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カテゴリ:国内旅行
起雲閣ゆかりの「文豪の間」・「初霜」。 昭和23年の谷崎潤一郎、志賀直哉、山本有三の写真。 太宰治は1948年3月7日~31日にこの起雲閣別館に滞在し 「人間失格」を執筆したと。 多くの著名人に愛された起雲閣別館は昭和63年に取り壊されたと。 太宰治ゆかりの間。 私ものんびりとこのソファーに座り庭を楽しみたかったが。 床の間には「きのみやや大樹の・・・・潤一郎?」と書かれた掛け軸が。 山本有三、谷崎潤一郎、志賀直哉、各氏の「起雲閣」とのかかわりと、略歴が 説明されていた。 1947年(昭和22年)11月、山本有三が「玉渓の間」に滞在、1948年(昭和23年)にも滞在。 1948年3月15日に志賀直哉・谷崎潤一郎が来館。山本・志賀・谷崎の三人で文芸対談を。 武田泰淳、舟橋聖一、三島由紀夫、太宰治、各氏の「起雲閣」とのかかわりと、略歴が 説明されていた。 1951年(昭和26年)、舟橋聖一がこの頃からたびたび滞在。 1959年(昭和34年)、武田泰淳が「孔雀の間」に滞在。『貴族の階段』を執筆。 「孔雀の間」、「大鳳の間」に滞在し『芸者小夏』を執筆。 1958年(昭和33年)6月4日、三島由紀夫が新婚旅行で「孔雀の間」に滞在。 1995年(平成7年)6月20日、池田満寿夫が来館。杉本苑子、佐藤陽子と「玉渓の間」にて 文化座談会。 当時の旅館営業許可札や起雲館の備品を紹介していた。 「文豪の間」からの庭園。 次に「尾崎紅葉の間」・「春風」。
尾崎紅葉の大きな写真。 1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。 『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、 幸田露伴と並称され(紅露時代)明治期の文壇の重きをなした。 1897年(明治30年)から『金色夜叉』を書いたが、未完のまま没した日本の小説家。 「尾崎紅葉の間」は、紅葉の名前をイメージしたのか、紅色の壁。 冊子 「尾崎紅葉 生誕100年 記念四大文豪展 尾崎紅葉・正岡子規・幸田露伴・夏目漱石」 。 「暗しとは柳にうきなあさみどり」 の掛け軸と初代お宮の松の写真。 日本橋三越劇場で行われた「金色夜叉」のポスター。 間貫一:江守徹 鴫沢宮:二宮さよ子。 尾崎紅葉の書簡。 お宮の松の写真も飾られていました。 初代お宮の松の写真。 初代お宮の松の切断面の拓本。 年輪がしっかりと確認できた。 紅葉際記念の色紙等も。 「尾崎紅葉の間」からの庭園。 隣は「坪内逍遙の間」・「松風」。 落ち着いた和風の部屋。 坪内逍遙の略歴と主要作品を紹介。 床の間には石碑の拓本?や各種の展示品が。 「逍遙の間」からの庭園。 坪内逍遙自画像。 坪内逍遥はかつて、『私の気に入ったと思うことのあらまし』のなかで熱海について、 次のように書き記している。(写真右) 「熱海の特徴は、軽井沢が避暑の最優勝地であるが如く、我が国に於ける避寒の最優勝地である 上に、頗る有効な温泉があり、加うるに、海と山と田園との三風致を兼ね備え、おまけに 都会的設備と田舎の趣味と両立せしめているという点にある」。 明治~大正時代の古き良きの熱海を思い起こさせるのであった。 熱海市 逍遙ゆかりの地 紹介。 双柿舎での逍遙と夫人の写真も。 坪内逍遙像。 「金剛の間」。 金剛は螺鈿(らでん)細工によって模様が施された洋館。 この建物は、根津嘉一郎別邸のガーデンハウスとして1929年(昭和4年)に竣工。 金剛の間の前室に入ると、天井は、切妻になっていて、そこにステンドグラスが 嵌っています。 床にはタイルを敷いていて、いわゆるチューダー式の意匠。 様々な色調の石を用いた暖炉、柱と梁に施された彫刻や螺鈿(らでん)の装飾など、 格調高い迎賓の雰囲気があふれる仕上がり。
金剛の間の、暖炉の両脇の上方に、両脇に2個所づつ、ステンドグラスの窓が。 このステンドグラスは、今までと打って変わって、中国風のデザイン。 ローマ風浴室入り口。 「ローマ風浴室」。 ローマ風浴室は、床・壁の内装から浴槽の仕様まで当時の姿を再現したも のですが、 窓のステンドグラスや装飾的な湯出口は創建当時のものを用いて いるそうです。 この浴室では、かって、舟橋聖一が「孔雀の間」で執筆し、溝口健二が監督した 『雪夫人絵図』の撮影も行われたと。 別の角度から。 テラコッタ製のカランも。 洗面脱衣室にあるステンドグラスの丸窓 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.02.18 01:43:41
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