宿場)、荒井宿へ海上54町(5.9km)。



そして次に『岐佐神社』を訪ねた。



『岐佐神社御由緒』   
「御祭神  蚶貝(ささがい)比売命  蛤貝(うむがい)比売命
 御由緒  平安時代に書かれた「延喜式神名帳」に遠江六十二座。敷智郡六 座の一つとして
      記載されており、千年以上の古社である。明応7年(1498)の地震津波では、
      浜名湖の湖口が切れて「今切」となり、舞澤(舞坂)の郷は、人家と共に水中に
      埋没した。満目荒涼たる砂丘上の柳の根本に「岐佐大明神」の小祠を見つけ、
      住民は社殿を建立して祀った。これが現在の御鎮座の地である。
      無事難を逃れた住民は、付近の松原に部落を作り、現在の舞坂待ちのもとをなした。
      これを「三十六屋敷」という。天正2年(1574)以来、数次の本殿・拝殿 
      再建の棟札を保存している。慶長6年(1601)伊奈忠次公より、御神領3石、
      慶安元年(1648)徳川家光公より御朱印状により、神領5石を奉献され
      明治維新に至る。
      明治6年(1873)郷社に列し、大正9年(1920)神饌幣帛供進社となる。
      現在の社殿は大正元年(1912)の造営である。」



『社殿』。



『赤石の由来』  
「古事記に登場する「因幡の白兎」に続くお話です。大国主命は兄弟達と恋争いの末、
八上比売と結婚の約束をします。恋に破れた兄弟達は、大国主命を手間山に呼び出して
殺そうとはかり、「山の上から猪を追い降ろすから、山の下で捕らえろ」と言いつけて、
真っ赤に焼いた大石を、転がり落としました。この大石を抱きとめた大国主命は、大やけどを
負い、命を落としました。これを知って悲しんだ母神は、天上の神皇産霊神
(かみむすびのかみ)に命乞いをされます。
神皇産霊神は、娘神で岐佐神社の御祭神である「蚶貝比売命・蛤貝比売命」に言いつけて、
大国主命の治療に当たらせます。蚶貝比売命(赤貝の神)は貝殻を削って白い粉末を作り、
蛤貝比売命(蛤の神)は、粘液を出して練り合わせ、どろどろした母乳のようなものを作り、
大国主命の全身に塗りました。すると火傷はすっかり治り、大国主命は雄々しい姿に
よみがえったのです。
出雲神話と岐佐神社とは、このようなかかわりがあり、ここに「赤いし」が祀られています。
御祭神が海に関係するところから、水産・漁業の神であると共に、この神話に因んで、
火傷・病気にも霊験あらたかと信仰を集めています。」



そして再び旧東海道に戻り進むと、右手にあったのが『本陣跡』。
「2軒の本陣のうち、歴史的にも規模の上でも優位にあったのが、宮崎伝左衛門家。
文久2年の「宿内絵図」によると、「間口11間2尺、奥行き20間3尺、建坪130坪、
畳敷160畳、板敷23坪5分、土間18坪6分、御本陣伝左衛門」とある。
宿村大概帳には「本陣西町凡建坪158坪、門構、玄関付」と記している。
江戸時代多くの諸侯が宿泊し、明治初年明治天皇が4回にわたって小休している。
文化年間の火災で母屋焼失、その後再建されたが、明治期に入り本陣家の瓦解に伴い、
土地建物の大半を売却。昭和10年頃までは一部残存していたが、
現在は遺構・建物など全くない。」



そして『東海道舞坂宿脇本陣 』を訪ねた。



『東海道舞阪宿脇本陣』
「舞坂宿は、慶長9年(1601)東海道宿駅制度設定に伴い、開設された五十三次のうち、
江戸から三十番目の宿駅で、弘化2年(1845)の資料では、人口1,204人・
戸数265戸でした。また本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、
源馬本陣の向かい側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)がありました。
脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、普段は一般の
旅籠屋として使われました。
建物は母屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現構で間口5間・奥行き15間ありました。
現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では、唯一の脇本陣遺構として
貴重な建物です。
平成7年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟瓦に「天保九年五月吉日 
横山村瓦師政右衛門」の篦書が発見され、書院棟が天保九年(1838)の建築であることが
判明しました。」



本陣跡の斜め向かいに最近復元された脇本陣があり、無料公開されていた。
ここまで歩いて来た中でも脇本陣がこれだけ立派に復元されて、昔の面影を
残しているのは珍しいのであった。
入口の見事な檜皮葺の唐破風。



坪庭から奥を望む。



『廊下』。



『炊事場』。



『奥の間』。



『上段の間』。



『前庭』。



『上段の間』。



様々な旅人の姿が描かれていた(1/2)。



様々な旅人の姿が描かれていた(2/2)。



『歌川広重 東海道五十三次』の紹介。



坪庭を再び。



『駕籠』。



2階から入口の見事な檜皮葺の唐破風を見下ろす。



『源馬徳右衛門本陣』を『脇本陣』2階から見る。
「「宿村大概帳」には、「本陣、西町凡建坪90坪、門構、玄関付」文久2年の
「宿内絵図」では「陣徳右衛門間口8間半、奥行14間5分、惣畳数86畳半、
惣坪数100坪5分」現在建物なし。1軒おいて東側が宮崎本陣跡。」



旧東海道・舞阪宿を歩く旅人の姿、そして脇本陣のジオラマ。



説明員の机。



『文久2年(1862)の舞阪宿絵図(宿の西端部分)』



再び坪庭とその奥の部屋を望む。




                              ​その4​  に戻る。

                  ・・・​つづく​・・・






Last updated  2019.06.26 00:00:26
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2019.06.25
カテゴリ:旅行
『東本徳寺』
入口に『髭題目碑』と『清正公三百年祭記念碑』が立っていた。



『清正公三百年祭記念碑』



槇に囲まれた参道を歩く。



『山門』。



『本堂』。行学院日朝上人の開基になります。
芝生の緑と、青空。そして本堂、綺麗な境内。



『永代霊塔』



『逆境を嘆くことなかれ、強敵に磨かれ人は鍛えられる』・・・しかり!!。



東本徳寺の裏手には、西本徳寺があった。
入口に『髭題目碑』と『海中出現 釈迦牟尼佛安置碑』が立っていた。



『本堂』。
海中出現の釈尊の立像が祀られている。
寺伝によると、鎌倉時代の仁治2年(1241)4月8日、遠州灘の浜において漁師の網に
かかって引き上げられたという。



本堂を斜めから。
村人たちが堂を建てお祀りするうちに歳月が流れたが、630年を経て、平成15年に
建設計画が立てられ、平成21年に本堂・位牌堂が完成したと。
西本徳寺は東本徳寺と開創時の由緒は全く一緒、身延山第十一代行学院日朝上人が
南北朝期の永徳元年(1381)に開いたとされている。
日朝は日蓮宗の名僧で伊豆の人である。



本堂の見事な彫刻。



『万霊供養塔』。



『浄行菩薩像』



『馬郡跨線橋南』交差点を進む。
交差点の先に大きな石灯籠が見えた。



右手にあったのが『春日神社、津島神社』。



『春日神社』石鳥居。



『手水舎』。



『春日神社』拝殿。



『春日神社
「鎮座地 浜松市馬郡町一八八ニ-ニ』
 祭神  武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比売神
 例祭日 十月中旬
 由緒  往昔永徳元年(1381)秋甲州行脚の沙門律師日朝当地へ廻国の折神仏深理と
     悟し民族挙って一社を建立を願ふに依りて後小松天皇の御年應永二甲戊年
     (1395)八月十五日春日大明神の神札を奉祀勧請す後天正十二年(1584)
     以来数度の改築あり慶安元年(1648)十月二十四日徳川三代将軍より
     朱印六石下賜あり代々拝領す明治六年(1873)三月村社に列す仝七年末社を合祀す 
     昭和八年(1933)七月十八日本殿、拝殿、幣殿改築遷宮以後現在にいたる。
 末社  若宮神社 八幡社 山宮神社 天王社(例祭日 七月十四日)



応永2年(1395年)奈良の春日大社より祭神を勧請し建立された春日神社。
狛犬に代わり雌雄の狛鹿を置く。いかにも春日社らしい。
右は『雄の狛鹿』。



左は『雌の狛鹿』



『拝殿』の奥に朱の『本殿』。



『境内社』。これが『津島神社』と思っていたが違うらしい。



境内社『拝殿』。



跨線橋南交差点から県道49号線に入り、舞阪駅南入口交差点を過ぎるとすぐ、
700mにわたる舞阪のみごとな松並木が始まった。
よく整備されており、これまでで最高の松並木。




その松並木が始まる所に、『夢舞台・東海道「松並木」』の標柱が立っていた。



約700mの両側におよそ340本ほどの松が残っているのだと。



『東海道松並木』。



常夜燈を模したものであろうか。



汚水マンホール蓋もひたすら『松』。



松への薬剤散布の管理TAGのようであった。



進行方向右手には干支(えと)で時刻を表す石像が
左手には東海道五十三次の宿場の碑が続いていた。



車の少ない時にシャッターを。



枯れて伐採された松の株、中が空洞になっていた。




道路側は『東海道 五拾三次内 舞阪 三拾之宿  平成三年



歩道側は『今切のレリーフ(左) 舞坂 今切真景(右)』
「舞坂宿は、日本橋から67里(264,9km)品川宿から数えて30番目の宿である。
東海道の陸路は、舞坂で一度切れて、ここから新居宿まで海上一里半船を頼りとして
渡ることになる。
浜名湖は、かつて遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応7年(1498)の
地震により切れて入海となった。その切口を「今切」と呼ぶ。地震による被災から復興して
「今切渡船」の発着地となり、舞坂は交通の要地となった。」



『東海道松並木』
「この松並木は、慶長9年(1604)徳川家康の命により街道を整備し、黒松を
植えたのに始まる。正徳2年(1712)には舞阪宿の東端「見付石垣」より馬郡まで、
8町40間(約920m)道の両側の堤に、1,420本の立木があったという。
その後、寿命や台風で倒れる一方で、その都度補植など行ってきたが、昭和13年(1938)
国道付け替えの際。堤を崩し両側に歩道をつけ今日の姿になった。
現在700m、株数屋杭340本に東海道の面影を良く残している。」



道路側は『舞阪宿』。




往時の東海道を偲ぶ松並木。やはり旧街道に松並木は似合う。



松並木の途中にあった『舞阪橋跡』。
「ここは江戸時代、舞阪宿唯一の橋である舞阪橋がかかっていました。北に西長池という
大きな池があり、南から松並木を横切って昭和10年頃まできれいな水がながれていました。
天保14年の東海道宿村大概帳には次のように書かれています。
字 舞阪橋 
土橋 長7尺 横3間 橋杭4本立て弐組
是は前々より御普請所にて、寛政10年御代官辻甚太郎掛にて御普請これあり、
この証拠書物は宿方にあり、文化14年にも御普請これあり、もっとも土橋のため保持に
難あり宿役で板橋に掛換えをした。」



『浪小僧』(左側)。
松並木が終わった所にあり、小太鼓を抱えた可愛い小僧が四角い石の上に座っていた。
傍に公衆トイレもあった。



「むかし、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていました。魚が取れない日が続いたある日、
真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は
「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに、
海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と
言うので、海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと
伝えられています。 ~遠州七不思議より」



『MAISAKA(舞阪) MAP』。
ここは新町交差点の手前。



新町交差点で終わる東海道松並木。



そして新町交差点で国道1号線と合流するが、直ぐに別れ旧東海道は左側に。
道路の分かれ目の先端には『東海道⬅舞阪宿』の表示板があった。



そして道路の前方両側に石垣が。



『見付石垣』
宿の東外れに位置していると。



『史跡 見付石垣』。
「この石垣は舞阪宿の東はずれに位置している。石垣の起源の詳細は明らかでないが、
宝永六年(一七○九年)の古地図には既に存在している。
見付は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここに六尺棒を持った番人が立ち、
人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。」



『東海道舞阪宿一里塚』碑が右側に。



近寄って。



『一里塚跡』碑が左側に。



「江戸幕府は、交通政策に重点を置き、諸国に通じる街道を整備し、慶長9年(1604年)、
主要街道に一里塚を築くようお触れを出した。これにより、日本橋を起点として
1里(約3.9km)ごとに、道の両端に土を盛り、その上に榎や松などを植えた一里塚が
整備されていった。一里塚は、旅行者の目印になるとともに、馬や駕籠の賃銭を支払う
目安にもされた。舞阪の一里塚は、日本橋から68里(約267km)に位置し、松が
植えられていた。」



『宿内軒別書絵図面』
文久二年
東海道舞坂宿
宿内軒別書絵図面



現在地付近。
写真中央付近に『壱里塚』、『秋葉山常燈明』の文字が。



『一里塚跡』手前には『新町 常夜燈』が。



「舞阪には往還沿いに3基の常夜燈がある。舞阪宿では、文化6年(1809)元日、宿場の大半を
焼く大きな火事に見舞われたことから、これをきっかけに火防の秋葉信仰が広がり、常夜灯を建て
秋葉講を組織して火の恵みに感謝するとともに、火の用心を誓いあった。
常夜燈の竿石の四面には両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天王、建立年月が刻まれている。
新町の常夜燈は、文化12年(1815年)正月に建立されたもので、灯りをともして悪霊の侵入
を防ぎ地域を鎮めるとともに、闇夜を照らす道しるべとして守られてきた。
月詣りやのぼり立ては、今も地域の人たちに受け継がれている。





                              ​その3​  に戻る。

                  ・・・​つづく​・・・






Last updated  2019.06.25 00:00:18
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2019.06.24
カテゴリ:旅行
国道257号線の高塚駅入口交差点を通過。
高塚駅は浜松市南区内に設置されている唯一の駅。
高塚駅とは反対に写真の方向・南方向に2kmほど進むと海岸に出る。



そして国道257号線は分岐し、右側の分岐を進むと旧東海道・県道316号線。



分岐の中央にあったのが、『東海道夢舞台道標・浜松市『篠原』』。
浜松宿 宿境まで一里十三町
舞阪宿 宿境まで一里十五町



国道257号線と別れて旧東海道を進む。



『立場跡』。



真新しい『立場跡』案内板。
「立場は、慶長六年(1601)東海道に宿駅伝馬制度ができた時に、宿場と宿場の中間の休憩の
施設として設けられました。
ここは立場本陣とも言われ、大名等身分の高い人達が多く休憩しました。明治元年(1868)に
明治天皇が御小休されたという記録ん「御東幸御小休帳」や文化年間の「御大名様御小休帳」が
残されています。筋違いには、道中案内記にも載っている茶屋「浅田屋」がありました。
現在この辺りの字名は立場といいます。」



次に右手の『神明宮』を訪ねた。
入口で境内樹木の消毒を行っていた神主の方が、説明して下さいました。



格式ある「神明造り」の『拝殿』。



『本殿』。



「祭神  天照大神 豊受姫大神
 由緒  当神社は、「伊勢神鳳抄」に記される。「篠原村神戸九町三反」に当たり
     建暦二年(1212)浜名湖中ノ島の小島神明島に鎮祀せられたが、
     地震津波等により永正年間(1504~12)に当地に遷座された。
     徳川幕府により御朱印五石を拝受、村民の崇敬を得て今日に至る。
      天正八年(1580)の棟札が現存。
 社殿  昭和7年に建立。神明造り。伊勢神宮正殿を根本とする様式。
     柱は丸柱で両妻に棟持柱が独立。破風枝は長く突き出して左右に交わり
     先端は千木となる。
     棟の上に竪魚木が六本。屋敷の勾配は四十五度、床は高欄。
  灯籠  五対一基ある。そのうち一対は江戸の伊丹屋善助又三山の鈴木十四郎の
      寄付。他に明治三十五年、三十九年、征露軍人三十四名の名前が刻まれている。
 
  拝殿扁額 「神明宮正二位勲一等公爵九条道實勤書」とある。」



『篠原の一里塚跡』(日本橋より六十七里)前。



「徳川幕府は、慶長九年(1604)東海・東山・北陸の三街道に方五間(約9m四方)の
一里塚を築くことを命じました。江戸日本橋を基点とし、一里(三十六町=約四キロ)毎に
街道の両側に一里塚が築かれました。
東海道宿村大概帳に「壱里塚 木立左松右榎 左右の塚共篠原地内」と記されています。
(左側とは南・右側とは北を指す)当時の旅人は、一日十里(約40キロ)を歩くのが
普通であったといわれていました。」



両側に住宅街が続く旧東海道。



『高札場跡』。
「藩は一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるため、村の中心または目立つ場所に高札場を設けた。
高札には親孝行・忠孝の奨励や賭博の禁止など生活の規範のものとキリシタンや徒党の
禁止などがあった。
高札の文面は簡易な仮名交じり文が用いられていた。
明治政府も高札を使ったが、明治六年(1873)太政官布告をもって廃止された。
高札のあったこの辺りは、札木という地名になっている。」



道路脇に小さな社が。(この後も同じような社をいくつか見掛けた)。



古い建物の『柳本診療院』。



浜松市西区篠原町の旧東海道沿いに建つ柳本診療院は、昭和2年(1927年)に建てられたと
される木造二階建ての擬洋風(洋風を真似した様式)の建物。
この診療院を開業した柳本満之助は、豊橋出身で日露戦争で軍医として従軍した後
ここ(現浜松市西区篠原町)で開業。
現在は閉院しているようですが、そのモダンな外観は大変印象的で、目を楽しませて
くれたのであった。



玄関屋根の鬼瓦には「Water」、「MIZU」の文字が刻まれているようであったが、その意味は?



そして左手に浜松市立篠原小学校の校庭内の大きな石碑が。



浜松市立篠原小学校『正門』。
篠原村立篠原尋常小学校、篠原村国民学校の歴史を持つ小学校であると。



こちらも校庭内に。



『長里橋を渡る。



前方右手に現れたのが『愛宕神社』。



安全祈願の社か?
この手前右奥にも同様な社があった。



『愛宕神社』正面に石鳥居が。
坪井町東端に鎮座する愛宕神社。



『愛宕神社』
「鎮座地 浜松市西区坪井町一番地の六」
 祭神  軻遇突智命(かぐつちのみこと)、素盞鳴命(すきのをのみこと)
 由緒  当社の創立は文禄元壬辰年(一五九二)、坪井郷新田村開発当時に、氏神として
     京都愛宕神社から御分霊を奉斎し、 慶長六辛丑年(一六○一)二月、徳川家康公が
     鷹狩りの折、御祈願をしたとの古老の言い伝えがあり、 武将の崇敬が厚かった
     坪井郷の内、新田の氏神として崇敬され由緒不詳ながら、神社宝物として
     棟札八枚が現存する。」
 


『拝殿』。



『愛宕神社』横にあった『光雲寺』。



『臨済宗愛宕山 妙心寺派 光雲寺』。



庭先の槇も見事に手入れがされていた。



生垣の槇も見事に。



『明治天皇御東幸野立所跡』。



「明治元年」(1868)9月20日、
明治天皇は岩倉具視以下三千余人を従え京都を出発し、二十三日間を懸けて東海道を下り
東京へ進みました。行列は十月ニ日に、新居から舞阪へ船で渡り坪井村の杉並木の中の
この辺りで歩を止めて短い休憩(野立と言う)をされました。
当日は今の暦では十一月十五日にあたり、記録によれば天気は快晴でした。
行列はこの先の篠原村立場本陣で小休され、浜松へ向かいました。」



明治天皇は、下図の如く駕籠に乗られた移動であったようだが、それにしても23日間で
京都から東京までの移動は信じられないのであるが。
『明治天皇の東京行幸フランスの新聞雑誌(英語版)『ル・モンド・イリュストレ(フランス語版)』1869年2月20日刊行号内の挿絵。』


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E8%A1%8C%E5%B9%B8】より

右手に『稲荷神社』。



『郷社 稲荷神社』社号標。



『稲荷神社 由緒案内』
一.祭神 稲荷大神 宇加之御魂之大神 佐田彦大神 大宮売大神
一.由緒の概要
●永享十二年(一四四○)伏見稲荷より勧請したと言われる。
●天正十六年(一五八八)九月十八日拝殿再建の棟札が現存すると言い伝えられている。
●現在の拝殿は大正十一年に建てられた。境内の森の木が建築材として利用された。
 村内の大工数名が建築に携わった。境内入口の門柱にその人達の名前が刻まれている。
●慶安元年(一六四八)時の幕府から朱印五石が禄(与えられる)された。
●境内に入ると立灯篭が左右に見える。文化年間と刻字されている。
●両部鳥居と稲荷鳥居が続いている。 両部鳥居は朱色に塗られ、四本の稚児柱と呼ばれる控柱で
 支えられている。稲荷鳥居は石造りで文化十三年丙子年(一八一六)十一月吉日 
 遠州屋傳兵衛奉献 江戸小船町傳次郎と刻まれている。
●稲荷の名のごとく、元来農耕神であるが、中世以降から漁業神また産業神、商売神として
 崇められ、近郷からの参詣者も訪れるようになった。」



『稲荷神社』境内。



『社殿』。



『常夜燈』と『坪井村 高札場跡』。



「一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるために、村の中心または人通りの多い往来などに
高札を掲示した高札場が作られました。
高札には親孝行、忠孝の奨励やバクチの禁止など生活の規範のものとキリシタンや徒党の
禁止などがありました。高札の文面は簡素で庶民にも理解しやすい仮名交り文が用いられて
いました。明治政府も高札を使いましたが、明治六年(1873)に廃止されました。
近くの元庄屋にはキリシタン札などの高札が永年保存されていました。」



「坪井西」バス停を過ぎ暫く進むと、再び右手のここにも常夜燈が。



『忠魂碑』。



坪井西バス停の先右側に入った草地に石碑が立っていた。

 


『史蹟引佐山大悲院観音堂聖跡』。



「この地に永く安置されていた観世音菩薩は、引佐細江の観世音と言い、高さ一尺二寸五分
(約三十八センチ)の立像で、定朝法橋上人の真作であると伝えられる。
第六十八代後一条天皇の治安元年(一○二一)定朝上人諸巡行の途中山住神社(水窪町)に
山籠もりされた時神託を感じ、引佐細江の里に行き老杉の元で一心不乱に大悲十句の
秘文を唱え祈りつづけられた。 七日七夜の三更(午前0時前後)老杉の頂が光り輝き、
忽然として聖観世音菩薩が応現された。 その慈悲に感激し、ありがたさの万分の一をも
残そうと老杉を伐り、聖観世音菩薩の尊像を一刀三礼して彫り上げ、国下安民五穀豊饒のため
引佐の地に堂宇を建てて、安置し奉った。 第七十六代近衛天皇の久安五年(一一四九)
八月下旬に天災地変あり、山崩れや洪水によって田野は流れ、山川村里は一時に大海となった。
この時、菩薩の霊訓によってこの地に遷し、草庵を造り安置申しあげた。 仁安の頃(一一六六)
多田満仲五代の孫、従五位の下、伊賀守源光行公の紀行に、筑紫(九州)の人、頼み事があって
鎌倉に下るとき参詣して、 望み叶うならば御堂を建立申そうと祈願し、目的を達してお礼に
堂を新しくしたとある。 それ故に光行公も詣でて、多くの人々の願望成就のしるしを見、
大悲大慈の恵は広く、深く、たのもしく思われて歌を詠んだ。  
たのもしな 入江に立つる 身をつくし   深き志るしの ありと聞くにも  
右の一首、光行公が観世音を前に詠まれたと東海道名所図会に見える。
第句十代後宇多天皇の弘安年中(一二八三)佐夜の中山(掛川菊川の境)の化鳥退治のために
勅命を受けた上杉三位高実公が下向の折りも当観世音にご祈願なされ、成就速やかであった
など伝わる。 また、寛文十二年(一六七二)四月二十三日、新居宿の住人片山権兵衛
紀州熊野浦にて難破したが、大悲の感応を得て助かった。 その礼謝としてお堂を建立、寄附した。
以上は、延宝五年(一六七七)五月八日、如意寺四代利州艱禅和尚の書き遺された観音由来を
略記したものである。 その後も東海道を往来する人々にご利益ある観音として聞こえ、
文化年間(一八○四~一四)江戸の商人遠州屋源人、相良屋茂七など多くの人から
大般若経六○○巻が奉納された。 今も、毎年一月十七日の大般若法要で目にすることができる。
観音像は、昭和四十二年(一九六七)以来、如意寺に安置してある。 」



バス停『馬郡観音堂』



「馬郡東バス停付近の旧東海道を振り返る。



『馬郡村 高札場跡』
「一般の人々に法度や掟や禁制を伝えるために、村の中心または人通りの多い往来などに
高札を掲示した高札場が作られました。
高札には親孝行、忠孝の奨励やバクチの禁止など生活の規範のものとキリシタンや徒党の
禁止などがありました。高札の文面は簡素で庶民にも理解しやすい仮名交り文が用いられて
いました。明治政府も高札を使いましたが、明治六年(1873)に廃止されました。
このすぐ近くには「札木さ」と呼ばれている家があります。」


馬郡町自主防災隊倉庫の横の鞘堂にも秋葉燈籠が納まっていた。




                              ​その2​  に戻る。

                  ・・・​つづく​・・・






Last updated  2019.06.24 00:00:19
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2019.06.23
カテゴリ:旅行
旧東海道・国道257号線を浜名湖方面にすすむ。
浜松市若林町歩道橋の手前、左に折れると「可美公園」へ。



国道沿いの生け垣は、手入れされた槇の木が。
諏訪神社手前、右側には『忠魂碑』が。
「陸軍中将従三位勲一等大久保春野書」と書いてあったが。



『みたらしの池』。



「水神様をおまつりした人工の池が、現在の可美小学校が建設 される昭和二十二年
(一九四七)一月ごろまで、「みたらしの池」と いわれ可美小学校の運動場の南西のあたりにあった。 
池が埋め立てられてしまったので、たいへん信心深い、土地持ちの 丸山森三郎氏が、新しく
水神様をおまつりする池を現在の 不動尊(成徳寺)の南側に造った。
しかし、現在はその池 も埋め立てられてしまい、今ではその面影はない。 
当時、可美小学校の校内運動会の時に雨が降ると、みた らしの池を埋めたせいなどともいわれた。」



『浜松市・可美村合併記念』碑。平成3年に合併したと。『可美村民憲章』碑も。



そしてその先にあったのが『諏訪神社』。



境内の参道を進む。



『諏訪神社(旧名諏訪明神)』。
若林町西端に鎮座する諏訪神社。大永4年(1524年)内田六郎兵衛なる者が
長野・上諏訪社より勧請して建立、明治中期頃まで内田家が代々神主を務めた。
当初の社名は諏訪明神。



鳥居を潜る。



明るい青が印象的な『社殿』。



拝殿奥の『本殿』。



『秋葉神社』。



『秋葉常夜灯籠』
増楽町に残る秋葉燈籠。鞘堂に納められその姿は見えなかった。



「天正二年(1574)、家康公は「火の神」アキバ神社を浜松高町に建てた。一方、春野の
深山に通ずる諸街道を秋葉街道と名付け、旅人の安全を祈願し、街道の要所に常夜燈の
設置を奨励した。このとき、建てられた常夜燈が現在に残る秋葉燈籠の始まりである。
はじめのころの灯籠は、旅人の脚下を照らすための素朴なものだったが、火を尊ぶ心から
木灯籠、そして石灯籠と造り替えられ、現在のようなりっぱな灯籠になった。
現在、増楽町に残る常夜燈楼だけが、可美地区に残る唯一の秋葉灯台である。」



『佐鳴予備校可美校』前を通過。



そして歩道橋手前の右手にあったのが『村社 熊野神社』。



『境内』。



『熊野神社(旧名伊豆権現)』
「一、祭神  伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 事解男命(ことときおのみこと)  
       速玉男命(はやたまおのみこと)
  一、別社  若宮社 祭神 大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)(仁徳天皇)
  一、大祭  十月十日 旧九月十五日なりしも大正中頃教育的見地からより各字統一す
  一、由緒  当社は大正15年4月1日火災に罹り、社殿等焼失したればその由緒詳かならず。
                   伝ふる所に依れば、名門出身紀伊國熊野神社の神官故ありて諸国遍歴の砌当地に
                   足を止め居を定め、祭神を奉祀したるに始まると云う。古来熊野三社大権現と
                   称したれども、明治2年六所神社と改称、同7年熊野神社と改め、同12年
                   村社に列せらる。」



『社殿』。



ジーユー(GU) 浜松可美店の角にあったのが『領地境界の標柱』。



「江戸時代、宝永二年(1702)に高塚(当時は高塚村)は堀江領になったが、
増楽(増楽村)以東は浜松領であった。これはその領地の境を示すために建てられた
標柱)である。かつてはここより西側にあったようだが国道拡幅により
現在の地になった。堀江領側にも傍示石と称する境界の標柱があったようである。」



浜松藩井上河内守の領分であった敷智郡増楽村と、ほりえの大沢右京大夫の知行地であった
敷智郡高塚村との境界に建立されていた。東海道の左右に一基づつあった。
「従是東濱松領(これよりひがしはままつりょう)」と刻まれた高さ1.5mの石柱。



『スズキ入口』バス停を通過。
バス停手前の『領地境界の標柱』の角を東海道線の方向に向かい線路を渡った
場所には​スズキ歴史館​👈リンク、スズキ㈱本社があるのだ。



『堀江寮境界石』
宝永2年(1705年)高塚村は旗本大沢氏の堀江領となり明治維新まで続いた。
この辺りに堀江領を示す領界石があったらしい。解説板によれば、高塚町の東端、
国道257号の南側に住んでいた高橋長兵衛家の前庭に境界表示の礎石があるとのこと。



『高塚村高札場跡と秋葉燈籠跡』。
「東京国立博物館に所蔵されている東海道分間延絵図によると、当時の高塚には、高札場が
秋葉燈籠の東側(現在の小野田吉平氏宅)付近にあった。江戸時代には、どこの村にも
それぞれ高札場があり、木板の札を村の中心で人目にたつところに建て、切支丹禁制、
火災防止、徒党を組むことの禁止、犯罪人の罪状などを書いて村人に布告を徹底させた。」



浜松市南区高塚町の交差点角にあった『麦飯長者跡』。



「昔、高塚に小野田五郎兵衛という長者がおり、明治維 新(一八六八)のころまで、
誰彼の区別なく、街道を行 き交う人々に湯茶を接待し、空腹時には麦飯を
食べさせ ていた。いつとなく、麦飯をくださる長者さまというこ とで「麦飯長者」と
いわれるようになった。 
五郎兵衛の善行が浜松城下にも知られ、小野田の姓が 許され、村役人、庄屋を務めた。
そのため、小野田家は 代々、五郎兵衛を名乗ってその歴史を今に伝えている。 」



さらに国道257号線を進む。舞阪まで7kmの表示が。



次の歩道橋の下、右手にあったのが『郷社 熊野神社』。
一の鳥居を潜り進む。



『郷社 熊野神社』正面。



『熊野神社』案内板。
「当社は、後三条天皇の延久年間に創建されたと口伝され、 紀州和歌山の熊野本宮の神主が、
諸国行脚の途中でこの地に足を留めて祭祀したと伝えられ、熊野三社権現と称えられた。
ある時、神主が「高い丘を作って人々を救え」という不思議な夢を見たので、村人と図って
神社の裏山に土をもりあげた。 その後「安政の大地震」が起こり、津波の為多くの死者が出たが、
この里の人々はこの丘に避難して難を逃れたと伝えらる。
又一説には、大津波の犠牲者をこの地に葬り沢山の砂を浜から運んで(浜垢離の起源)
高い墓を築いたと。 大きな墓(つか)であったので大墓、後に高い塚~高塚と呼ぶようになり、
地名になったと伝えられる。」



「由来
紀州(和歌山県)熊野本営の神主さんが諸国行脚の途中、此の地に足を留めて祭祀したのが
始まりであると云われている。 或る時此の地の神主さんが高い丘を作って人々を救へと云う
不思議な夢を見たので、村人とはかって神社の裏山に土を盛りあげた。
その后安政の大地震が起り津波のため多くの死者が出たが、高塚の人達は此の丘に避難して
被害を免がれたと云伝へられている。 又一説に大津波のため住んでいた人達が殆んど死んで
しまった。 村人は津波の犠牲者を此の地に葬り沢山の砂を浜から運んで高い塚を作った。
(今でも浜垢離と云う習慣として残っている。) 大きな墓であったので大墓後に
高い塚ー高塚と呼ぶようになり地名になったと伝えられている。」



『社殿』。



扁額『熊野神社』。



社殿内部では朝の儀式が行われていた。
よって社務所は無人で御朱印は頂けなかった。



『御神木』



「雲竜椎(うんりゅうしい)
 樹齢500年(推定)位の椎で、当熊野神社の歴史をじっと見守ってきたとことが
 考えられます。丁度雲に坐って昇天する龍の面影を留め骨と皮で尚神殿をお守りする様相が
 偲ばれる処から、御神木として本年度より登記致しました。」



「昇天松
 樹齢400年(推定)位の黒松で真直ぐに天空に向かって伸びる姿は、当神社境内でも
 その枝振りと共に一際立派で仰ぎ見る人達に崇高な感動を与えて呉れます。
 遠く南遠州灘を望み、北方に赤石の山脈を見下ろす、御神木として何時までも此の処に
 住む人たちを守護って戴きたいと思います。」



境内には『稲荷神社』も。



扁額



『古札納付所』であろうか。



そして旧東海道に戻ると道路の正面反対側にあったのが海岸に向かって延びる
『源十道路(げんじゅうどうろ)』。



「この道路の名前の由来は、現在、道の東に住んでいる高橋登氏と西に住んでいる
高橋みち氏の「ひおじいさん」(三代前)の高橋源十氏の名前をもらって、名付けられた
ものといわれている。」とあったが、歴史的な意味は??



そして次に訪ねたのが『高蔵寺』。
所在地:浜松市南区高松町4706。



『六地蔵』。



『本堂』。
臨済宗方広寺派の寺。扁額には山号の『如法山』と。



『福徳稲荷大明神』



奉納された幟が並んでいた。



小さな祠も。




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Last updated  2019.06.23 00:00:20
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2019.06.22
カテゴリ:旅行
この日・5月24日(金)は早朝に起床。
部屋の窓から浜名湖を見る。日の出前で刻々と浜名湖がオレンジ色に染まって来ていた。



そしてこの日の浜名湖の先の山の端からの日の出。時間は4:45過ぎ。



しばらくカメラを構えながら日の出の光景を楽しむ。



浜名湖も赤く染まり赤い光の帯が。そして光の帯の中に小舟が。



そしてあっという間に丸い太陽が姿を現す。



浜名湖には多くの小舟が浮かんでいた。
何の漁をしているのであろうか。



オレンジ色に染まった水面に光る帯をズームで。



光の帯に向かって小舟も動き出していた。



燃え上がるが如き水面のカオス。



そして6:30からの無料の朝食を楽しむ。



宿泊した鷲津駅前のホテルを振り返る。



7時過ぎの電車で鷲津駅からJR線で浜松駅に戻る。



『ようこそ『技術立国発祥の地』湖西市へ』が鷲津駅前に。
湖西市は豊田佐吉・喜一郎がうまれたまちであると。
豊田佐吉は豊田紡織(現 トヨタ紡織)、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所(現 豊田自動織機)を
創業、トヨタグループの創始者である。
豊田喜一郎は豊田佐吉の長男でトヨタ自動車創業者。

トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)社長(第2代)、社団法人自動車技術会会長(第2代)
などを歴任した。
トヨタグループ創業者豊田佐吉の誕生120年を記念して、佐吉の誕生の地に1988年10月に
オープンした『
豊田佐吉記念館』があると。



この日の『旧東海道を歩く(浜松駅~新居宿)』のコース。
ひたすらJR東海道線、新幹線に沿って歩き、浜名湖を越えて行くのであった。



浜松駅まで約20分の移動。そしてこのひの旧東海道歩きのスタート。
浜松アクトタワーを振り返って。



浜松市水道のマンホール。
出世大名 家康くん と出世法師 直虎ちゃん。



時計は7:32を示していた。



新幹線沿いを進みこの先を成子交差点方面に右折。



この成子交差点付近には『西番所』があったとのことであるが、
石碑や案内板等は見つけることが出来なかった。



「成子」交差点を通過。



直線道路が続く中、新幹線のガードを潜る。



ガードを抜けると八丁畷(はっちょうなわて)と呼ばれる、まっすぐな道が
八丁(約800m)程続く。松並木が続く美しい所だったのだそうだ。
「八丁畷」というの川崎宿を出た先にもあった。
そしてバス停『よろい橋』を通過。
ここは今から約900年に比叡山延暦寺と鴨江寺の僧兵が対峙した言わば古戦場。
戦死者を葬ったとされる千塚(血塚とも)がどこに築かれていたのか今となってはわからないと。
平安の昔に思いを馳せてここを歩く。



浜松市中区から南区に入る。



前方に『鎧橋』。
平安時代末期、比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めた時、鴨江寺側の兵は辺り一帯の田に水をはり、
鎧を着てこの橋の守りを固めて戦ったところから鎧橋の名がついたと。



下を流れる『堀留川』。



『鎧橋』と書かれた木柱。



『鎧橋(よろいばし)』。
「平安時代末期(八百年~九百年前)戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺(かもえじ)を
攻めた時、鴨江寺側の軍兵は、この辺一帯の水田に水を張り、鎧(よろい)を着て、この橋の
守りを固めて戦ったので、その後、鎧橋と称したという。
その時の双方の戦死者およそ千人を鎧橋の北側に葬り、千塚(または血塚)と言ったと
伝えられている。」



『八丁縄手』



「森田から東若林へ続く旧東海道の長い畷を「八丁縄手(畷)」と読んでいる。
八丁縄手と呼ばれるようになった時代は明らかではないが、近くに「八丁」や「縄手」などが
古い地名として残っているので、直線に延びた長い見事な松並木の道が、何時となく土地の
人々の間で「八丁縄手」と呼ぶようになったということである。
伊場の坂下にあった鴨江寺の鳥居が、ここから望見された昔は、「鳥居縄手」とも
呼ばれていた。」



『若林一里塚跡』
鎧橋の先の左側にある岡本眼科クリニックの看板の脇に若林一塚跡があった。



「・・・・、ここは江戸日より66里、昔は土手のある松並木が続いて(八丁縄手)、
榎は街道を行く旅人の道標でした。」



東若林の交差点を進む。



交差点先の先の両側にあったのが『二つ御堂』。
奥州平泉の藤原秀衡公とその愛妾によって天治年間(1124-26)に創建されたものであり、
北堂は愛妾が秀衡が京で病気の為亡くなったとの誤報を受けて建立したもので、
境内には二つ御堂解説と馬頭観音・弘法大師像・高札場跡標柱が建っており、御堂の西側には
秀衡の松がある。




右手にあったのが二つ御堂の内の北堂・『阿弥陀堂』。



北堂・『阿弥陀堂』。



『二つ御堂』、『高札場跡』、『馬場観音』の案内板が並んでいた。



「奥州平泉の藤原秀衡と、その愛妾によって、天治年間(1125年ごろ)創建されたと
伝えられている。
京へ出向いている秀衡公が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上る途中、ここで飛脚より
秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提をともらうために、北のお堂(阿弥陀如来)を
建てたという。一方、京の秀衡公は、病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、
愛妾への感謝の気持をこめて、南のお堂(薬師如来)を建てたという。
現在の北堂は、昭和三十年改築、阿弥陀如来・地蔵菩薩・毘沙門天が、南堂は、昭和十二年新築、
薬師如来・不動明王・大日如来が祭られている。
毎年十二月十四日、供養が行われている。」



『高札場跡』
「この付近に柱を立てて高札を掲げた高札場がありました。
村の人々に法令やおふれを周知させるために書かれた木札を考察といいます。
明治三年(1870)ごろ廃止されました。」

『馬頭観音』
「宝冠に馬頭をいただき、憤怒の相をした三面八の観世音菩薩である。
交通b運搬、農耕等のため極めて重要であった馬の供養と結合して、江戸時代の庶民の信仰を
集めた。」



この石仏は??



北堂・『阿弥陀堂』裏の墓石群。



二つ御堂(北堂)の道路を挟んだ向かい側に二つ御堂(南堂・薬師堂)が建っていた。

南堂は、秀衡が愛妾への感謝の気持ちを込めて建立したもので、御堂には
薬師如来・不動明王・大日如来が祭られており、境内には明治天皇御野立所記念碑が
建っていた。



『南無薬師瑠璃光如来』の幟。



南堂・『薬師堂』から北堂・『阿弥陀堂』を見る。



南堂・『薬師堂』左には『明治天皇御野立所記念碑』が。



北堂・『阿弥陀堂』の横にあったのが『村社 八幡神社』。



正面から鳥居その奥に社殿(拝殿)を見る。



境内参道を進む。



扁額には『天照皇大御神、大雀命、倭健命、大山津見命、加藤清正公』と。



『拝殿』。
八幡神社の創建年代等は不詳であるが、山城国(京都府)の石清水八幡宮より勧請したと。



ご祭神は品陀和気命(応神天皇)である。



若林の松並木。



『名残松』。
街道を先に進むと左側に東海道の松並木標柱があり、前後にまばらに『名残松』が立っている。
写真は、振り返って撮影したもの。



右手には『可美小学校跡』
可美市民サービスセンターの場所が可美小学校の旧地。



明治六年   高塚学校として創立。 
 大正三年   可美尋常小学校となる。 
 昭和二十二年 可美村立可美小学校となる。 
        (増楽町に移転) 
 昭和二十九年 跡地位可美村役場となる。 
 平成三年     浜松市に合併。 
        可美村役場は可美市民サービスセンター 

『天皇皇后両陛下行幸啓記念』碑も。

                           
                              

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Last updated  2019.06.22 00:00:19
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2019.06.21
カテゴリ:旅行
この日(5月23日)の旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)を完歩し、前夜に宿泊した
ホテルの提携駐車場で旅ともの愛車に乗り換えこの日のJR鷲津駅前のホテルに向かう予定で
あったが、時間が早いため、浜松市内の遠州灘に面した『中田島砂丘』を訪ねた。
馬込川河口にある『風車公園』の無料駐車場に車を駐める。



回転はしていなかったが、大きな風車が迎えてくれた。



ここは『遠州灘海浜公園』の一つ。



『遠州灘海浜公園』には3箇所の大きな公園があり、愛称を公募し、そsれぞれ
風車公園、石人の星公園、凧場公園に決定したとのこと。


        【http://www.hama-park.or.jp/f-kanri/f-ennsyuu/ennsyuu-kahinn.htm】より


ここ風車公園には中田島砂丘あり、築山から馬込川河口や遠州灘を望むことが出来た。
その砂丘には風と砂が生み出す「風紋」も見られ、また海浜植物が自生する恵まれた
環境の中に位置していたのであった。



『海岸までの歩行者通路』案内。



今は話題になっているプラスチック問題を提起しているガイド板。



そしてこの『中田島砂丘』は、夏にはアカウミガメが産卵のために上陸すると。
産んだ卵は囲いに入れられ、孵化したら人によって放流されるのだと。
およそ中田島砂丘12kmが文化財(天然記念物)に指定されているのだ。
また砂丘という環境からハマヒルガオやコウボウムギといった海浜植物が多く見られると。



アカウミガメの囲いの中の『ハマヒルガオ』。



近くに生えていた『コウボウムギ』。



砂丘を上っていく。
旅友のSさんは、カメラの電池切れとのことで電池交換のために駐車場の愛車まで戻る。



鳥取県の鳥取砂丘ほどは広くないが、正しく『砂丘』。
ここ中田島砂丘には、写真のごとく『堆砂垣(たいさがき)』と呼ばれる施設があった。
これは砂浜に砂が積もるよう促し、砂丘の面積が減少するのを防ぐ施設である。
これが砂に埋まりそうになった時は上部に増やしていく。
近隣の静岡県立浜松江之島高等学校や、市内の郵便局、ボランティア団体等が毎年設置していると。



急な砂丘の斜面をひたすら登って行った。



横には『堆砂垣』が。



そして砂丘の頂上まで辿り着くと、前方には真っ青な遠州灘が拡がっていた。



左手奥には『浜松市 南部清掃工場』が。



登って来た砂丘斜面を振り返る。



海岸には親子であろうか、カップルであろうか二人連れが。



白波が打ち寄せて。



時々、大きな波も。



浜松市内方面の眺望。浜松アクトタワーが聳え立つ。



そして漸く旅友が戻って来て砂丘を必死に登る。



私は美しい貝殻を拾う。



クレーターの如き形状の場所も。



そして帰路に『風紋』を発見。



東西4km、南北600mにわたる中田島砂丘は、日本三大砂丘のひとつとも。
遠州灘から吹く強い風によって生み出される「風紋」は一見の価値あり。
連続するやわらかな曲線は、まさに風の芸術。
砂丘を越えるとどこまでも続く太平洋が広がり、水平線に沈む夕陽の美しさは格別なのだと。



中田島砂丘』を後にし、国道1号線に向けて進む。



そして国道301号線に入り浜名湖を渡る。
弁天島に架かる『中浜名橋』からの国道1号線『浜名大橋』。



そして中浜名橋を渡り『湖西市』に入る。



『西浜名橋』を渡る。



右手前方にオレンジ瓦の白の如き建物が。



そして鷲津駅前のこの日のホテルに到着。
部屋からの浜名湖の眺め。



浜名湖の浜松方面。







Last updated  2019.06.21 00:00:19
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2019.06.20
カテゴリ:旅行
次に訪ねたのが『五社神社・諏訪神社』。
隣接して鎮座していた五社神社と諏訪神社とが、昭和35年(1960年)に法人格を一つとして
五社神社・諏訪神社と称したものである。合併の後に神社本庁の別表神社に加列された。
現社殿は昭和57年(1982年)の再建である。両社ともに徳川秀忠の産土神とされたことから、
子守り、子育ての神として人々の崇敬を集めていると。



朱の大鳥居の扁額『五社神社 諏訪神社』。



『五社神社 諏訪神社 由緒』
「五社神社
曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建した事に始まると伝えられる。
後、徳川家康公、浜松城主となり天正7年(西暦1579年)4月7日、秀忠公誕生に当り
産土神として崇敬し、現在地に社殿を造営し天正8年(西暦1580年)遷座す。
寛永11年(西暦1634年)家光公上洛の砌、社参し朱印300石を奉る。その節改めて社殿の造営が
なされ、寛永18年(西暦1641年)竣工す。「お江戸見たくば五社諏訪ごろじ お江戸まさりの
五社や諏訪」と謡われ戦前まで国宝建造物に指定されていた社殿がこれである。
諏訪神社
延暦10年(西暦791年)、坂上田村麻呂が東征の砌、敷智郡上中島村に奉斎と伝えられる。
弘治2年(西暦1556年)に曳馬城下、大手前に遷座される。
秀忠公誕生に当り、五社神社と同じく産土神として崇敬され、天正7年(西暦1579年)徳川家康公、
社殿を造営す。
元和元年(西暦1615年)、秀忠公、社地を杉山に改め、更に寛永11年(西暦1634年)、家光公、
社参し朱印300石を奉ると共に現在地に社地を遷し、寛永18年(西暦1641年)竣工す。
国宝建造物に指定されるも、昭和20年(西暦1945年)戦災により五社神社と共に消失す。
五社神社 諏訪神社
昭和37年(西暦1962年)、両社が合祀され、新たに五社神社諏訪神社として発足する。
                         【五社神社諏訪神社HPより】」



『光海霊神(うなでりのみたま)の碑』。



賀茂真淵が、師の森暉昌(もり てるまさ 荷田春満の弟子、五社神社神職)を顕彰して
明和四年(1747年)に建立に建立した碑。
この碑は現在、ここ五社神社・諏訪神社にあるが、第二次世界大戦中1945年6月18日の
空襲により碑の上部が破損している。



「賀茂真淵大人がその師、五社神社神主森暉昌大人の功業を記したる漢文体の誌銘なり。
真淵大人の心情を遺憾なく吐露せしものなり。
森暉昌大人は諡号を「光海霊神」と称す。近世国学の創始者荷田春満大人の門流にして
賀茂真淵大人若年の学父とも尊親したる碩学なり。
この碑は明和4年5月建立せらる。
惜しむらくは昭和20年6月18日戦火により上部損壊せしも真淵大人の本意は
ここに歴然として存す。」



『拝殿』へ向かって進む。



『手水舎』。
「徳川3代将軍家光公 寛永11年7月当社に参詣あり。
時の浜松城主高力忠房を普請奉行として、社殿を修造せしむ。完成の後、本手水鉢寄進す。
この手水鉢は花崗岩を素材とす。四方に枠取りなく素朴なる形式と水穴深く角を正確に掘たるは、
古式に属し、貴重な文化財なり。正面に次の如く刻す
 奉寄進
 五社大明神
 寛永十五年戊寅年五月吉日
 高力攝津守従五位下  平忠房
高力忠房は2代将軍秀忠の寵を得、元服の際 「忠」の一字を賜り 忠房となのる。
温厚篤実なる人格は、領民に敬慕されたり。」



『拝殿』。
五社神社は、太玉命、武雷命、斎主命、天児屋根命、姫大神の五柱の神を主祭神とし、
ここから「五社神社」という社名になっている。元々は太玉命を祀る神社であったものに、
春日大社の祭神四柱を勧請して現在の五柱となったものと見られている。
戦国時代初期の曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建したのに始まるといわれる。
後に徳川家康が浜松城主になり、天正7年(1579年)に三男長松(後の徳川秀忠)が誕生すると
当社を産土神とし、現在地に社殿を建立して天正8年(1580年)7月に遷座、社領15石を寄進した。
慶長15年(1610年)に秀忠から100石が寄進された。寛永11年(1634年)の家光上洛の際、
東照宮(徳川家康)を勧請し、200石が加えられ、以降、300石の朱印地を領することとなった。
明治6年(1873年)に県社に列格した。
かつての社殿は寛永18年(1641年)に家光の命で再建されたもので、大正3(1914年)に
特別保護建造物(現行法の「重要文化財」に相当)に指定されたが、昭和20年(1945年)
618日に第二次世界大戦の戦災(浜松空襲)により全焼した。
焼失した社殿は、拝殿・石の間・本殿が一体となった権現造であった。
-御祭神-
[五社神社]
     太玉命 武雷命 斎主命 天児屋根命 姫大神
 (相殿) 応神天皇 舎人親王 菅原道真公 徳川家康公



『狛犬』(右)。



『狛犬』(左)。



拝殿の『扁額』。
諏訪神社は、
延暦10年(791年)に坂上田村麻呂が東征の折に敷智郡上中島村(現在の浜松市天神町)に
奉斎したのに始まるとされる。幾度かの変遷を経て、弘治2年(1556年)に神託により
浜松に遷され、五社神社と同じく徳川家の崇敬を受けた。
寛永11年(1634年)の家光上洛の際に、五社神社と同じく東照宮を勧請し、社領の加増を受け、
以降300石の朱印地を領することとなった。
寛永18年、家光の命により現在地の五社神社社殿の隣に社殿が造営され、遷座した。
旧社殿には元和元年(1615年)と寛永18年(1641年)の棟札があった。この社殿は様式的にみて、
元和年間建立のものを寛永年間に移転改築したものとみられる。
この旧社殿は昭和13年(1938年)に当時の国宝保存法に基づく国宝(現行法の「
重要文化財」に相当)に指定されたが、昭和20年6月18日に戦災により全焼した。
権現造の社殿のほか、透塀、唐門、楼門を含む4棟が旧国宝に指定されていた。
-御祭神-
[諏訪神社]
     建御名方命 八坂刀売命 事代主命
 (相殿) 徳川家康公



拝殿の内部。



同行の旅友は昭和二十二年生まれ。



『五宝稲荷社』。



拝殿前から鳥居方向を見る。



『社務所』。



御朱印を頂きました。



『浜松復興紀念館』の裏手を通る。



浜松市は太平洋戦争において艦砲射撃を含め、実に27回に及ぶはげしい空襲を受け、
市街地の大部分が焦土と化しました。
戦後いち早く着手した復興土地区画整理事業も、昭和58年3月中央工区の換地処分を
最後に長期間にわたる事業が終了いたしました。
浜松復興記念館は、この事業の完成を記念して昭和63年に開館しました。



ザサシティー浜松のトルコサンドウィッチ「ケバブ」の専門店『Mega Kebab』で一休み。



伸び~~る伸び~~るトルコアイスクリームを楽しむ。



光の芸術。



浜松駅前モール街店を散策。



「カルミア」か?



遠鉄電車(赤電)新浜松駅前。



新浜松駅前カリヨン『​友愛の鐘​👈リンク』。
1日6回、定時に曲が鳴るのですが、四季によって奏でる曲が変わるというのが特徴的。



『浜松アクトタワー』



浜松駅北口前をエスカレーターで地下に降りると、階段の左:西側は
滝と噴水のあるサンクンガーデンになっていた。



蓮田修吾郎(金沢/1915-2010)作の巨大なモニュメント『伸びゆく浜松』。



滝が涼しげに。



地上を見上げる。



浜松市のゆるキャラ・出世大名「家康くん」のモザイカルチャーのある噴水前。



再び『浜松アクトタワー』を。



時間はまだ14:47。



駅の中央通路には、『リニア中央新幹線の開業に向けて』のパネル展示が。



品川から名古屋まで最速40分と。
しかし、未だ名古屋以降のルートは未決定?



山梨リニア実験線を走行するL0(エル・ゼロ)系。



浜松市のゆるキャラ・出世大名「家康くん」人形もお土産に販売中。



『​浜松駅南口のカリヨン​👈リンク』の下の大きな大理石の球。
噴水の水圧で浮き上がりゆっくりと自由に回転していました。



『元祖 日本で二番目に大きいたい焼き』。
『二番目商法』?ちなみに、日本で一番大きいたい焼きは、60cm、3.5kgらしい。




                             ​その12​  に戻る。

       ・・・旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松) 完・・・







Last updated  2019.06.20 00:00:19
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2019.06.19
カテゴリ:旅行
今日から、いつもの旅友Sさんと『歴史を感じる 中国・東北地方7名所大周遊8日間』に
行ってきます。『中国・東北地方7名所』とは日本では『旧満州』とも呼ばれる
ハルビン(哈爾浜)、長春(旧新京)、瀋陽(旧奉天)、丹東(旧安東)、本溪、
大連、旅順で、これらの都市を8日間で巡る旅です。



ハルビン(哈爾浜)は我が亡き父が、終戦の2年前に行っていた場所なのです。
図書館で本を借り、少しばかりの予習も。



昨日、添乗員の男性から電話連絡が在り、ツアーは11名と予想より少なかったのです。
今回もトランクとリュックで参加します。
今回の宿泊ホテルは、幸いどこも街中にあるようですので、早朝散歩で朝の街の姿も
楽しみたいと思っています。



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そして旧東海道を歩く(見付(磐田駅)~浜松)の続きです。

『二の丸』
「本丸の東に位置して土地も一段と低い。
ここは城主の家と浜松藩の政治をおこなう政庁があり、江戸時代を通じて藩の政治の
中心であった。広さはおよそ五〇〇〇m2(一五〇〇坪)、主な建物は表御殿
(藩の政治をする所)と奥御殿(城主の家)であり多くの部屋があった。」

現在は市役所と元城小学校体育館が建てられている。」
本丸の東どなりにあり、土地も一段と低くなっている。本丸との間には空濠があり
東側に2代将軍秀忠が生まれた御誕生場がある。
この二の丸と、これに付属する北側と東側に広場があり、周囲を低い石垣でかこむ。
二の丸には城主の居館があり、また浜松藩の政庁も設けられて江戸時代を通じて
藩政の中心であった。




『本丸』
「天守閣が城の象徴なら、本丸は本拠。普通の城は天守閣を囲むように本丸が配置されているが、
浜松城は、斜面を階段のように利用したため、天守閣と本丸が東西に線上に並んでいる。
本丸は、天守閣の東、天守台より約17m下に設けられた。南面に鉄門がある。
ここには富士見櫓と菱櫓があり、鉄門の西の石垣には多門が設けられ厳重な構えになっていた。」



『若き日の徳川家康公像』を再び振り返る。



『家康在城時の浜松城Ⅰ』
「『武徳編年修正』によると、1569年(永徳12年)5月7日に、「愼君引馬ノ城へ帰リ玉ヒ
城ノ名ヲ浜松ト称スヘキ由」tぴう記述があり、家康が城の名を浜松に改称したと考えられます。
これにより近世都市「浜松」の名前が定着しました。
家康が正式に浜松城に移った時期は、文献によってずれがありますが、1570年(元亀元年)と
されています。その後、1577~1582年(天正5年~10年)に浜松城の普請が行われています。
家康は、前身の引馬城を徐々に拡張しながら、時間をかけて浜松城・・・」



『家康在城時の浜松城Ⅱ』。
「今川氏の滅亡によって、遠江は家康と甲斐の武田氏との戦場となります。家康は浜松城を
本拠地として、各地の城を補修、新築しながら、その勢力を急速に拡大していきました。
一方、武田軍は、駿河や東三河方面から遠江に侵攻して、各戦いにおいて勝利を重ねながら、
浜松城に迫っていました。
1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦いでは、城の北西部にある犀ヶ崖付近まで武田軍に
攻め込まれ、家康は命からがら浜松城に逃げ帰ったと伝えられています。
当時の浜松城は武田氏との戦いにおいての出撃点であり、防御の要となる重要な城であったと
考えられています。」



『家康在城時の浜松城Ⅲ』。
「家康在城期の浜松城は、石垣や瓦葺きの建物がない、戦国時代の実用的な土づくりの城であったと
考えられています。イメージ図では、堀と土塁、木製の柵をめぐらせた曲輪を配し、簡素な物見櫓と
板葺き屋根の建物を表現しています。
これまでの発掘調査により、家康在城期とされる異物が元城町王将宮、作左曲輪、清水曲輪から
出土していますが、旧元城小学校内で発見された井戸跡からは、瓦片が出土しており、家康が
瓦を使った建物の造営に着手していた可能性も考えられます。」



『家康在城時の浜松城Ⅳ』。
「堀の特徴
堀の規模は、幅9.7m、深さ1.7mであり、近代以降に削り取られた地盤の高さを考慮すると、
本来の深さは、3m程であったと推定されます。堀の斜面には石垣がにことから、
いわゆる「土づくり」の構造であったことが分かっています。」



『新たに発見された石垣 発掘調査により判明』
「この石垣は、2014年(平成26年)に行った発掘調査によりはっけんされました
翌年には石垣部分の全面検出を行っています。
発見された石垣には、天守台と同様に自然石を利用して積み上げられた野面積であり、
石を横長に配し、横に目地(つなぎ目)が通るようにする布積みといわれる石積み技法が
みられます。この石垣の状況から、堀尾吉晴在城期(1590年代)とされる遺構と考えられます。
遺構の保護をはかりながら、2018年(平成30年)に整備を行いました。整備の主な手法は
次のとおりです。
・石垣上部に同じ石材を貼り付け、風合いを整える。
・石垣下段に盛土を行い、基礎部分の劣化を抑える。」



『浜松城の変遷Ⅰ』。
「①今川氏支配下による引間城の時代(16世紀前半)
浜松城の前身は、15世紀頃に築かれた引間城です。引間城は引間宿の西側に並ぶ丘陵地に
築城されました。築城時の城主は不明ですが、16世紀前半には今川氏支配下の飯尾氏が城主を
務めていました。この城は、4箇所の曲輪を複合した方形の構造をしており、現在も浜松城公園の
北東部にある元城町東照宮境内にその名残を留めています。」
②徳川家康による浜松城築城期の時代(1580年頃)
1570年(元亀元年)、今川氏の滅亡によって、徳川家康は三河の岡崎から浜松に移りました。
引間城は浜松城と改称され、甲斐の武田信玄の侵攻に備える前線基地として拡張、整備されました。
浜松城は、軍事施設としての実用的な城であったと創造されますが、家康在城期の城の具体的な
記録や絵図は残されていません。近年の発掘調査によりその姿が解明されつつ有ります。



『浜松城の変遷Ⅱ』。
「③堀尾吉晴による織豊系城郭化の時代(1590年~1600年)
1590年(天正18年)の小田原合戦後、豊臣秀吉によって家康は関東に威風され、その後、
秀吉の重臣であう堀尾吉晴が城主となりました。吉晴は豊臣氏の権威を示すために、当時の
最新技術である高石垣や豪壮な天守を備えた織豊系城郭に造り変えました。
現在、浜松城に残る石垣は、吉晴在城時に築かれたものと考えられています。
④徳川譜代による近世浜松城の時代(17世紀前半以降)
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで家康が西軍に勝利すると、浜松城は徳川譜代の大名が
治める城となりました。戦乱の時代が終わり、浜松城は行政施設としての体裁が整えられました。
豪壮な天守は17世紀前半に失われたとみられますが、三の丸の拡張や大手門の新設などが
城下町の整備と一体となって行われました。」



浜松城公園 本丸南広場より浜松城の勇姿を見る。



ズームで。



『本丸南の空堀』。
「この堀は、天守曲輪を含む本丸一帯の防御機能を高めるために設けられた空堀でした。
この堀の特徴は、空堀の中央部に土手(中土手)に設け、起伏(高低差)をつくり出すことで、
敵の侵攻を鈍らせ、鉄砲や弓矢での攻撃をしやすくしたつくりであったと考えられています。
さらに、本丸に近い北東部には袋地のような箇所を設け、堀の奥まで侵攻した的が塀沿いに
移動してきたところを三方(前方、左右)から攻撃できるように工夫をされていたと
考えられています。なお、この堀は公園南側の道路の下にあると考えられていますが、
その大きさ(範囲)については、明確になっていません。」



三方ヶ原の戦いで敗れ、浜松城に逃げ帰った家康公が、鎧を脱いでこの松に掛けたという
伝説から、この名が付けられました。
この松は浜松城内の堀の近くにあったといわれています。



「元亀3年(1572)家康は三方原の合戦から城に帰り、大きな松の木陰で休んだ。
そのとき鎧を脱いでその松に掛けたことから、鎧掛松と呼ばれている。
この松は昭和56年に元城町の人々の手により植樹された三代目。初代は浜松城内の
堀のそばにあった。また当時鎧掛松近くの清水で合戦により疲れた馬の体を冷やした
ところは馬冷といって、その地名が今も浜松町内に残っている。」



『連尺』交差点手前が『浜松城大手門跡』。
この付近の道路中央部に、浜松城の正門つまり大手門があったのだと。
南面する間口8間(約14,6m)奥行4間(約7,3m)の瓦葺の建物で常に武器を備え、
出入りが厳しく取り締まられていたと。



『浜松城大手門跡』碑。



「この付近の道路中央部に、浜松城の正門つまり大手門がありました。
南面する間口8間(約14.6m)、奥行4間(約7.3m)の瓦葺きの建物で、つねに武器を備え、
出入が厳しく取り締られていました。 」。



『高札場跡』前。



『高札場跡』
谷島屋書店前rあった『高札場跡』碑。
『谷島屋書店』と刻まれた石碑の文字は島崎藤村の筆によると。
「昭和13年(1938)連尺町本店が古風な土蔵造りから洋風の近代店舗に生まれかわり、
文豪、島崎藤村の手になる大文字が大理石に刻まれて店頭高く掲げられました。
この文字について藤村は「筆を執るまでに永い時間を費やしたが、ある朝大木のたたずまいを
見て心がきまり、短い時間で書き上げた」と語れました。
それから7年後、戦火によって砕かれましたが、昭和47年(1972)藤村生誕100年と
谷島屋創業100年を記念して、遺された写真により縮尺復刻したものです。
島崎藤村の「簡素」な風格をよく伝えています。 」と。



「この付近の車道中程に、柵で囲い柱を立てて高札を掲げた高札場がありました。
城下・宿場の人々に法令や犯罪人の罪状などを周知させるために書かれた木札を
高札とか制札といいます。」



『佐藤本陣跡』



「大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。
ここは、浜松の本陣6ヶ所の内のひとつ、佐藤家の本陣跡で。
建坪がおよそ225坪(約745㎡)ありました。」



『佐藤本陣跡』の直ぐ先にあったのが『江馬殿小路跡』。



『江馬殿小路跡』の説明板。
「今の連尺町・伝馬町・肴町の町境にあった小路で、幅は一間半(約2.7m)あった。
肴町に魚市場があった頃は大八車の往来が盛んで、両側には飲食店を扱う店があり、
一名”うまいもの小路”ともいわれていた。 映画監督木下恵介氏の生家尾張屋もこの
小路中程の南側にあった。 古文書「曳駒拾遺」によると、飯尾豊前守連龍が曳馬城にて
浜松を治めていた永禄の頃、家老の一人江馬安芸守泰顕の屋敷が今の五社小路の下あたりに
あったことから、 この屋敷の脇道を江馬殿小路と呼ぶようになったという。
また、江馬殿小路は俗称沼殿小路とも呼ばれた。 終戦後の区画整理で住宅が南によったために
なくなってしまったが、ここにあった老舗の中で肴町の桝形、弁いち、伝馬町の柳川亭、
千歳町の井口堂、高町の久の秀 などは今も伝統の味を伝えている。 」



三菱UFJ銀行前、地下に潜る階段手前にあった『川口本陣跡』。



「大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。
ここは、浜松の本陣6ヶ所の内でもっとも新しくできた川口家の本陣跡です。
建坪がおよそ163坪(約540㎡)あったといいます。」



浜松信用金庫(はましん) 伝馬町支店前にあったのが『杉浦本陣跡』。
元亀元年(1570)家康入城と共に名主役に、慶長6年(1601)伝馬制が定められた時、
問屋役を命じられた。室町後期から続く古い家柄。



『杉浦本陣跡』石碑の脇の道路入口に。



「大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。
ここは、浜松の本陣6ヶ所の内でもっとも古い杉浦家の本陣跡です。
建坪がおよそ272坪(約900㎡)ありました。」



『川口本陣跡』の対角線方向、伝馬町交差点の角には『梅屋本陣跡』が。
「大名・公家・幕府役人など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。
ここは、浜松六本陣の内梅屋家の本陣跡で建坪は180坪(約600㎡)でした。
国学者賀茂真淵(本名庄助)は梅屋敷の婿養子でした。」



『本陣跡』石柱。



この後、伝馬町交差点を西に向かう。
浜松市中区伝馬町交差点付近のビルの壁画。
アルゼンチンを代表する英雄、チェ・ゲバラとマラドーナ。
なぜこの二人?サッカー王国静岡県なのでマラドーナはともかく、浜松の街角にゲバラは??。



栄町交差点を通過する。
この周辺は完全にモール化されていた。



右手にあったのが『金山神社』。



短い参道。



『拝殿』。



金山神社の『絵馬と献額』。
「献額」とは実物を額装して、神社に奉献する事。
例えば、刃物、鏝、鋏、針等を使っていた職人さんが、種々の事情で仕事を辞めた時、
奉納するのだと。



『金山神社 沿革』。
美濃の南宮大社は記紀時代よりなる、重要文化財にもなっている有名な神社で、
御祭神の金山彦神(かなやまひこのかみ)・金山姫神(かなやまびめのかみ)は
鉱山の神様。鉱業・鍛冶など、金属に関する技工を守護する神である。
当然この金山神社の御祭神も同じ金山彦神・金山姫神である。



道路の反対側に白き建物が。
『木下惠介記念館』。



木下惠介が浜松市出身の映画監督であることから、同市に設置されている。
記念館は、浜松市指定有形文化財「旧浜松銀行協会」に設置されている。
第一展示室には、木下惠介の書斎が再現されており、過去の映画作品も閲覧することができる。
第二展示室では、木下惠介の生い立ちをたどる写真や映画ポスターなどが展示されている。
そのほかに、建物の設計者である中村與資平の資料室(中村與資平資料室)もあると。



五社公園(浜松市役所の跡地)への階段を登ると右手に『行幸記念碑』が。



『浜松市公会堂・児童会館跡』。



ズームで。



ネットから。


 【https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/koho2/pr/fb/konjyaku/11.html】より

U字型のモニュメント。



『ステンレスの樹 清川泰次』であると。



                              ​その11​  に戻る。

                  ・・・​つづく​・・・







Last updated  2019.06.19 04:46:03
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2019.06.18
カテゴリ:旅行
『遠江分器稲荷神社』を後にし、二俣街道を北に向かって進み左折すると左手にあったのが
『松下之綱屋敷推定地』碑。
「松下屋敷は戦国時代の国人領主、松下氏が居を構えた場所で、別名「頭陀寺城」とも
呼ばれています。
屋敷の敷地は100m四方ほどありました。この屋敷の主であった松下之綱(ゆきつな)には、
織田信長に仕える前の豊臣秀吉公が奉公したと伝わります。」



S字カーブの途中にあったのが『霜垂口(しもだれくち、下垂口)』
「古城(引間城)の東側の城門でしたが、浜松城の増築以後も浜松城の北東の城門として
維持されてきました。浜松城の天守台の向きからも、当初はこちら側が城の
正面にあたっていたと想像されます。
なお、道路の食い違いは、浜松城下で唯一現存する貴重な防御上の遺構です。」



前方に『浜松城の天守閣』が姿を現した。



ズームで。



右手に『東照宮』と刻まれた石碑。



東照宮の鳥居と社殿をズームで。



浜松城前の県道132号線に出る。
右手にホテルコンコルド浜松が見えた。



『東海道五拾三次之内 濱松 冬枯ノ図 安藤広重』
街道脇に立つ大きな杉の木の根元で、焚き火をしながら暖をとっている旅人たち。
焚き火から立ち上る煙が黒から白へと変化している様子を良く表現している。
刈入れの終わった田んぼの中に立て札のある松林があるが、
これは「颯々松(ざざんざのまつ)」と呼ばれた旧跡で、その昔将軍足利義教が松の下で
酒宴を催した際に「浜松の音はざざんざ」と謡い、以来ざざんざの松として有名になったという。
「ざざんざ」とは、風の音を表しますが、広重の描いた内容は全くの無風の好対照の情景です。
画面右奥に見えるのが浜松の宿場で、浜松城の天守閣も見える。
この「颯々松」はこの場所から直線距離で北東6~700m離れた、遠鉄電車の八幡駅近くにある
「浜松八幡宮」近くにあったとのこと。



左に曲がり浜松市役所方面に進む。



市役所手前を右折して坂道を上って行った。



突き当りを左折。



右手に『浜松城公園ご案内』。



安政年間の浜松城および城下町の様子と、現在の浜松中心部との比較ができる
浜松城公園周辺案内図。
ここを右に曲がり坂を上っていくと天守閣方面に。



浜松城は、三方ケ原台地の東南端にあって、徳川家康が築いた。家康は天文11年(1542)
三河国岡崎城内に誕生し、父は松平広忠。母に生別、駿府に少年時代を過ごすが、岡崎に戻り、
永禄11年(1568)に三河から近江に入り、各地を転戦して引馬城をはじめ諸城を
したがえると共に、元亀元年(1570)長子の信康に岡崎城をゆずって、自らは浜松城へ移り、
駿遠経営の本拠と定めた。
家康は、29歳から天正14年(1586)45歳で駿府城(静岡市)に入るまで、在城17年に
及んでいる。有名な姉川、長篠、高天城、小牧・長久手の戦いもこの期間に行われ、特に
元亀3年(1572)の三方ケ原合戦は、家康の生涯における難戦で、関ヶ原合戦以上の
戦いであった。家康にとって、この浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築く
試練の年でもあった。
当時の城郭は、南北500m、東西約450mで、三方ケ原台地の斜面に沿い、天守閣・本丸・
二の丸・三の丸がほぼ一直線に並び、梯郭式の築城法に属している。その他
作左曲輪(さくざくるわ)、出丸等もあった。
この浜松城は、豊臣の家臣、堀尾吉春氏によって天守が築かれたといわれているが、江戸に
幕府が開かれてからは、代々の諸大名にこれを守らせ、浜松藩制約260年の間に再任を含めて
25代の城主が在城した。在城中に老中に5人、大阪城代に2人、京都所司代に2人、寺社奉行に
4人(兼任を含む)が登用されており、中でも水野忠邦は、天保の改革でよく知られている。
そのことから、浜松城が出世城ともいわれるようになった。
明治維新以来、城郭は壊され、すっかり荒廃していたが、昭和33年春浜松市民の努力が結実し、
旧天守閣跡に、新天守閣が再建され、昭和34年6月1日市の史跡に指定された。
『浜松城公園園内マップ 園内のみどころ』。



『鉄門(くろがねもん) 浜松城の要となる門』
「鉄門は、文字通り扉や柱などの門の一部に鉄製の部材を使っていた門であったと考えられます。
本丸への正面出入口として重要な門であり、天守門と同様に門の上部に櫓を有する櫓門でした。
江戸時代前半の絵図(左上)には、門の内側に枡形(四角形)の虎口(侵攻してきた敵を前後左右
から攻撃できるようにした空間)が描かれ、高い防御機能を持っていたことがうかがえます。
1872年(明治5年)まで鉄門は存在していましたが、その後の払い下げ等により失われています。
なお、鉄門の推定位置については、東側の歩道路面にあるプレートにより確認する事ができます。」



『天守門』そして『天守門への階段』を支える石垣を見上げる。



『当時の石垣』。天守前広場に入る所に積まれている石垣。
「これは、四百年前の家康築城の頃の面影を残す貴重な石垣です。
登ったり石を引き抜くことは絶対にしないで下さい。」



『地震の際には、すみやかに石垣から離れてください。』と。



『天守門』を見上げる。
浜松城の中枢にあたる天守曲輪(てんしゅくるわ)の入口に建つ天守門は明治6年
(1873年)に解体されましたが 市により 櫓が載る建物である天守門の再建を行い
2013年〜2014年に掛けて天守門が原位置に復元されています。



『天守門』
「浜松城の天守門は天守曲輪の大手につくられた門で、安土桃山時代(16世紀末)に建てられ、
江戸時代に改修が繰り返された後、1873年(明治6年)に取り壊されました。
2009年度および2010年度の発掘調査で見つかった礎石や、19世紀の絵図などをもとに、
2014年(平成26年)3月に復元されました。総工費は1億7000万円で、三浦正幸先生が
復元図を作成されたそうです。
高さ9.4m、幅11m、奥行き5mの巨大な櫓門で、門の上にある櫓には武器や食料を保管し、
籠城戦になった際にはここから攻めて来る敵を弓矢や鉄砲で迎え撃てるようになっていました。
天守がなくなったあとも、そのまま明治維新まで残されていたと考えられています。」



『門脇(もんわき)の鏡石(かがみいし)』



「天守門の石垣正面は、左右ともに隅に巨石が用いられている。
この巨石を鏡石と呼ぶことがある。かつて城の壮大さや城主の権力を見せるため、門の両側や周辺に意図的に大きな石を
用いたと言われており、彦根城太鼓門櫓や、岡山城本丸、松本城太鼓門の石垣等に類例がある。巨石を用いた部分は算木積(石垣の角部を強固にするために、長い石材の長辺と短辺を
左右交互に振り分けて積む積み方)になっていない。
また、横長石も不揃いで、算木積とはいえない部分もある。



天守を見上げる。



『天守の礎石(そせき)』
「浜松市では平成21年度から天守門跡の発掘調査を行い、建物の痕跡を確認した。
「安政元年(1854)浜松城絵図」の天守門が描かれている場所からは、長軸1.0〜1.4m、
短軸0.9〜0.7mほどの扁平な礎石が4箇所と、礎石の抜取穴(ぬきとりあな)
2箇所が発見され、門柱の配置や門扉の大きさが確認された。
また、建物の屋根瓦や鯱瓦(しゃちがわら)の一部、土塀の瓦も多数確認された。
門の両脇の石垣上部からは、壁から剥がれ落ちた漆喰の痕跡も見つかっており、
江戸時代の天守門の姿を明らかにする際の参考にした。
礎石に載る門柱6本は、不整形な両脇の石垣の開きに沿うように配置される。
このような柱の配置は、桃山時代から江戸時代初期の櫓門にみられることから、
天守門は、幕末まで古式な城門の特徴を継承していたことがわかる。
天守門の復元工事では、本来の礎石配置を忠実に再現し、地下の礎石のほぼ真上に、
新しい礎石と門柱を配置した。
石は築城時の石垣に用いられたものと同じ浜名湖北部産の珪岩(けいがん)である。」



『浜松城の石垣(野面(のずら)積み)』
「浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすいように思えますが、
四百年の風雪に耐え、いまなお当時の面影を残しています。
この石垣は野面積みといい、自然石を上下に組み合わせて積む方法で、慶長(1596年~
1615年)以前はこの方法が多く用いられていました。石の大きい面を内側にして
長く押し込み(牛蒡積み)、その内側に小型の栗石を1~1.5mほど詰め、さらに
砂利を入れてあるので水はけもよく、水圧で崩れることがありません。
石垣表面の隙間には詰め石をし、外観は乱雑ですが、堅固に造られています。
浜松城は、特に天守台と天守門趾付近の石組みが硬く、石も大きなものが使われています。
また、突角部には長方形の石材を小口と側面が交互になるように配した算木積み法を
用いています。石垣の斜面は直線的で、57度~78度の傾斜をしています。
石垣に用いた石材は珪岩と呼ばれる物がほとんどで、そのほか石灰岩、結晶片岩などが
見られます。珪岩は浜名湖北岸の山々でみられ、現庄内地区の大草山や根本山、対岸の
湖西市知波田付近で切り出され、左鳴湖東岸まで船によって運ばれ、そして、
浜松城まで運ばれたと推定されます。
この石垣がいつの時代に築かれたかについては正確な資料がないのでわかりませんが、
二代城主堀尾吉晴の頃(1590)と考えられています。」



『浜松城跡』
「浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(一五七〇)六月に入城し、
十七年間在城した。東西六〇〇メートル、南北六五〇メートルの規模で、南の東海道に
大手門が開き、東から西へ三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。
ここは、その天守曲輪の跡である。家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に
老中まで栄進した人が多い。中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。
石垣は、野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、
浜松市の史跡に指定されている。」



天守を天守曲輪から見る。



『天守曲輪(くるわ)』
井戸の傍に説明板が立っていました。
曲輪というのは、城や砦を石や土で囲んだ所をいう。ここは丘陵の西のはしの最も高い所にあり
北東と南東の方向にはり出した菱型(東西56m・南北68m)に近い形をしている。
周囲は低い土塁(土でつくったへい)があり、その下に石垣をめぐらしている。
東に天守門、西に埋門(うずみもん)があり、内部は広場となっていた。



江戸幕府を開いた初代将軍・徳川家康公が29歳から17年間も在城していた城。

後には、この浜松城主になることが幕閣への登竜門とさえ言われていたとされており、
別名出世城と呼ばれる。
天守閣は三層四階構造で、昭和三十三年の再建である。



天守台にあるハートの石
浜松城の天守台にはハートに見える形をした石があり、その石探しがちょっとした
ブームになっている
この真ん中の石だそうです。ななめになってますが、いわれてみればハートに見えなくもない。



『天守門』 
「浜松城の第二代城主、堀尾吉晴は城の中枢である天守曲輪に天守を建築したと言われているが、
この天守は古図などの資料から、江戸初期には喪失していたと考えられる。
天守曲輪入口の天守門は幕末まで維持されたが、明治6年(1873)に解体され、払い下げられた。
「安政元年(1854)浜松城絵図」には安政地震による浜松城の被害状況が示されており、
天守門でも櫓の壁が一部潰れたものの、深刻な被害を免れた事が記載されている。
絵図には天守曲輪の外周を土塀が囲んでいる様子も描かれている。天守門は、門の上部に櫓が載る
櫓門と呼ばれる形式がとられている。天守門のように櫓が両側の石垣上にのびる渡櫓
(わたりやぐら)は、石垣を多用した西日本の城に多く見られる。
天守門(復元)の概要は次の通り
  1. 構造:木造・櫓門・入母屋造り・本瓦葺き
  2. 建築面積:78.01m2 延床面積 56.74m2
  3. 門部:正面柱間4.09m、冠木(正面梁)上端高4.12m
  4. 櫓部:桁行10.91m(36尺)、梁間5.00m(16.5尺)
  5. 高さ:10.28m(門下から櫓屋根の大棟上まで)
  6. 土塀:木造塀瓦葺き 門の両側約9mずつ」




マンガ『センゴク』の画も展示されていた。
(三方ケ原合戦の様子が描かれていると)



『天守台』
「浜松城の天守台は、一辺21mのややいびつな四角形をしていて、西側に八幡台と呼ばれる
突出部が付いている。また東側には、付櫓と呼ばれる張り出し部分があり、
現在は復興天守閣への入口として利用されている。
浜松城の天守は第二代城主堀尾吉春の在城期(1590頃)に築かれた説が有力だが、
17世紀の絵図には天守が描かれていない事から、江戸時代前期には天守が失われていたと
考えられている。昭和33年(1958)に作られた現在の復興天守閣は、天守台の大きさと
比べると小さいものである。
かつての浜松城は、築城時期等から大きな屋根を持つ下層部の上に小さな望楼が載せられる
「望楼型」であった説が有力である。その規模は天守台の大きさから推測すると現在よりも
一回り大きい三重四階で、巨大な天守だったと考えられる。」



浜松城天守入口。



内部は資料館として使われており、徳川家康をはじめとした当時のゆかりの品々を
見学することができます。



『徳川家康の3D像』。
2015年、徳川家康公400年記念事業として制作された30歳前後の等身大家康像。



「手相・しわ・毛穴」まで再現され、今までにない家康公の姿を披露しているのだと。



『歯朶具足(しだぐそく)』(右)
徳川家康が霊夢により作らせた具足で御夢想形あるいは御霊夢形とも称されています。
兜に歯朶の葉形の前立がついていることから歯朶具足とも呼ばれました。
『金蛇美具足(きんだみぐそく)』(左)
総体が金泥または金箔でいろどられているために金蛇美具足と言われています。
桶狭間の戦いのときに、19歳の松平元康(後の徳川家康)が着用したものと伝えられています。



これも、徳川家康の武将姿の絵画であろうか?



天守入口前から天守門を見下ろす。



『井戸』
天守前広場に入った所にあった。



「この井戸は銀明水と呼ばれていたという。
浜松城には、天守台に一つ、天守曲輪の埋門のそばに一つ、本丸に一つ、二の丸に三つ、
作左曲輪に四つ、計十本の井戸があったという。
天守台の井戸は、再建の時に残し、今は、天守閣の地下室にある。
直径1.3m、深さは現在1mほどになっており水はない。」



『八幡台』。
天守台の北西にあたり、五段の石垣により天守台より高く、面積はおよそ40㎡
(12坪)あり、浜松城の中で最も高い所(419.9m)であります。
城を守る神社(多分、八幡大菩薩)をお祀りした所だといわれてます。
八幡大菩薩は武士の守り神として信仰されました。



『門下の排水溝』
「平成21年度からの発掘調査で、門下に瓦を用いた排水溝が発見された。
丸瓦を使用して排水溝を狭くしている部分があることから、かつて礎石が存在していた
時点には、排水溝が造られていたと考えられる。土層断面から、瓦の排水溝埋没後に
礎石の抜き取りがあったことがうかがえる。
排水溝は西側の雨落溝から屈曲し、南側の石垣に沿って配列されている。
排水溝に使用された瓦は、江戸前期までの古い特徴をもつもので構成されているが、
この排水溝がいつの時代に造られたものかは、正確には特定できていない。」



再び天守を。



『若き日の徳川家康公の銅像』
「この銅像は1981年(昭和56年)に建てられました。「徳川家康公は天文11年(1542年)
三河国岡崎城内に誕生した。
父は松平広忠、母に生別、駿府に少年時代を過ごしたが、岡崎に戻り独立の一歩を踏み出した。
元亀元年(1570年)遠江国へ進出、浜松に築城し、ここを根拠として着々と地歩を固めた。
その間17年、武田信玄のために大敗を喫した三方原合戦、正室築山殿嫡男信康を一時に
失うような家庭危機に遭遇したが、隠忍自重よくこれを克服し、東海を制圧、その領国は
遠江・三河・駿府・甲斐・信濃の五か国に及び、海道一の弓取り武名を馳せるにいたった。
そして常にこれを支えたものは浜松の地の利と人心の和であった。
浜松より駿府へ、さらに江戸に移り、江戸幕府を開き、二百六十年余の泰平の基礎を固めたが、
やがて駿府に退隠、元和2年(1616年)薨じた。
乱世を生きぬいた努力と忍苦の75年であった。
像は浜松時代の若き日の公の姿。
手にしたのは勝草と呼ばれためでたい歯朶である。」




                              ​その10​  に戻る。

                  ・・・​つづく​・・・







Last updated  2019.06.18 00:00:19
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2019.06.17
カテゴリ:旅行
琵琶橋の先、旧東海道・国道152号線を進むと、右手に『蒲神明宮(かばしんめいぐう)』の
一の鳥居が。社殿はここから700m程先にあった。
蒲神明宮は、藤原鎌足の子孫である越後守藤原静並公が伊勢大神のご神託を受け、蒲の生い茂る
この地一帯を開発し、大同元年(806)この地に伊勢神宮の御神体を分霊して創建した
浜松市最古の神社である。
境内には、厳島神社・五社稲荷神社・天王社など多くの境内社があると。



『国史現存 蒲大神』と刻まれた石碑。
浜松市東区神立町71-1にご鎮座する『蒲神明宮』
藤原鎌足十世(ふじわらのかまたりじっせい)の孫、越後守静並(えちごのかみしずなみ)が
伊勢神宮の神託を受け、この蒲の地を開拓し、美田(みた)550町歩(ちょうぶ)を神宮に
寄進し蒲御厨(かばみくりや)となし、神明宮を創設したと伝えられている。
以来、静並の子孫が神官と御厨(みくりや)の支配者を兼任し、蒲氏(かばし)を名乗った。
明治6年、蒲神明宮と改称され今日に至っている。



鳥居を潜り『蒲神明宮』に向かって歩き出し、「六間道路」を渡って進むが
スマホ地図で確認すると、まだまだ先にあることに気が付き、この日は諦めて
同じ道を戻ったのであった。
拝殿(内宮)の写真。次回に訪ねたいと。


        【https://www.wincl.wedding/hotel/detail2569/】より

そして再び旧東海道に戻り進み東区から中区に入る。



更に旧東海道を進むと、街道に面して右手に臨済宗妙心寺派の『北野山龍梅寺』があった。
龍梅寺の創建年代は不詳であるが、承応年間(1652-54)に創建されたと言われ、境内には、
焼き餅を供えれば願い事を叶えてくれるという
「焼餅地蔵菩薩」、東海道を通行中に
急病で亡くなった松平伊豆守信祝の娘光の墓もあると。
『臨済宗妙心寺派 北野山龍梅禅寺』と刻まれた寺標とその先に『山門』が。



『山門』。



山門の『北野山』と刻まれた扁額。



『六地蔵』。



『本堂』。
創建は江戸時代初期とされ、東海道に面した禅寺として地域はもとより
街道を往来する人々からも参詣されてきた。宗旨宗派は臨済宗妙心寺派で、
インドの達磨大師さまから中国の臨済禅師さまを経て、妙心寺開山無相大師さまへと
受け嗣がれてきた一流の禅を宗旨・教義としています。
山号・寺院名 :北野山 龍梅寺
宗旨・宗派    :臨済宗 妙心寺派
住所     :静岡県浜松市中区天神町3-43 



『本堂内部』。
見事な天井画が並んでいた。



『寺務所』。



『焼餅地蔵菩薩』



『堂内部』。



提灯の模様が美しかった。



『焼餅地蔵菩薩像』。
なんとなくすらっと長身な御地蔵様なのであった。



お顔をズームで。
餅を持ってるとか焼いてるとか・・・。
ヤキモチ焼いてイライラしている様子はなく、おだやかな表情、笑っているような・・・。



由来書がなかったので、NETで調べてみると下記の記載が。
「今は昔、三方原の片隅に小さなお地蔵さまが立っていた。誰が建てたのかはだれも分からない。
村の人たちは、「原のお地蔵さま」と呼んで大切にしていた。
ある日、近くに住んでいる農民の夢の中にお地蔵さまが出てきて、江戸の町へ連れて行って
欲しいと言った。
ふたつ返事で引き受けた農民は、次の朝、荷車にお地蔵さまを乗せて江戸へと向かった。
しかし、天神町の竜梅寺の門前まで来た時に、急にお地蔵様が重くなり、一歩も進むことが
できなくなった。
困った農民は竜梅寺にお地蔵さまをまつってくれるように頼むと、快く引き受け、お堂を建てて
くれた。それから、竜梅寺のお地蔵さまへお願いすると願い事がかなうと評判になり、
人々は願いをかなえてくれたお礼にと、焼いたやきもちを供えるようになったので
「やきもち地蔵さま」と呼ばれるようになった。」と。
『焼餅地蔵菩薩』の赤い幟が隙間なく並ぶ。



モミジ葉も陽光を浴びて緑に輝く。



そして再び旧東海道に戻ると前方に高層の『浜松アクトタワー』が姿を表した。



右手に『浜松酒造㈱』が。裏にあるのが工場のようであった。
1871(明治4)、現在地で、中村家が酒造業を興した。
1998(平成10)、南部杜氏の修行した増井美和が入社、2009(平成21)
浜松酒造・静岡県初の女性の杜氏が就任した。
2015年(平成27年)経営権が中村家から戸塚家へ譲渡され、現在当主・戸塚敦雄が、
「出世城(しゅっせじょう)」、「葵御紋(あおいごもん)」ブランドの日本酒と、
銘柄「出世城」の焼酎を醸造販売する老舗酒造メーカーである。



「空樽 1樽 どれでも 500円」と。植木鉢等に欲しかったが・・・。



浜松東警察署の先にあったのが『馬込一里塚跡』。
「江戸日本橋より六十五里(約260㎞)の所。道の両側に五間(約9m)四方の土を
盛り上げて塚となし、松・榎などを植え、旅人の目標とした。
塚は明治10年(1877)頃には取り壊されたという。
「馬込一里塚」の名称は静岡県史跡名勝天然記念物調査報告第三集(昭和2年)にみられる。
また資料によっては「向宿一里塚」ともいう。
この辺りは中世には宇間郷向宿、江戸時代は向宿村、現在は相生町という。」



天神町交差点横奥にはNTTのタワーが。



浜松市中区板屋町を進む。



そして『東鎧橋(ひがしよろいばし)』を渡る。



『浜松アクトタワー』が今度は左手に大きく。
『浜松城』まで2.2kmとの表示が。
浜松城標識の隣の電柱の下の木柱が『浜松宿外木戸跡』であったのであろう。



『馬込川』に架かる『馬込橋』を渡る。
この付近に「東番所」があり、いよいよ浜松宿が始まるのだ。
東海道53次の29番目の宿場である浜松には、かつて本陣6、脇本陣0、旅籠94軒があったと。
本陣が6軒もあるのは浜松宿と箱根宿だけであったと。



馬込川の上流側を見る。



『松江交差点』を渡る。



浜松市中区中央3丁目を進む。



ビルの間にあったのが『新組 新町屋台置場』。
浜松まつりで引き回される御殿屋台の倉庫であろう。



ネットで調べてみると、下の写真が格納されているようであった。


     【https://www.instaguz.com/post/2057870456704196188_2875688331】より。

右側に『夢告地蔵』(左)の堂が見えた。
TBSの日曜ドラマ「仁」にも登場した、安政5年のコレラの大流行で死んだ人たちを
供養するために建立された地蔵尊で遺族の香華が絶えなかったという。
この地蔵様は江戸時代末期のものだが、廃仏毀釈で地中に埋められてしまった。
ところが「助けてー、助けてー」と町民の夢枕に。 
かわいそうにと掘り起こされてこの地に安置されたのだと。



『​夢告地蔵​👈リンク』。



『大日如来青面金剛三猿』と刻まれた石碑も。



浜松市中区板屋町を進む。



『アクト通り北口』
静岡唯一の超高層浜松アクトタワー(212.77m)から北に伸びる、緑豊かな大通りの名称。
階段を降りていくと、浜松駅、アクトシティー方面への地下道に繋がっている模様。



『アクト通り』案内板。



『遠鉄電車』の高架橋の下を通過。



旧東海道を先に進むと、遠州鉄道鉄道線の高架下に『万年橋』があった。
現在は暗渠となっている新川を跨ぐ橋であるが、幕末に河井次郎八が石造りの太鼓橋に
架け替え、この時に長い歳月に耐えられるようにとの願を込めて 「万年橋」 と名付けられた。
現在の橋は、昭和58年に架け替えられたものであると。



田中屋の角を右折して旧東海道を離れて進む。
そして右手にあったのが『徳川家康家臣 本多忠勝屋敷推定地』。
『稲荷通り』と書かれた石柱も。



「本田忠勝(天文十七年~慶長十五年 1548~1610)は酒井忠次・榊原康政・井伊直政
とともに徳川四天王。江戸時代(十八世紀)に編纂された「曳駒拾遺」に「本多平八郎忠勝は
分器稲荷社の西の家也と云へり」と記されている。」



その先にあった『遠江分器稲荷神社』に立ち寄る。



永禄禄11年(1568年)創建と伝えられている。
旧境内850坪余り。
分器宇賀大神とも号し約1500年前、22代清寧天皇の御代に天竜河原開墾の為、鎮座。
徳川家康公が三河から浜松に入った時に倉稲魂神を祭神として社が構えられたという説や、
昔この辺りが伊勢神宮の神領であった頃に創建され、坂上田村麻呂が東征の際、勝利を
祈願したとの説も伝わっているそう。
明治7年には三組町の秋葉神社に合祀されましたが、明治11年に再興が許されています。
戦火前の社殿は徳川家康公の命により慶長9年(1604年)に建てられましたが
昭和20618日の空襲で消失しました。現在の社殿は戦後に再建されたもの。
浜松まつりの田町の凧絵柄は、分器稲荷の神紋である宝珠から生まれたものなのだそうです。



『拝殿』
拝殿前には金色のキツネさんが。



稲荷神社なので境内には、狛犬ならぬ金色の狛狐の姿も。
他にも、色んな種類の狐の置物があった。



更に近づいて。



奉納された多くの幟。



『本殿』。




                              ​その9​  に戻る。


                                                     ・・・​つづく​・・・







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