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2019.08.23
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更に『座間・ひまわりまつり』の会場を散策する。



そしてひまわりの種も100円/袋。



遊歩道沿いには、マリーゴールドや手前は千日紅であろうか。



こちらは後ろ姿。雲行きが怪しくなって来た。



ひまわりの花も自分で切って購入可能と。



こちらは鳳仙花(ほうせんか)であろう。
子供の頃に、指でぎゅっと触ると皮がめくれて種がはじけ、これを楽しんだ記憶が。



「ざまりん広場」にはひまわりまつりの本部テントが。
遊休地に市の花「ひまわり」を植え、座間市のまちおこし企画の一環にしたと。
ひまわりの枝葉の深緑は、たくましく発展を続ける市を、また大輪の花は、
市民の皆さんが手を結び合い、明るく健康なまちづくりを目指す姿を象徴していると。
開場は9:30~とのことで未だ係の方の姿は殆どなかった。時間は漸く7:20。



『ひまわり畑 案内図』。



ゴミの『分別ステーション』も色彩豊かに。



「ざまりん広場」は今日の準備が漸く開始。



『ひまわりまつり臨時路線バス時刻表』。
小田急線相武台前駅から臨時バスが12~15分間隔で運転されるようであった。
座間駅の方が近そうだが、いろいろと事情があるのであろう。



ひまわりの原産地は北アメリカ大陸西部であると考えられているとのこと。
既に紀元前からインディアンの食用作物として重要な位置を占めていたと。
1510年、スペイン人がヒマワリの種を持ち帰り、マドリード植物園で栽培を開始した。
マドリード植物園はダリアやコスモスが最初に栽培されたことでも有名であると。
ヒマワリがスペイン国外に持ち出されるまで100年近くを要し、ようやく17世紀に至り
フランス、次にロシアに伝わったのだと。
ロシアに到達してはじめて、その種子に大きな価値が認められたのだと。



現役中に仕事で中国の田舎を何回か訪ねたが、その折、老若男女がヒマワリの種を囲んで、
カリカリとハムスターのようにかじる姿は、可愛らしくもあったが、ちょっと不思議に
感じた事を想いだしたのであった。そして殻を口から床に向けてペッ、ペッと吐き出し、
床を散らかしていたのであった
そして、中国人が一番よく食べるおやつといえば、断然ヒマワリの種だろうとの言葉を
当時は聞いたのであったが、今回の満州旅行でも同様な姿を幾度か見たのであった。
記念撮影用のベンチと額が置かれていた。



タクシー乗り場、自転車駐輪場も用意されていた。



奥にはもう一つのひまわり畑が見えたが、更に雲行きが怪しくなって来たので引き返す。



帰路は全ての花が私を正面から迎えてくれたのであった。



多くの西洋ツバチが訪花中。



しばし西洋ミツバチを追いかける。









こちらはカップル用の木製ブランコ。



再び『ざまりん広場』まで戻る。
『ざまりん広場』は座間市マスコットキャラクター「ざまりん」から。



『ざまりん』。
顔はひまわりの花、顔から下はひまわりの種をイメージしているのか?


    【https://013704309081316.at.webry.info/201407/article_5.html】より

本日のステージイベントの予定のようだ。



「ルドベキア」は黒い目が特徴。宿根草でこぼれ種でも増える花。



ひまわり畑の中にはカラフルなパラソル、そして赤いベンチが。



展望台にあった帽子。



再び展望台を。一方通行の階段。



再び展望台から。
「まみれ」は漢字で「 塗れ」と書くのだ。
私の毎日は汗塗れ、泥塗れ、そして部屋はホコリ塗れ・・・・。









ひまわり畑の中の散策路を歩く。



青空を背景に。





1本だけ太陽に背を向けるひまわりの姿を発見。
これも人間社会と同じか?



再び西洋ミツバチにレンズを向けて。
花弁は大きな1つの花のように見えますが、実際は頭状花序と呼ばれ、多数の花が集まって
1つの花の形を形成しているのです。
これは、キク科の植物に見られる特徴。
外輪に黄色い花びらをつけた花を「舌状花」、内側の花びらがない花を「筒状花」と
区別して呼ぶことも。 





シャッタースピードを速くして。



三匹仲良く。



近くに巣箱があるのであろうか?巣箱も見てみたかったが。



1時間以上経ったが、花の向きは、なるほど変わっていなかった。



いつ頃にこの花々は片付けられてしまうのであろうか?



県道42号線が相模川を渡る座架依橋(ざかえばし)の袂近くからひまわりまつり会場を。



背中を見せるひまわり達。



相模川を渡る座架依橋(ざかえばし)。



相模川の対岸には圏央厚木ICが見えた。



座架依橋(ざかえばし)のモニュメント。



駐車場の車の数はまだまだ少なかった。



県道42号線の駐車場側にもひまわり畑が。



ひまわりの後ろ姿を見ながら車に戻り、帰路についたのであった。




                              ・・・​その1にもどる​・・・






Last updated  2019.08.23 09:13:40
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2019.08.22
カテゴリ:
今年も、座間で行われている『ひまわりまつり 2019年8月10日(土)~14日(水)』の最終日に
車で行って来ました。この日は最終日の8月14日(水)。



6:30前に自宅を出発し、車で30分弱で県道42号線が相模川を渡る座架依橋(ざかえばし)の下の
相模川河川敷にある『水と緑の風広場』にある駐車場に到着。



『ひまわりまつり』の会場に向かって相模川堤防沿いに歩く。
途中、角にあったのが『土地改良の碑』。



約30年前の功労者像、「本多菊近翁」土地改良の碑。



県道42号線之下の通路には『ようこそ ひまわりのまち 座間へ』の横断幕が。




『ひまわり畑 ここは座間エリア』。



座架依橋(ざかえばし)への坂道の高架下は『休憩所』。



日陰の下には休憩用のテーブル、椅子が準備されていた。
年配者には優しい常に日陰の場所。



今年の『ひまわりまつり』のポスター。
毎年約55万本のヒマワリが咲き誇る「座間市ひまわりまつり」。



会場は『座間エリア』と『四ッ谷エリア』の二箇所。



そして座間エリア・新田宿エリアのひまわり畑へ。



朝の陽光を真正面から浴びるひまわり。ひまわりは和名で「向日葵」と書きますが、
「日回り」と表記されることもあるのです。
英語では「Sunflower(サンフラワー)」、フランス語では太陽を意味する
「Soleil(ソレイユ)」と呼ばれます。
この様に、太陽の動きを追って花が回るということからそう呼ばれます。



またひまわりはそのものが大きな花として認識されている場合がほとんどですが、
実際は1000~2000の小さな花が集合してこの形を形成しています。
外側の黄色く長い花びらを付けた花”舌状花”と内側の茶褐色の”筒状花”に分かれているのだと。



ひまわり(向日葵)は花が咲く前のつぼみの時期は、茎の先端が太陽の方向を向いて
動くのだと。
これは太陽光が当たらない側の茎が、当たる側の茎よりも成長するため、
太陽の方向に
曲がってしまう為。つまり太陽に面して前と後ろの伸びの違いにより生じるもの。
しかし、花が咲いた後には茎の成長もストップするので、花自体が太陽を追いかけると
いうことはないのだと。
よく言われる、「
ヒマワリの花が太陽を追いかけて、クルクルまわる」という事はないのです。



全ての花が私の方を向いて迎えてくれていました。



『2019 Welcome to ZAMA』のアーチゲート。



こちらのひまわりは造花。



ひまわり畑の中にも遊歩道が。



本部、飲食ブースの案内板が。



背丈は様々。



後ろのひまわりは背伸びして覗き見ているが如し。



こちらは通路の反対側のひまわり畑。
皆、花は東に向かって咲いているので、こちらは花の後姿が。



こちらにも『2019 Welcome to ZAMA』のアーチゲートが。



新田宿エリアには展望台が2箇所。



展望台からの絶景。
多くのひまわりが朝日に向かって満開の姿で。



これぞ『黄金の世界』。



手前のひまわり畑方向。
後ろには、座架依橋(ざかえばし)に上っていく県道42号線が。



見事な黄色の絨毯の世界が。



記念撮影用の様々なプラカードが置かれていた。
これぞ『SNS映え』。



プラカードを支柱に差し込んで。
しかし、毎日が『夏休み』の」私なのであった。



ひまわりのカオスの真っ只中、これぞ『ひまわりまみれ』。



もうこの光景を表現する言葉を持ち合わせていません。











もう一箇所の展望台下には、SNS映え・記念撮影用の帽子や額も準備されていました。



まさに『あちーけど・・・きれいー』。



『座間なう。』、『ひまわりは枯れても思い出は枯れない』。
でも体は暑すぎて枯れそう。しかしいろいろと考えていますネ。





青空を背景に多くのミツバチとチョウチョの姿をカメラモードを変えて





                  ・・・​つづく​・・・






Last updated  2019.08.22 01:09:07
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2019.08.21
カテゴリ:旅行
更に片瀬龍口寺の幻想の竹灯篭を楽しむ。
刻々と色の変わる本堂のライトアップ。



カメラの設定を変えて、本堂屋根、五重塔を再び。



本堂前の階段を上がった場所には花燈籠が揺らめく。



ズームで。



本堂のライトアップの変化と幻想的な竹燈籠をしばし楽しむ。





ズームで。





撮影モードを変えて。



接写で。



本堂右脇の白壁にはこれも幻想的な姿が。



「令和」や「2019年」の灯籠文字が描かれて、インスタ映えスポットで多くの人が。



2019と。写真ではチョット解りにくかったが。



日蓮聖人像。



ズームで。



更に。
左手に法華経の巻物、数珠を持つ日蓮上人。



竹燈籠の総合芸術。
富士山と琵琶を持っている弁財天であろうか?
花、葉、並・・・・。



ズームで。







鐘楼(延寿の鐘)。



鐘楼前の竹灯籠を。



本堂の屋根の色の変化を楽しむ。



日蓮上人も刻々とお色直し?



大書院の前には、青竹に施されたアート作品が飾られて、竹美術広場となっていた。





正面から。





向日葵それとも太陽?



多くの大小の孔をドリルで開けている姿を思い浮かべながら。



こちらは花燈籠。そして上空には三日月が。



周囲には向日葵も。



更に近づいて。



竹灯籠の螺旋階段の如きアイデア作品。



ズームで。



設定を変えて接写。







竹の中を覗いて。



最後に和の美しさを魅せる竹灯篭をズームで。



かぐや姫が出てきそうな??幻想的な世界。



竹灯篭の火の揺らめきを楽しみながら。



そして一方通行で境内を進み、再び仁王門前に戻る。
仁王門前の左手の広場は屋台コーナーに。



『日蓮大聖人龍ノ口御法難之霊場』。



お父さんとフランクフルトに並ぶ子供たち。



テーブルではビールを楽しむ人々の姿が。



仁王門を拝啓に。



そして江ノ電・江ノ島駅への帰路に。
歩道には、これも美しい模様の燈籠が。







そして江ノ島駅に。



駅舎正面もライトアップされて。



江ノ電路線図。
藤沢駅から鎌倉駅まで15の駅を約35分でと、いまさらながらに。



藤沢駅方面のホーム奥の右手にあったのが待合室。
江ノ電の前頭部・運転席のカットモデルが展示されていた。
303の前頭部は廃車後極楽寺工場で保管されていたもの。



ジオラマや展示スペースも。



そして鎌倉行きの電車が向かいのホームに。
『セーリング日本代表「日の丸セーラーズ」』の文字が。
「日の丸セーラーズ」はセーリング競技日本代表の呼称。
日本セーリング連盟(JSAF)と共に、ここ江の島で開催される2019年江の島大会
(2019年8月25日~9月1日)ワールドカップと、2020年の東京オリンピック・セーリング競技を
盛り上げるラッピング車両。
 


そして仁王門から五重塔までの龍口寺境内に、青竹の竹灯籠が5000基ほども灯されていた
幻想的な竹灯籠の光景を十二分に楽しんでの帰路についたのであった。

                              ・・・​もどる​・・・






Last updated  2019.08.21 14:56:17
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2019.08.20
カテゴリ:旅行
この日・8月4日(日)は、自宅から電車で40分ほどの片瀬・龍口寺で行われる
『竹燈籠』を見に行って来ました。
藤沢駅高架橋通路からの夕焼けの富士山の姿。時間は18:40過ぎ。



江ノ電・藤沢駅に向かう。



運良く江ノ電電車がホームに入って来ていた。



ホーム入り口の花時計。



『第9回 龍の口 竹灯籠』のポスター。



ポスターの裏側。
『龍の口竹燈籠』申込書が裏面に。



そして江ノ電で江ノ島駅に向かう。
境川の鉄橋を渡る。



そして江ノ島駅から徒歩にて龍口寺に向かう。
龍口寺前の三叉路を鎌倉方面に向かう江ノ電電車。



そして龍口寺仁王門。
日蓮上人法難の地、『日蓮宗 霊跡本山 寂光山 龍口寺』
この地はかつて刑場跡で、文永8年(1271年)9月12日に日蓮宗の開祖日蓮が
処刑されそうになった。この事件を日蓮宗では『龍ノ口法難』と呼ぶ。



鎌倉幕府の反感を買った日蓮聖人が捕えられこの場所へ連行された。
処刑直前、江の島の方から光の玉が飛んできて斬首役人の目をくらませたとか、
処刑に使われた刀に光がかかり三つに折れたとも伝えられる。結局、処刑は中止になった。
龍の口刑場で処刑を免れた者は歴史上、日蓮聖人以外誰もいないとされている。
境内には連行された折に日蓮聖人が一晩を過ごした土牢が今も残る。
日蓮聖人入滅ののちに、直弟子だった日法上人は、この霊蹟を保護する為に寂光山龍口寺と称し
草庵を結んだ。
延元ニ年(1337)自ら刻んだ日蓮像を安置する寺を創建した。
のち六老僧(日朗、日昭、日興、日向、日頂、日持)らが協力して、延文二年(1357)に
豪荘な伽藍の大寺を建立したのである。
『龍乃口』と書かれた扁額。



仁王門の仁王像(阿形像)



仁王門の仁王像(吽形像)。



竹灯籠 受付。
1000円/基で竹灯籠の奉納が出来るようであった。



龍口寺 境内図。



山門への階段の両脇にも竹灯籠が並ぶ。



そして山門へ。
山門の扁額は『龍口寺』。



山門を潜ると境内には、灯りの灯った竹灯籠が一面に。
 仁王門から五重塔までの境内には、青竹で作られた灯籠約5000基が並べられていた
のであった。

本物のロウソクを使った灯籠が、地面に敷き詰められていたのであった。
電気の明かりとは一味、いや二味も違う幻想的な光景。



その先に本堂と五重塔が。



まだ上空は薄暗く。



幻想的な竹灯籠をカメラで追いかける。



亡くなられた方々を偲ぶと共に、私たちの心に灯った明かりを消すことなく
未来も照らせるようにと祈る姿が。そして未来への灯火は 決して自ら消すまいとも 。



山門の見事な彫刻を振り返る。



心休まる光景が拡がっていた。



右手に手水舎。階段上の本堂が様々な色にライトアップされて。



竹灯籠の灯りをズームで。



大書院前の竹灯篭を境内側から。
後ろの丸い穴から、それぞれロウソクを入れる事が理解できたのであった。



しばし辺りが暗くなるのを待つ。
本堂と五重塔と竹灯籠の美。



カメラの向きを変えて。



本堂への階段の両側には和紙燈籠には奉納者の名前が書かれて。



そして本堂前へ。



刻々とライトアップされる色が変わって行った。



ロウソクの灯りに癒される空間と時間。









回り階段の如き竹灯籠と本堂。
幻想的なライトアップと 繊細な細工の竹灯籠。



そして五重塔に向かう。
神奈川県には3つの五重塔がある。他の2つは鉄筋コンクリート造。
龍口寺の五重の塔は、木造ケヤキ造で五重塔としては神奈川県で唯一。
明治43年(1910年)竣工。一辺4,5m。白木。 総欅造。
建造には竹中工務店が携わった。全国的にも数少ない明治期の五重塔
和様を基本とし、組物には唐様を取り入れる。5重は扇垂木。
中備には近世風な彫刻を置く。法華題目が本尊とのこと。



五重塔も微妙に色を変えて。
私もいろいろとカメラの設定を変えてみたが。






五重塔内部。



斜めから。



五重塔の後は坂を下り本堂内部へ。



本堂内部ではコンサートが行われていた。



ケーナ(quena)演奏の山下孝之×ソプラノ鳥井麗香×辻賢のユニットらしい。
ケーナ(quena)は、南米ペルー、ボリビアなどが発祥の縦笛(気鳴管楽器)であると。



鳥井麗香さん



辻賢氏のチャップマン・スティック(Chapman Stick)演奏。





                                                     ・・・​つづく​・・・






Last updated  2019.08.20 07:56:11
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2019.08.19
カテゴリ:旅行
更にビッグプレミアムスターマインがつづく。時間は20:13















































そしてオランダ風車「リーフデ」の後ろから水上花火が。
下から半円形に広がるのは水上スターマイン。



水上スターマインが続く。



そして特大スターマイン。



特大スターマインが続く。



尺玉以上になると、花火の大きさもさることながら音が断然違うのであった。
腹に響くようなその音が、花火の広がりから遅れること無く直ぐに聞こえる場所で
見れるのは最高なのであった。佐倉のFさんに今年も感謝。



フィナーレは県内最大・二尺玉の打ち上げ。
二尺玉は、直径が約60センチで、打ち上がると直径が500メートルほどに広がるのだと。
二尺玉が打ち上げられる花火大会は関東では数少なく、印旛沼湖畔から打ち上がる
ダイナミックな花火は圧巻そのものであった。



目と耳と腹、身体全体で味わう二尺玉の迫力!



オランダ風車に降り注ぐ火花。







そして20:30近くになり『佐倉花火フェスタ2019』も終了。
混雑を避けるためにしばし、帰りを遅らす為の待機。



そして、花火にはつきものの会場帰りの渋滞にハマりながらも臼井駅に向かって歩く。



今年も​佐倉の花火👈リンク ​を大いに楽しませていただきました。
楽しい時間はあっという間。
家族全員でいることの楽しさを感じながら、そして一生懸命に歩く孫たちの姿を
見ながらの帰路であった。
佐倉の地でF家、K家の絆の「花火」も大いに咲き誇ったのでした。
『家族の集い』はこれぞ『幸せの絆』!!
Fさん、今年もご準備ありがとうございました。
              
                                                ・・・完・・・






Last updated  2019.08.19 00:00:18
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2019.08.18
カテゴリ:旅行
シャッターを押す手を休める暇もなく次々に豪華な花火が、時間は19:48。















10号玉(1尺玉)が連続で。



















冠スターマイン。
俗に柳(やなぎ)と呼ばれる打ち上げ花火で、豪華な金色に輝く火の粉が連続で降り注ぐ。





















そしてビッグプレミアムスターマインのスタート。









様々な色の花が今年も開く。



夏の風物詩といえば打ち上げ花火。
この時期、全国津々浦々で花火大会が開催されており、多くの人々が楽しむ
イベントとなっている。



もっとも歴史の古い隅田川花火大会は、100万人近い観客を動員しているし、そのほか、
東京では江戸川のエキサイティング花火大会の人気が高まっている。
また、大阪でも天神祭りの奉納花火に130万人もの観客が集まっている。
北は北海道の道新納涼花火大会、南は沖縄の浦添てだこまつりと、全国で毎年1000前後の
大会が開催されているようだ。



現在見つかっている資料から考察して、私たちが見ている打ち上げ花火に近いものを
初めて見た日本人は、徳川家康と考えるのが定説らしい。
『駿府政事録』の中に「二之丸立花火」の記事があり、英国王ジェームズ1世の使者の
ジョン・セーリスが、駿府城で披露したと伝えられているのだと。



江戸時代になって戦がなくなり、火薬の使い道が激減すると、火薬屋たちは花火を
扱うようになる。日本最古の花火大会である、隅田川花火大会が始まったのは、
享保18年(1733)。当時は「両国川開き」と呼ばれていた。
このときに花火を打ち上げたのは、日本最古の花火業者である鍵屋で、万治2年(1659)に
売り出した玩具花火のヒットで、繁盛していたという。
約150年後の文化5年(1808)、鍵屋の番頭が独立して始めたのが玉屋。
これ以降は、両国の川開きで、両国橋の上流を玉屋、下流を鍵屋が担当するなど、
ライバルとして、さらに発展したようだ。



しかし、江戸庶民が見ていた花火は、現在のように様々な色のあるものでなく、
白っぽいものだったらしい。
マグネシウムなどの金属粉を利用した、色鮮やかな花火が登場するのは大正時代に
なってからで、現在では炭酸ストロンチウム(赤)や硝酸バリウム(緑)、
タンサンカルシウム(黄)、酸化銅(青)などを組み合わせ、さらに華やかな花火が
生み出され続けているのだと。



しかし花火は、ただ美しいだけのものではない。
日本人にとって火は、鎮魂の意味を持つのだ。
意外に思われるかもしれないが、お盆の迎え火や送り火を思いだせば、納得がいく。





                              ・・・​もどる​・・・

                  ・・・​つづく​・・・






Last updated  2019.08.18 00:31:26
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2019.08.17
カテゴリ:旅行
今年も、8/4(土)に長女の嫁ぎ先のご両親から、「佐倉花火フェスタ 2019」への
ご招待をいただきました。
東海道線、常磐線、京成線を利用して、千葉県佐倉市にあるニュータウン・
「ユウカリが丘」駅で下車し妻が予約していたホテルにチェックイン。
嫁いだ長女家族もこの日はこのホテルに宿泊。長男は海外出張中のため
今年は長男家族は不参加となりました。
そして、チェックイン後7Fの部屋で一休みした後、再び「ユウカリが丘」駅から
待ち合わせ場所の隣の駅の臼井駅まで向かう。

17時過ぎに臼井駅で合流し、総勢13名で花火会場の『佐倉ふるさと広場』に向かう。



臼井駅にあった今年の「佐倉花火フェスタ 2019」のポスター。
印旛沼湖畔(佐倉ふるさと広場周辺)で19:00~開会。
毎年8月の第1土曜日に開催されており、夏の風物詩イベントとして定着。
総打上数20,000発ビッグプレミアムスターマイン8,000発、二尺玉4発、尺玉30連発、
手筒花火、 
水上花火などの花火大会であると。



そして準備していただいていた席に到着。



本格的オランダ風車「リーフデ」が目の前の座席。



準備頂いた私のチケット。



佐蘭花 (オランダ風無料休憩所、売店、トイレ)前には貴賓席、招待席が並んでいた。



佐倉市民の楽団が演奏中。



『花火大会会場まで行けない人集まれ!』のポスターが。
ビールを飲みながらCATVで花火フェスタの生中継を見られると。



4本のポプラの木の後ろもオレンジ色に染まって来た。



佐倉市長・西田三十五氏の姿も。
手筒花火用の法被(はっぴ)を纏って待機中。
今年4月21日執行の市長選で現職を僅差で破り初当選した佐倉生まれ、佐倉育ちの
新市長であるとFさんから。



真っ赤な太陽が沈んで行った。



ズームで。



オランダ風車「リーフデ」も花火を待つ。



そして開催セレモニーも間近に。



上空には成田空港を離陸した旅客機の姿が。



日も沈み、辺りが暗くなり始めた。



そいて準備していただいた弁当を楽しむ。



様々な巻き寿司が美しく詰め合わせて。



あっという間に平らげたのであった。



上空には眉月が。



そして開催セレモニーも終わり、花火大会のスタート。時間は17:02過ぎ。



まずは、恒例の手筒花火のスタート。
席を離れて、手筒花火に近づいて。



手筒花火は、1メートルほどの竹筒に火薬を詰め、それを人が抱えながら行う花火。



打ち上げ式ではなく吹き上げ式の花火で、その火柱は大きいものだと
10数mにもなるのであった。



5本の手筒花火が一斉に。



そして火柱を勢いよく。



今度は7本が一斉に。



火柱の高さは10m以上にも及び豪快な柱が一瞬で夜空を彩ったのであった。
筒の底が抜けて揚げ手の足元で爆発しておこる、轟音と広がる炎は最大の特徴。



白煙がモウモウと。



風車にも灯りが灯り。



そして佐倉市長も手筒花火を。



ズームで。市長の勇姿をうまく撮ることが出来ました。



そして小スターマインのスタート。
カメラにリモコンシャッターを繋げ花火を見ながらシャッターを押し続ける。















10号玉(1尺玉)も上がり。



芯菊の輝き。



シャッターのタイミングが・・・。



更に大、中、小のスターマインが次々に。









高圧線鉄柱の直線と花火の曲線がBEST MATCHIして。





ナイスタイミング!!。



                 

                  ・・・​つづく​・・・






Last updated  2019.08.17 12:11:14
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2019.08.16
カテゴリ:JINさんの農園
8月1日のNHKのニュースで、第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害から逃れる
ユダヤ人のために、本国日本の指示に背いてビザを発給した杉原千畝の命日に合わせ、
功績を紹介する特別展が31日から都内で始まったと。
杉原千畝は第2次世界大戦中、ナチス・ドイツの脅威にさらされていたリトアニアに駐在する
外交官として、迫害から逃れるユダヤ人のために当時ドイツと同盟を結ぶ直前だった
日本政府の指示に背いてビザを発給し、およそ6000人の命を救ったとされています。
7月31日は33年前に亡くなった杉原千畝の命日で、これに合わせ東京・中央区の博物館では、
杉原のゆかりの品や、同じようにユダヤ人を救うために奔走した各国の外交官の功績を
紹介する特別展が開かれていると。
この日8月3日は、佐倉で開かれる花火大会に向かうので、早めに家を出て、東京駅で途中下車し、
八重洲南口に向かったのであった。



八重洲南口のJR長距離バスターミナル。



JR高速バスのりばの案内。



数寄屋橋方面に歩を進める。



東京都道405号外濠環状線の先に東京・八重洲ブックセンターが。
スーパーゼネコンのリーディングカンパニー鹿島建設本社跡地に建設された書店。
当時の社長鹿島守之助が日本最大の書店を作ろうと鶴の一声で誕生したのであると。



横断歩道を渡り、東京駅南口方面を振り返る。
グランルーフ=大屋根が見えた。東京駅のノースタワー棟とサウスタワー棟を
つなぐ渡り廊下で張り出した屋根を「帆」と表現しているのだと。



東京・八重洲ブックセンターの入口横の二宮金次郎像。
1978年、JR東京駅八重洲南口に開業した大型書店の入口にある金箔で覆われた銅像。
1991年6月設置。



台座プレートには、
「勤勉にして片時も本を手離さなかった二宮金次郎こそは、真に理想の読書人である。」
という株式会社八重洲ブックセンター会長河村金次郎氏の言葉が刻まれていた。



そしてブックセンターの横の道を奥に進むと正面には京橋トラストタワーが。



『京橋エドグラン』。



そして柳通り沿いににあったのが『杉原千畝 SEMPO Museum』が開かれていた
相模ビル。



相模ビルの入口には『杉原千畝 SEMPO Museum』のプレートが。



ドアを開けると杉原千畝の写真が迎えてくれた。



会場は2階とのことで階段を上がる。



2階会場入り口の写真。



『任務を終えて 諸国民の中の正義の人として表彰された外交官
ホロコーストと正義の外交官 特別展』。
7月31日~9月1日の1ヶ月間の開催であった。



チケット代500円を払い、パンフレットを頂き入場。



『SEMPO MUSEUM』の文字が。



開催会場は、中央区八重洲2丁目7-9 相模ビル2階。



「杉浦千畝は第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスで
ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6000人のユダヤ
人民を救った。杉原の発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちは
その子孫を合わせて現在25万人以上に及ぶと言われ、世界各国で活躍している。
海外では、チウネ・センポ・スギハラとも呼ばれる。「センポ」と音読みで呼ばれた理由は
「ちうね」という発音が難しく杉原自身がユダヤ人に「センポ」呼ばせたとされている。」



杉原千畝(すぎはらちうね)は第二時世界大戦中にリトアニアで外交官として多くの
ユダヤ系難民を救った人物。「東洋のシンドラー」とも称されている。
「1900年1月1日」に生まれて、「1986年7月31日」に逝去された。
現在の岐阜県美濃市に生まれ。父親は税務官で、その仕事の都合で、幼い頃は様々な土地を
転勤する生活を送った。その後、早稲田大学へと進学。しかし親の希望に反しての進学
だったため、学費が続かず中退することに。
その時に、外務省の留学生の試験があることを知り、受験、合格した。
留学生として、ロシア語を学び、中華民国、ハルビン総領事館などを経て、満洲の外務事務官と
なった。そこで、ロシア語のスキルを活かして、ロシアとの交渉を担当。
1937年に、フィンランドのヘルシンキの日本領事館、1939年には、リトアニアの
カウナス日本領事館へ赴任した。
カウナスに赴任したのは、「1939年8月末」のことであった。
赴任直後の「1939年9月1日」、ナチスドイツがポーランドの西側に侵攻し、第二次世界大戦が
勃発。
この時、ナチスドイツとソビエト連邦はこっそり不可侵条約を結んでおり、直後にポーランドの
東側にはソビエト連邦が侵攻を開始した。
リトアニアを始めとするバルト三国は、ソビエト連邦と相互に援助するという関係で、
ソビエト連邦軍の駐屯だけは認めていたが、中立の立場であった。
ナチスドイツはユダヤ人を迫害していた。
そのため、ポーランドを追われたユダヤ人たちが隣国で中立の立場のリトアニアに殺到する
こととなったのであった。
そんな状況下の「1940年6月」に状況が一変した。
ソビエト連邦は相互に援助するという約束を破り、リトアニアに侵攻。
中立の立場だったリトアニアは、ソビエト連邦に併合されることになった。
この時に、リトアニアに避難していたユダヤ人たちが、併合される前に日本を通して
他の国に逃れようと、領事館にビザの発行を求めて押しかけてくる事態に陥ったのだ。
そのほとんどの避難民が、政府の定める外国人入国令による通過ビザの要件を満たして
いなかった。彼は、人道的な観点から、ビザの発給を認めるよう日本本国へ打診をしたが、
認められなかった。
「本国の規律」と「人道的な立場」で葛藤し、彼は、ビザを発給することを選んだのであった。
戦争の拡大により、領事館からの退去も決まっていましたが、その直前までビザを発給し続けた。
その結果、「6000人」ものユダヤ系の人々を救うことになった。
戦後、日本へと帰国した彼を待っていたのは、無断でビザを発給したことへの退職通告であった。
彼の行動が知られるようになるのは、1969年のことであった。
彼のビザにより命を救われたイスラエルの政府高官が、人道的な観点から独断でビザを発給した
経緯を知り、その行為を賞賛、イスラエルで表彰された。
これにより、彼の行動が広く世間に知られることとなったのであった。
日本で彼の名誉が政府により正式に回復されるのは、更に月日を経た2000年のこと。
彼の発給したビザは、現在では「命のビザ」と呼ばれている。
葛藤の後に、「命のビザ」の発給を宣言したのが「1940年7月29日」だったと。
その直後の「1940年8月3日」にリトアニアはソビエト連邦に併合されてしまった。
すぐに日本やソビエト連政から退去命令が出たが、無視し、自身が退去する「8月末」まで
ビザを発給し続けたのであった。



正面のテレビ画面では杉原千畝の生涯、足跡がビデオで紹介されていた。
以下の写真は、『杉原千畝Sempo Museum』👈リンク のホームページから転載させて
頂きました。



「米IT大手グーグルは7月29日、検索画面トップのロゴマークに日本の外交官、
杉原千畝(1900〜86年)をあしらった1日限定の記念デザインを採用した。
この日は、40年にリトアニアで領事をしていた杉原が本国の方針に反してユダヤ難民に
日本通過ビザの大量発給を決断した日とされ、ナチスドイツの迫害から多くのユダヤ人を
救った杉原の行為をたたえたものだ。
グーグル本社が作成した今回の記念ロゴは、見開きのパスポートに杉原の顔が描かれた
デザインで、「Google」の文字の部分がビザのスタンプ風になっている。
また人の形が多く描かれ、杉原が出した「命のビザ」で救われた数千人のユダヤ人を
表現している。」と。右下には「LITHUANIA:リトアニア」の文字が記載されていた。



イスラエル、ポーランドなどから贈られたメダルや勲章など貴重な品の数々を展示されていた。



カウナス(KAUNAS)に赴任したのは、「1939年8月末」。



命のビザが発給されたパスポート。



杉原千畝略年譜。



約6000人の「命のビザ」・「杉原リスト」。



「決断のスタンプ」が置かれた机が正面右に置かれていた。



「決断のスタンプ」。



以上の写真は『​杉原千畝Sempo Museum​』👈リンク から転載させていただきました。
この日の記念に「決断のスタンプ」を頂いたパンフレットに押しました。



記念にクリアーファイルを購入しました。
ミュージカル『SEMPO』-日本のシンドラー杉原千畝物語 の再公演の予定は
あるのだろうか?






そして、バルト3国のリトアニアの元日本国在カウナス領事館、現杉原千畝記念館を
私が訪ねたのは、2017年4月22日​👈リンク。
以下の写真は、当時の私がリトアニアの元日本国在カウナス領事館、現杉原千畝記念館で
撮った写真です。
正門には「希望の門 命のヴィザ」 の文字が。

DSC07699_R.JPG


『元日本国在カウナス領事館、現杉原千畝記念館』入口。
正面の窓が当時の執務室。
門の前に集まるユダヤ人に次々にビザを発給していたと言われているのだ。



リトアニア日本領事館前でビザ発給を求めるユダヤ人 1940年7月。

「杉原千畝センポミュージアム」の画像検索結果

「命のビザ」を発行した机。



杉原千畝の家族の写真。
左から(敬称略)奥様・杉原幸子、長男(弘樹)、次男(千暁)、杉原千畝、
奥様の妹(菊池節子)。



元日本国在カウナス領事館で働いていた人々と杉原千畝の家族の写真。



杉原千畝が領事館から退避し、自ら列車にてリトアニアを避難する寸前に滞在していた
ホテルこそが、このホテル・メトロポリス。
このホテルでもひたすら最後まで通過ビザを書き続けていたと言われる歴史を作ったホテル。
プレートには1940年8月28日~9月4日まで滞在し、「命のビザ」を発給し続けたと。
そしてカウナスの中心部で、今も当時のままに営業を続けていたのであった。

DSC07666_R.JPG

リトアニアの首都ヴィリニウスにも杉原千畝の記念碑が建っていた。

DSC08843_R.JPG

更に岐阜県八百津町にある「​杉原千畝記念館​」👈リンク を訪ねたのは2017年11月23日。
こちらは杉浦千畝氏の生まれ故郷なのであった。



ここでも入場券(パスポート)に「決断のスタンプ」を押したのであった。



そして今年2019年6月20日に訪れたハルビン(哈尔滨)の『旧日本総領事館跡』
杉原千畝は外務省に採用され、ハルピンの日本総領事館にロシア係として
勤務していたのはこの場所であったと。



そしてウィキペディアより『杉原千畝 語録』です。
・「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」。
・「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。
 しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」。
・”Vaya con Dios!"-- 千畝の激励としてソリー・ガノールが記憶している言葉。
・「世界は、大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、
 みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません・・・。
 では、お元気で、幸運をいのります」  --ビザ発給の際にある難民にかけた
 千畝の励ましの言葉。
・「全世界に隠然たる勢力を有するユダヤ民族から、永遠の恨みを買ってまで、
 旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビーザを拒否してもかまわない
 とでもいうのか? それがはたして国益に叶うことだというのか?」
・「新聞やテレビで騒がれるようなことではない」
・大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」。
・「難民たちには、男性だけでなく、女性や老人、子供までいた。みな明らかに
 疲労困憊している様子だった」。
・「あの人たちを憐れに思うからやっているのだ。彼らは国を出たいという、
 だから私はビザを出す。ただそれだけのことだ。」-- モシェ・ズプニックが聞いた言葉。

本国の考えに背き、また困難な状況であっても力の限りビザを発給し、ユダヤ人を救おうとした
杉原千畝の勇気と人道性は、日本人として、「感謝」 「感動」「感銘」 「感服」 「敬服」。

皆さん、一度訪ねてみてください。







Last updated  2019.08.18 07:25:29
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2019.08.15
カテゴリ:JINさんの農園
昨日、8月14日午后に妻と我が実家に帰り、盆参りをしてきました。
といっても我が実家は我が家から徒歩にて数分の場所。
お盆は地域によっても違いますが、我が実家では今日8月15日を中心として8月13日~16日の
4日間、故人を偲び、ご先祖様や精霊が家族のもとに帰って来て一緒に過ごす日なのです。
13日の日に夕方早めに迎え火で故人を招き、16日には夜遅くに送り火で見送りをします。
お盆は仏教行事としての正式な呼び名は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言い、
「お盆」は盂蘭盆会から変化して現在では親しみやすくそう呼ばれる様になったようです。
我が家の周辺では、お盆の迎え火は、家の門の近くの屋敷内に小さな四角の土の盆塚(祭壇)を
造り、その周囲にオガラを刺し、盆花を添えて準備をして、この土の盆塚(祭壇)の近くで、
藁とオガラを燃やし、お迎え火としています。
私が子供の頃は、この盆塚を作るのが私の仕事でした。
畑の土を持って来て、土を箱に詰めるのではなく、四角く土を固めここに上る坂道も造った
事を今、懐しく想い出しています。
オガラとは麻の茎の皮をむいたもので、オガラの火に向かって煙に乗って先祖がやってくると
言われています。
8月13日のお盆の始まりの夕方に焚くことでこの世に帰ってくる時が来たよ、帰る場所はここだと
知らせているのです。迷わず帰ってこれるようにと目印を出しているのです。
併せて、この場所に、キュウリとナスで造った精霊馬(しょうりょううま)を置きます。
精霊馬とは、お盆に飾られるご先祖様をお迎えしたり、お送りしたりする乗り物のこと。
ご先祖様は東から来ると言われているので、迎え火、送り火の時は
キュウリは西向き、ナスは東向きに置くというのが我が実家のやり方です。



ご先祖様がいち「早く」家にたどり着いてほしい願いを込めて、キュウリを足の速い馬に
見立てて作ります。
我が家でゆっくりしていただいたあとは、あちらの世界にお戻りいただかなくてはいけません。
名残り惜しい気持ちを込めて、「ゆっくり」と帰っていただくために、ナスを牛に見立てて
ご先祖様をお送りするのです。
また、様々なお供え物をあちらの世界に持って行っていただくように、牛に荷物を持たせるという
意味合いもあるとの事です。
蓮の花の盆花です。
蓮の花を供えると、祖先が花びらを舟にして帰ってくるのだと昔、祖母から。



そして我が実家のこの日の祭壇です。
私が子供の頃には、細い竹を門型に置き、そこに鬼灯(ホオズキ)や稲等を吊るしていました。
鬼灯(ホオズキ)はふっくらした形と炎の様なオレンジ色から、お盆に帰ってくる、
ご先祖様や精霊が迷わずに帰って来れるように「鬼灯」の文字からもわかるように
灯りとしての道しるべになる様に提灯(ちょうちん)に見立てられ、
仏壇や盆棚、精霊棚に飾られたのです。



我が菜園で収穫したスイカも供えました。



反対側から。



これがお迎え火に活躍したキュウリの精霊馬です。
右のナスの牛は送り火から帰る時にご先祖様が乗るのです。



こちらは精霊馬用の餌、ナスの角切りを里芋の葉の上に盛り付けた「水の子」と
呼ばれるものも供えます。左は「水の子」に水をかけるのに使われる香の葉
(樒(しきみ))で作ったミソハギの代用品。



そしてご先祖様にはご飯やオハギを。昨日はご飯と煮しめでした。



我が実家の、日蓮宗の掛け軸。
「南妙法蓮華経」「明治二十七年」、「龍口寺」の文字が。
明治二十七年は1894年ですので、この掛け軸も125年を経ています。



仏壇に近づいて。



日蓮聖人像。



我が実家の念持仏。



そして15時過ぎに我が実家の檀家寺の住職が盆供養に来てくださいました。



我が実家先祖代々之霊位牌。



私の両親の位牌。
毎年、この位牌を見て命日を再確認しています。
父の命日は中国で天安門事件(1989年)が起きた日なのです。
そして今年は父が亡くなってから30年、母は25年経ったのです。
合掌そして感謝!!



我が祖父母の位牌。
祖父が亡くなったのは私が4歳、祖母は16歳の年齢の年でした。



明治時代の先祖の位牌。



「弘化」の文字の入った位牌。
「弘化」とは1844年から1848年までの期間を指す。171~175年前の位牌。
「仁孝(にんこう)天皇、孝明(こうめい)天皇の代の元号。前元号は天保(てんぽう)。
次元号は嘉永(かえい)。1844年(天保15)12月2日改元。江戸城大火などの凶事を
断ち切るために行われた(災異改元)。
弘化年間の江戸幕府の将軍は徳川家慶(いえよし)(12代)。
1846年(弘化3)に仁孝天皇が崩御し、皇子の孝明天皇が即位した。」と。



「文化十三年」の文字のある位牌。
「文化十三年」は1816年、203年前の位牌。
「文化」は享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。
この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。
江戸幕府将軍は徳川家斉。町人文化が顕著に発展した時期であると。



我が〇〇家は寛永年間の1630年代からスタートした事が解っているのです。
亡き父が檀家寺に通い調べ上げたのです。よって現在までの「過去帳」もあるのです。
それによると、私は初代から数えて18代目の次男坊なのです。
約400年で18代ですので約22年/代という計算になります。
久しぶりに兄妹4人が全員夫婦で元気に集まり、ご先祖に感謝しながら思い出話を
ご先祖の前でビールを飲みながらしばし語りあったのでした。
お盆は祖先、故人だけでなく、身近な人とのかかわりを更に深める機会になっているのです。






Last updated  2019.08.15 11:44:55
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2019.08.14
カテゴリ:旅行
この旅行の最終日(7月26日)は日本への帰国の日、早朝4:30前には起床する。
『大連日航飯店』の部屋からの光景。時間は5:01。



早めにフロントに行きチェックアウトし、朝食のサンドイッチをもらい、ロビーで
食べる。そして出発の時間6時には全員揃い、大連空港に向けてバスで出発。
昨日夜に歩いた『旧日本橋・現勝利橋』を渡る。



『俄罗斯风情街』の1本東側の上海路を走ると、ここにも旧ロシア人街風の建物が。



こちらにも。



『北海公園』を左に見ながら『先进街』に向けてバスは進む。



右手に『东联路』。



『迎賓路』を大連空港に向かって走る。



『大连国际机场宾馆(Dalian Intl Airport Hotel ホテル)』が前方に。



『迎賓路』沿いの地球儀の如きモニュメントには中国の姿が。



『大連国際空港駐車場入口』が前方に。



『大连国际机場集团』ビル。



大連国際空港ターミナルが姿を現す。
正式名は『大連周水子国際空港(だいれんしゅうすいしこくさいくうこう)』
開港時から現在の正式名称にも含まれている「周水子」という名前は、ここが周水子という
地名であったことが由来で、近くにも周水子駅ある。
市街地の北西に位置し、旅順北路に面していて、街の中心地から車で約20分の場所にある。
また、大連空港は軍民共用空港であるため、中国人民解放軍の軍用機も駐機・離着陸している。



町に近く、歴史ある空港であるが、その限界に近付いており、
大連金州湾国際空港(Dalian Jinzhouwan International Airport)が
渤海の金州湾の埋立地に建設中であるとのこと。



『大连国际机場』ターミナルビルに到着。



『DALIAN』の文字。これは英語名。



漢字は『大連』で簡体字・『大连』ではなかった。



チェックインカウンターに並ぶ。



利用便は中国南方航空 CZ629 8:20発 成田空港行き。



しばし空港待合室からの景色を楽しむ。



空港横には住宅街がギッシリと。



そして定刻に搭乗開始。



この飛行機は中国の航空会社の『海南航空』。
その後ろに管制塔が。



そしてほぼ定刻に離陸。時間は8:40。



利用便はエアバス『A321』便。



離陸し大連湾海上に出て大きく左に旋回。眼下に『和尚島』が。



今回の離陸後の飛行ルート。



旋回し再び遼東半島上を飛行。大連の街並みが眼下に。



そして飛行機は黄海上空を南下し、ソウル南部から韓国を横断し日本海へ。
そして日本海を能登半島方面に向かう。



そして離陸後1時間弱で食事が配られた。



そして金沢市上空から富山市上空へ。



右手眼下には、立山連峰の白き山々が見えて来た。



北アルプス北部『白馬岳』、標高: 2,932 mであろうか?



北アルプスの山々。



そして東北地方を斜めに横断し、いわき市手前で大きく右旋回し南下し成田空港へ。



そして成田空港に着陸。時間は日本時間の12:10。
飛行時間は予定通り約2時間50分あまり。



青空は垣間見えたが、未だ梅雨空。



飛行機を下り、利用した中国南方航空便を振り返る。



到着ゲートを進む。



日本に戻ったことを実感する『迎』の文字が今回も迎えてくれた。
武田双雲氏の書であるようだ。



そして入国、税関手続きも無事完了し、トランクも受け取る。
お世話になった添乗員、旅友に挨拶を済ませ、旅友Sさんの愛車に乗り帰路につく。



新空港自動車道・成田料金所を通過。



東関東自動車道・幕張を通過。



湾岸道路の東京港トンネル。



東海JCT手前を通過。



渋滞もなく順調に進む。



そして横浜新道に入り、無事我が家の駐車場まで送ってもらったのであった。
時間は14:30で成田空港から1時間30分で到着したのであった。



戦後74年を経た、旧満州:中国・東北地方7名所を8日間で訪ねる旅であった。



訪ねた都市は下記の7都市の各名所。
★黒龍江省 ハルビン(哈爾浜)
★吉林省  長春(旧 新京)
★遼寧省  瀋陽(旧 奉天)、本渓、丹東(旧 安東)、大連、旅順



★哈爾浜(ハルビン)
中国旧満州(現在の東北地方。中国では「偽満州」とよぶ)の哈爾浜市は中国最北の
黒龍江省の省都で、人口1060万に達する大都会であった。
もともとは旧帝政ロシアによって19世紀末から20世紀初頭にかけて建設された街で、
その後の日本統治を経た現在でもロシア風の建物が多く残されるなど、歴史的にも
観光地的にも興味深い街なのであった。
ロシア正教やユダヤ教などの教会が残り、異国情緒ただよう街並みは、他の中国の都市とは
異なる雰囲気を有していたのであった。
しかし、今回この街では、ロシア人はほとんど見かけなかったのであった。
東方の小パリ・小モスクワとも呼ばれていて、広場や公園の管理も徹底され美しい街並み。
冬はマイナス20~30度にもなり、壮麗な氷雪祭りも有名とのことだが、冬の哈爾浜(ハルビン)の
街並みそして中国で5番目の大河であり全面凍結する松花江の世界三大氷祭りも訪ねて
見たいと思ったのであった。
『中央大街』はアジア最大の石畳の目抜き通り。ハルビンを代表する歴史的な大通りで、
ロシア語でキタイスカヤと呼ばれ、昔は中国人街であったと。
その規模は、全長1450m・幅21.34m(内、車道の幅は10.8m)。
ロシア統治時代の建築物が数多く残され、「東方のパリ」とも称される西洋風の街並みが
一直線に松花江に向かい、南は経緯街(十字街)から北は松花江防洪記念塔まで伸び、
大いに賑わっていたのであった。
一つ心残りは『侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館』を訪ねる事が出来なかったこと。





★長春(新京)
満州国時代の首都で新京と呼ばれていた街。そのため、当時のゆかりの施設が多数あった。
代表的なものが「偽満皇宮博物院」で、溥儀の宮廷府を博物館にしたものであった。
そして当時の関係資料、写真が多数展示されていたのであった。
緝煕楼は中に入ると階段も廊下も皇宮と言うには余りに狭く、部屋も大変質素であった。
観光客が多く、廊下ですれ違うのもたいへんなほどで、芥川龍之介が「夢魔」と形容した
あの巨大な北京の紫禁城からすれば、溥儀にとっては、まるで物置に住んでるみたいに
感じていたのではないであろうかと。





★瀋陽(奉天)
奉天は清朝の故地であり、郊外には北陵(歴代の皇帝陵墓)があった。
市内中央部中街に位置する瀋陽故宮は、清朝の初代皇帝、太祖ヌルハチ(努爾哈斉)と2代皇帝、
太宗ホンタイジ(皇太極)により建立された皇城であった。
北京の「故宮」の12分の1の大きさではあったが、500以上の部屋を持つ70以上の建物が
建ち並び、満州族の威厳と風格が感じられたのであった。
そして『大政殿』前での清代の舞踊劇を楽しんだのであった。
大都会の中にあったが、この一角だけ昔の中国らしい空間で、時間の流れもゆっくりに
なるような感覚を味わえたのであった。その他観光ルートには尽きるところがない瀋陽。







★本溪
本渓水洞(ほんけいすいどう)は遼寧省にある鍾乳洞で、内部のほぼ全体が池になっていて
電動船での見学であった。鍾乳洞の長さは2800メートルとのことであったが、内部の
ライトアップが私にやや興ざめなのであった。
私としては『金州観光』に変えて欲しかったのであったが。





★丹東
丹東は鴨緑江を隔てて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と接する国境の街であった。
朝鮮族が約2万人居住していて、中朝貿易最大の物流拠点であり、その7割以上がここを
通過すると言われているとのことであった。
朝鮮戦争の際に国連軍の爆撃によって破壊され不通になっている鴨緑江に架かる
『鴨緑江断橋』を先端まで歩いて見学し、『鴨緑江』のクルージングも。
米朝首脳会談のため、金正恩朝鮮労働党委員長が鉄道で中国に向かって渡った
『中朝友誼大橋』など、メディアをにぎわせる話題に事欠かない場所だが、対岸に拡がる
北朝鮮の新義州の建物と丹東の高層ビル群の林立する姿を目の当たりにし、
国交があり友好国?そして最大の輸出入国である中国との北朝鮮の国境の現実で
ある事もこの旅行で知ったのであった。







★大連
遼東半島の南端にあり、「北海の真珠」とも呼ばれる港町。
黄海と渤海に面し、海を挟んで南側には山東半島がある。
坂道の多い街並みには洋館が立ち並び、エチゾチックな雰囲気が漂っていた。
19世紀末に帝政ロシアの租借地となり、1904年の日露戦争以降は日本の支配地となったのだ。
この時に造られた放射線状に並ぶ道路や大同広場(現中山広場)、大和ホテル(現大連賓館)などが
今も残っていたのであった。
大連は、ロシアが中国に進出した際、フランスのパリのような街にしようと開発した場所。
したがって、中国には珍しいハイカラな街並みが未だの残っていたのであった。
日露戦争で勝利した日本は、そのロシアの考え方を受け継ぎ、美しい街の建設に努めたのだと。
日露戦争については、司馬遼太郎の渾身の大著『坂の上の雲』が。
大連~旅順を訪ねた今、もう一度『坂の上の雲』を読み返して見たいと思っているのである。
そして、昨年、2018年5月7、8日に北朝鮮の金正恩委員長の2度目の訪中となった際に
中朝首脳会談が行われた『大连棒棰岛』も訪ねることが出来たのであった。







★旅順
日露戦争の戦跡=「聖地」?をめぐったのであった。激戦地となった203高地、ロシア軍の
堅固な要塞がそのまま残る東鶏冠山、乃木大将とステッセルの会見の舞台である水師営など
見どころは尽きなかったのであった。戦跡周辺の山の木々は、あえて伐採されて戦争当時の
殺伐とした雰囲気を感じるようにされているのではとも。
旅順の戦跡を巡ることによって、日露戦争で斃(たお)れた多くの兵士に思いを馳せ、
彼らの犠牲の上に現在の日本の発展と満洲の躍進があることを再確認したのであった。







そして今回の旅行で一番感じたことは、満洲国時代に日本人によって建てられた建造物が、
戦後74年経た現在でも数え切れないほど残っていて、その多くが今も重要な施設として
大切に使われ保存されていたこと。
中国人にとって見れば、ある意味では『負の遺産』であり、直ぐにでも破壊しても
不思議ではなかったと私は感じているのであるが。
あくまでも個人的な考え方であるが
一つの理由は、この『負の遺産』をナショナリズムの高揚につなげようとする側面があった事は
否めないであろう。つまり、植民地支配という負の歴史が刻まれた建造物を憎悪の感情から
短絡的に破壊してしまうのではなく、それらを敢えて残すことによって、その負の歴史を
乗り越えて、現在の中国の発展があるのだ、という意識を中国国民に植え付けようと
しているのではないかと。
そしてもう一つは、「歴史的・文化的価値の認識」の側面。
満州国時代の建造物の歴史的・文化的価値が中国人にも理解されたということではと。
首都・ 新京(現・長春)の官庁街に多く取り入れられた「帝冠様式」は、五族協和という
満洲国のイデオロギーを体現した建築様式であったが、戦後の国民党政府、さらには
中華人民共和国が成立した後も、同様の様式がそのまま「民族形式」という名の下で
採用され、中国ナショナリズムを体現する様式になったのではなかろうか。
特に近年では、中国の対外的な開放が進み、多くの観光客が期待できるようになったために、
こうした歴史的建造物を積極的に観光資源として活用し、ツーリストマネーに繋げようと
する動きが加速しているのも否定できないのではと。
そして我々の今回のツアーもこのツーリストマネーに繋がる動きの上にまさしく載っかって
いるのであった。



しかし一方で韓国では、日本による支配は恥ずべき歴史であり、日本の近代建築や敵産家屋は
否定性に満ちた「負の遺産」という認識があるため、破壊すべき、との声も多いとのことが
以前の報道で。
ちなみに日本統治時代の名残は、韓国では「日帝残滓(일제잔재、イルチェジャンジェ)」と
呼ばれていると。「残滓」は残りかすという意味。建物に限らず、言葉や文化も同様だと。
しかし一方では、京城府庁舎として使われていた建物は、2012年までソウル市庁舎として
使われていた。老朽化もあり、その後ろに建てられた新庁舎に機能が移ったが、
文化財に指定されるとともに今は図書館としてリニューアルを遂げ、新たな形で活用されて
いることも事実のようだが。

災害や戦争など死や苦しみと結びついた場所を旅する行為は「人類の悲しみの記憶を巡る旅」
であり、悲しみを経験した人々に思いを馳せ、悼み、祈る気持ちを抱き、これを子供たちに
伝えていくことも我々の義務であるとも考えているのである。

そして、私の部屋にあるテレビは今
『第2次世界大戦後に旧ソ連・シベリア地域に抑留されて亡くなった日本人の遺骨として
厚生労働省の派遣団が5年前に持ち帰った16人分の遺骨について、日本人のものでない
可能性が高いことを、厚生省は昨年から把握していたにもかかわらず公表していなかった
ことが7月29日、明らかになった。』とのニュースが。

最後に中国東北部の都市開発、新幹線網の発展のスピードに驚いたのであった。
今回訪れた都市は、日本以上にビルの高層化が進み、高速道路網の発展にも驚いたのであった。
大都市内での車の過剰に拠る渋滞は更に深刻化していた事は明らかであったが、都市を繋ぐ
高速網の発展のスピードは目を見張るものがあった。
そして新幹線網の発達にも驚いたのであった。利用した新幹線は、日本国内の新幹線と勘違い
するほどのスピードと安定感を有していたのであった。そして新幹線の駅舎は、空港ロビーと
これも勘違いするほどの造りになっていたのであった。
中国の新幹線技術の発展は、川崎重工業が東北新幹線「はやて」をベースに技術供与した
ものであると。中国側はこれを「独自開発した」と主張して国際特許出願にまで踏み切った
のだと。JR東日本と組んで新幹線の車輌(技術)を提供した川崎重工業の契約が杜撰で
「技術を盗んでください」といっているようなものだったことが、新幹線技術を中国に盗まれる
原因となったのだと。川崎重工業とJR東日本による中国への新幹線技術の売り込みに一貫して
反対していた人物は「中国に新幹線のような最先端技術を売ることは国を売るようなものだ」と
まで言って反対していたのだと。中国側は「技術供与を受ける際、巨額の特許料を支払っている。
合法的な使用は“盗作”にはあたらない」と反論しているのだと。「350kmの技術があるのに、
なぜ250kmの技術を盗まなければならないのか」とも。
日本国内の鉄道網の整備が飽和状態となる中、海外に活路を求めざるを得なかったのだとも。
高速鉄道に加え、地下鉄などの数多くの大型の都市鉄道計画を持つ巨大市場、中国に目がくらんだ
のだとの指摘も。侃々諤々(かんかんがくがく)の中で真相は如何に??



中国高速鉄道網。
中国の高速鉄道網は、運行開始から10年の間に猛烈なペースで拡大。営業距離は17年末時点で
約2万5,000キロと日本(約3,100キロ)の8倍に達し、世界一の高速鉄道大国に成長している
のだと。


           【https://www.nna.jp/news/show/1787778】より

そして最後に、このツアーは参加人数11名の少人数、男性4名、女性7名の賑やかな、いや
賑やかすぎる?そして当然ながら女性優位の旅であったのだ。
しかも平均年齢は70歳前後であろうか。
しかし、年齢的なことも在り、全員が「PUNCTUAL」そのものであった。
集合時間の10分前には既に全員が揃っているのが当たり前の中でのツアーであった。
しかし、ベテラン添乗員&現地添乗員が、匠の技で女性陣?をコントロールし、
途中からは、ツアー仲間同士が毒舌を交えた冗談や会話が出来る、楽しい旅となったのであった。
そして今回のベテラン添乗員への感謝と、また何処かで一緒に旅をしたいと思っているのである。



さて次回の海外の旅は何処へ?
ブルガリア、ルーマニアの5つの世界遺産を訪ねる旅であろうか?

                              ・・・​もどる​・・・

                  ・・・完・・・






Last updated  2019.08.14 09:04:41
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