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JINさんの陽蜂農遠日記

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2016.10.31
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カテゴリ:国内旅行

開場時間の9時になり富岡製糸場に向かう。

DSC04318_R.JPG

正門左のチケット売り場にて1000円の入場券を購入。

開場時間は9時00分~17時00分(最終入場 16時30分)

休業日は水曜日、年末(12月29日~31日) とのこと。

DSC04481_R.JPG

正門から入り、直ぐ右手に富岡製糸場最後の持ち主の片倉工業株式会社の記念碑が。

この工場創建からの歴史、目的、重要文化財に指定されたことなどが書かれていた。

DSC04320_R.JPG

その隣には、国指定史跡 旧富岡製糸場 の碑。

DSC04321_R.JPG

さらに赤のサルビアの花のその奥に、明治6年の皇后・皇太后の行啓記念碑が。

明治6(1873)年の行啓とのことであるが、この記念碑建造は70年後の昭和18(1943)年。

70周年記念ということも有ったようだが、碑文を読むと、当時行われていた太平洋戦争の

戦意高揚の目的も行間から。

DSC04322_R.JPG

正門に正対している東繭倉庫の入り口。

ネズミ色の窓の多さにビックリ。そしてネズミ色の部分は全て木製。

DSC04477_R.JPG

入口上部アーチの中央に『明治五年』と刻まれた建立石板が。

現在ではビルなどに竣工年月日等を彫り込んだ定礎板を地上付近に埋め込む事が多い。

中には鉛・銅・ステンレス製などの定礎箱が埋め込まれ、建物の図面・定礎式当日の新聞

出資者名簿などが入れられタイムカプセル化されている事もあるようだが。

またこの建立石板は所謂キーストーン(東置繭所要石)でもあるのであろう。

キーストーンは頂上であることを示すと同時に、周囲の建材が崩れないように締める

役目を持つ。このため、構造上も非常に重要な石なのである。

ここからもフランスの技術を導入して建設された事を理解できるのであった。

DSC04326_R.JPG

富岡製糸場の全体地図。基本的に移動は自由。ガイドの解説付きの観光も可能。

個人の見学者を15名くらいの団体に纏めて案内してくれていた。

実際に建物に入ることができるのは、「東繭倉庫」と、工事中の「西繭倉庫」(有料)

そして「繰糸場」の3カ所のみ。おみやげコーナーと体験コーナーは「東繭倉庫」内に。

DSC04324_R.JPG

最初に訪れたのが、この東繭倉庫。入り口から見える象徴的な建物。

長さ104.4メートル、幅12.3メートルの2階建てのこの倉庫には、

1フロアだけで32トンもの繭を貯蔵できたのだと。

倉庫に使っていたのは2階のみで、1階は事務所、作業所だったと。

建築様式は木造の骨組みにレンガを積み立てるという西洋の「木骨レンガ式」を採用。

東繭倉庫 内部一階にはガイダンス展示や売店が。

 

富岡製糸場の歴史なども紹介。明治5年当初に使われていたフランス式糸繰機(復元)も展示。

その他映像コーナー、糸繰機実演など。

そして富岡製糸場の設立計画を担当した政府の役人の一人、尾高惇忠とポール・ブリュナらが

武蔵・上野・信濃の地域 を調査し、次の理由により上野(こうずけ)のここ富岡に場所を

決定したのだと。

1.富岡付近は養蚕が盛んで、生糸の原料である良質な繭が確保できる。

2.工場建設に必要な広い土地が用意できる。

3.製糸に必要な水が鏑川から水を使って確保できる。

4.蒸気機関の燃料である石炭が近くの高崎・吉井で採れる。

5.外国人指導の工場建設に対して地元の人たちの同意が得られた。

DSC04329_R.JPG

富岡製糸場の歴史。

明治5年の操業開始から115年間操業を続けた製糸場は昭和62年(1987)に

操業停止 するまで一貫して生糸の生産がおこなわれ停止後も現状は保存され、

平成17年7月国指定史跡に。

明治維新を迎えたばかりの政府は殖産興業政策を掲げ、輸出品の要の生糸の品質改良と

大量生産を目的に製造工場を導入、日本の工業化の先駆けとしたのだと。

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富岡製糸場 ジオラマによる建築物の説明。 

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官営時代のフランス式繰糸器で操業中の写真。 

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世界遺産登録証。2014年6月25日と記載されていた。

本物?いやコピー?。 一番下に『複製』と小さな文字で。

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内部からの東繭倉庫の窓。窓ガラスはなし。 

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太い木製の柱にはコンクリートの基礎が床上に。

木製の柱が、水分等で腐らないような配慮が。 

木の柱は樹齢300年ほどの木が使われていると。

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養蚕の最初の繭造りの作業工程の説明パネル。 

養蚕:掃立て→桑摘み→桑くれ→上簇→栄繭→収繭→

製糸:乾繭・殺蛹→選繭→煮繭→繰糸→揚返し→仕上げ』(説明展示より)

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錦絵「上州富岡製糸場」(明治5年)

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こちらが「ぐんま黄金」。黄金色の繭。

群馬県オリジナルの「ぐんま」と、「黄繭種」という2つの品種を組み合わせることで、

なんと、天然で光沢のある鮮やかな、この黄金色を実現。

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上州座繰り器の実演コーナー。

江戸時代末期に発明された繭から生糸を取る道具。

しかしこの日は実演は見ることが出来なかった。 

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「群馬オリジナル蚕品種」

七種類のオリジナル蚕品種から出来た特徴ある生糸。 

DSC04362_R.JPG

桑の葉を食む本物のカイコも見ることが出来た。 

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子供の頃、母の実家でも養蚕をやっていたことを想い出したのであった。

そしてカイコが動き桑の葉を食むカサカサの音も。

蚕の数え方は一匹ではなく一頭。人類が最も研究した家畜とも言われているのです。

カイコは、幼虫の運動量も少なく、成虫になった蛾は飛べない事を知ったのは母の実家で。

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東繭倉庫1Fの展示会場を出ると左側にはブルーシートで覆われた機械や

土間が目の前に。

ここには「乾燥場」という、繭を乾燥させる建物があったが、2014年2月の大雪で倒壊。

1922年(大11)に作られた木造の建物とのこと。

修復には相当な時間と費用がかかりそうだ。 

DSC04369_R.JPG

外の階段を上り東繭倉庫の2Fに入る。

東繭倉庫の天井は見事な木造のトラス構造。

トラス構造は外力に対する抵抗力が高く、軽量でありながら形が崩れにくいという

特性を持ち、材料コストを抑えながら、構造体が変形しにくく、大きな構造物や

空間をとることができるのが大きな特徴。

しかし下記写真の如く、この時期のトラス構造は未だ進化の途中か。

中途半端な?場所で縦の柱で連結されていたのであった。

すなわち合掌材と陸梁(ろくばり)を両面から挟むように取り付ける挟み束の位置。

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繭倉庫の内部全体が解るのであった。

鉄骨ではなく、木骨にレンガを組むという珍しい建物。

木骨に使われたのは、妙義山などから伐採した杉の木で、幹周り5メートルのものもあったと。

両側の壁一面、これでもかというくらいに付いている扉。ではなく、これは窓。

なんでこんなに付いているかというと答えは明快で、繭を守るため。

大量の空気を出入りさせ繭にカビを生えさせない等、換気、乾燥が目的と。 

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繭は写真の如き麻袋に入れられ保存されていたと。

そして絹を取った後の蛹は熱で死んでいるが、日本の当時の養蚕農家の多くは、

貴重なタンパク源として人の食用にしたり、鯉、鶏、豚などの飼料として利用したと。

現在でもそのままの形、もしくはさなぎ粉と呼ばれる粉末にして、魚の餌や釣り餌に

することが多いのだと現場ガイドの方から説明受け。 

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東繭倉庫を後にし西繭倉庫に向かう途中、右手の自販機のある休憩場所には

木枝製のユニークな椅子が。 

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西繭倉庫は現在保存の為の修理工事中。 

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北東部分に隣接して3階建ての見学用仮設施設を設置。

屋根瓦の取り外し工事の様子などが見学出来るようになっていた。 

修理現場の見学は有料(200円)。料金を支払い、赤ヘルを被って嬉しそうな旅友。

この御仁は広島出身で赤ヘル大好き人間でこの日は元気があったのですが・・・・。

そして私はハムカツが大好き。

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西繭倉庫も東繭倉庫と同様に木造煉瓦造り。

木の骨組みに、煉瓦で壁を積み上げて造る「木骨煉瓦造り」という西洋の建築方法。

屋根は日本瓦で葺くなど、日本と西洋の技術を見事に融合させた建物。

「木骨煉瓦造」は、最初は横須賀製鉄所で導入された建築工法で横須賀から

富岡製糸場に伝わったのだと。

煉瓦は、フランス人技術者が瓦職人に作り方を教え、福島町(現甘楽町福島)の

笹森稲荷神社東側に窯を築き瓦と共に焼き上げたとのこと。

その中心となったのは韮塚直次郎を含む埼玉県深谷からやってきた瓦職人。

煉瓦の目地には、モルタルの代わりに漆喰を使い、原料となる石灰は下仁田町青倉・栗山で

調達。煉瓦壁は、フランス積みで積まれています。

この積み方は主にフランス北部のフランドル地方で用いられた工法で、

フランドル積みとも呼ばれているのだと。

フランス積みとは、下記の写真の如く、各段に長い面を表面にする長手積みと

短い面を表面にする小口積みを交互に並べ、小口の縦芯(センター)と上下に積まれた

長手の縦芯を必ず揃わせる積み方。

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しかし実は西繭倉庫の外壁の赤煉瓦は本物ではなく養生シートに壁の描かれた絵、

いや映した写真を養生シートに印刷したもの。

海外の有名な教会や寺院の修繕にも良く利用されている方法。

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途中養生シートが下記写真の如く紐で連結されているのであった。

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そして『鉄水溜(てつすいりゅう)』を見学する。 

富岡製糸場で今まで未公開だった鉄水溜が公開になっていたのだ。

明治8年に造られた鉄製プール。

もちろん鉄板は輸入され、大谷石を基礎にして微調整することで傾斜がつけてあった。

直径15m、深さ2.4m。創建当初のレンガにモルタルを塗った貯水槽が

水漏れによって使えなくなったことを受け、横浜製造所に作らせた鉄製の貯水槽で、

その貯水量は約400m3。鉄製の国産構造物としては現存最古とも言われると。

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鉄板をリベットで精密に接着して水を溜ていたのだ。 

ノズルの欠損部分。多くのリベットが狭いピッチで打ち込まれていたのであった。

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欠損部分の穴から底板を見る。

関東大震災にも耐えた、頑丈な造り。

クレーンも無ければブルトーザーも無かった時代に全て人力で組み上げたのでしょう。

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そして西置繭所保存修理仮設見学施設へ。

残念ながら内部の作業の様子は、企業ノウハウか?撮影禁止であった。

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見学施設3Fよりの富岡製糸場の眺め。

当初の煙突は周囲への衛生上の配慮から高さ36 mを備えていたが、

1884年(明治17年)9月26日に暴風で倒れてしまったため、現存しないと。

なお、現在の富岡製糸場に残る高さ37.5 mの煙突はコンクリート製で、

1939年に建造されたものであると。

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そして再び東西の繭倉庫の間の中庭へ。

この時間には多くの団体の観光客や遠足の学生の姿が。 

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右手の小高い丘には松の老木が。そしてその下には白いベンチが。

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Last updated  2016.11.01 08:47:54
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