2019/11/02(土)08:05
ウズベキスタンへの旅(その24 タシケントから帰路へ: (5/28~29)
ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場の感動にて、本旅行の観光は全て終了し
バスにて夕食会場に向かう。時間は17:11。
途中のロータリーにあったグランド ミール ホテル(Grand Mir Hotel)。
そして最後の夕食会場に。
最後の最後までベジタリアン的な食事が続いたのであった。
これがメインディッシュ(食べかけ)であったのだろうか>
旅の疲れもあり、食事の写真は??
そして渋滞が始まった中、タシケント国際空港に向かう。
Babru streetの跨線橋(こせんきょう)を渡る。
そしてタシケント国際空港に到着。時間は18:53。
正式名はイスラム・カリモフ・タシュケント国際空港
(ウズベク語:Islom Karimov Nomidagi Toshkent Xalqaro Aeroporti)であるが
ユジュニ空港と呼ばれる事もあると。
空港内。
チェックイン前にお土産類を手早くトランクに移すツアー仲間。
帰路のフライトはウズベキスタン航空HY527便 成田空港行き 22:05発。
ウズベキスタンともこれでお別れ。
飛行機は定刻通りウズベキスタン・タシケント国際空港を離陸。
そして離陸後1時間以上が過ぎ機内食が。時間は23:19。
そして往路と同じく中国・新疆ウイグル自治区のウルムチ(Urumqi)上空を飛ぶ。
そして旅の疲れかビールの酔いもあって爆睡。
そして気がつくと機窓には朝の光景が。時間は日本時間6:12。
飛行機は北京~天津上空から黄海に出て韓国。ソウル方面へ。
軽食が運ばれてきた。
韓国を横断し日本海に出て、小松市上空から日本列島上空に。
そして福島県いわき市方面へ。
そして群馬・長野・新潟県の県境付近にて進路変更して成田国際空港へ。
時間は8:55。
そして8時間近くの飛行を終え9:25に成田国際空港に到着。
「Welcome to Japan」 おかえりなさい。
ウズベキスタン・タシケントから飛行機が同じであったアパホテル社長・元谷芙美子氏の姿も。
ピントが合わず残念。
そしてアッと言う間に入国審査も通過し、トランクも無事受け取る。
お世話になったツアー仲間との挨拶も終え、税関も無事通過し日本に帰国したのであった。
成田国際空港には旅友Sさんの車が待っていてくれ、Sさんに自宅まで送って
いただいたのであった。
12時前に無事我が家の到着し、今回の旅も「無事完了」。
旧ソビエト連邦の共和国のウズベキスタン国内を周遊する6泊8日の旅であった。
参加人数はご夫婦2組を含む男7名、女11名、そして男性添乗員の合計18名の旅であった。
平均年齢は私くらいであっただろうか?
高年齢ゆえに参加者皆さんは最後までmost punctualなのであった。
集合時間5分前には完全に全員がそろい旅程通りの旅を楽しむ事ができたのであった。
そして終盤には一人一人の名前も覚え、会話も弾み和気藹々の楽しい旅となったのであった。
ウズベキスタンは、カザフスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、キルギスタン、
そして、ウズベキスタンの5カ国からなる中央アジア諸国のひとつ。
いずれの国も1991年に旧ソ連が崩壊して生まれた新しい国なのであった。
そしてウズベキスタンは、他の4カ国すべてと国境を接している唯一の国。
つまり、中央アジア諸国の真ん中であり、シルクロードのど真ん中にある国であった。
遥か遠い昔、東洋と西洋を結んだ東西交易路シルクロード。その丁度、中間に位置し、
キャラバン隊のオアシスとして発展したのがこのウズベキスタン。
ウズベキスタンは乾燥した内陸国。ウズベキスタンは世界に2つしか無い
二重内陸国(もう一つはリヒテンシュタイン)であり、海へと出るためには国を
「2つ」越える必要があるのであった。アフリカにもその様な国が多くあると思っていたが
世界地図を見てこの事実を今回の旅で初めて知ったのであった。
加えて、内陸国の河川流域という特性上、海へと直接つながっている国内河川はなく、
領土の10%にも満たない灌漑農業用地や河川流域のオアシスに似た土地で集中的に
農業が行われており、残りの領土は広大な砂漠(キジルクム砂漠)と険しい山々で
占められていたのであった。
シルクロード=砂漠地帯を貫く道、であると認識していたが、ウズベキスタンも基本は
砂漠地帯なのであった。しかしタシケントの東には天山山脈がそびえ、川が幾つも
流れているので、農業が発展し、野菜が豊富なウズベキスタンなのであった。
レストランのテーブルには必ずトマト、キュウリ、タマネギのバジル風味のサラダ・
「アッチク・チュチュク」と季節の果物が用意され、異国の地で暫しのベジタリアン生活を
楽しんだのであった。
ウズベキスタンは様々な民族によって構成されている多民族国家であり、国内の主要民族は
ウズベク人。現在、総人口の約70%がウズベク人とのこと。
主な少数民族としては、ロシア人(8%)、タジク人(5~30%)、カザフ人(4%)、タタール人(2.5%)、カラカルパク人(2%)などがいると。
しかし、ロシア人やその他の少数民族が他国へと移住し、ソビエト連邦時代に他国に
居住していたウズベク人がウズベキスタンに帰国していることから、ウズベキスタン国内に
住むウズベク人以外の民族の割合は減少傾向にあると添乗員から。
そしてウズべキスタンの人々は、人なつっこい親日であることに嬉しく感動したのであった。
旅の途中に、老若男女の方々から自分のスマホやカメラで一緒に写真を撮って欲しいと
何回となく声を掛けられ応じたのであった。目を輝かせながら、興奮したように
男女の子供や少年達が駆け寄ってくる姿も実に印象的であり感動そのもの。
そして私がカメラを向け写真を撮っても嫌がらない、というか、むしろ撮って撮ってと
言われて自ら笑顔でポーズをとってくれ、撮ると逆にお礼を言われるのであった。
思いも寄らない程に、旅人いや「日本人」に優しいウズベキスタンの国民であり
一期一会の旅なのであった。
ヒヴァの街に着いてまず最初に目に入ったのが、ドーンと高くそびえ立つ城壁であった。
城壁周辺の現地に人々と「アッサローム アレイコム!」とお互いに笑顔で挨拶が
出来たのであった。
街は外敵を防ぐために外壁と内壁の二重の城壁に守られており、内側の城壁に囲まれた内城・
イチャン・カラには20のモスク、20のマドラサ、6基のミナレットなど多くの遺跡が
残されていた。城壁の上に登ると土色一色の世界と青のドームが所々に。
タイムスリップしたような風景そのものが眼前に拡がっていたのであった。
この景色は何百年と変わらずに存在しているのであろうと、暫しノスタルジーに浸ったのであった。
ブハラは現在も青色がまばゆい壮麗なイスラム建築物が立ち並び、その昔キャラバン隊が
足を休めた砂色のバザールが点在するエキゾチックな街並みなのであった。
紀元前からの歴史を持つオアシス都市。中世の時代に築かれた建築物が多く残る
それらの街を早朝散歩、観光で歩くとシルクロードの時代へとこの地もタイムスリップの
旅が存在していたであった。
シャフリサーブスは『緑の街』と言う意味を持ち、遠くにザラフシャン山脈が見える
谷間の小さな町で、かつては緑豊かなオアシス都市であったのだ。
古くから『ケシュ』という名で知られており、7世紀には三蔵法師も訪れたことがあるのだと。
シャフリサーブスはゾグディアナの古都で、ティムールの生まれた場所として有名。
ティムールはサマルカンドにも劣らない雄大な建築物をシャフリサーブスに建てたが、
16世紀後半にブハラのアブドゥール・ハーンによってほとんどの建物が破壊されてしまったと。
その為か、あまり派手さはなく、静かで落ち着いた観光地だという印象を受けたのであった。
なお、シャフリサーブス歴史地区も、2000年にユネスコ世界文化遺産に認定されているのであった。
「青の都」と呼ばれる古都サマルカンドは、ウズベキスタンの英雄と呼ばれるティムールが
築いた街。紀元前よりシルクロードの要衝として栄えたこの街は、13世紀にモンゴル軍の
攻撃によって廃墟となったと。そんな廃墟を、この世でもっとも美しい都市を目指して再建し、
ティムール王朝を築き上げたのであった。彼は、遠征先から一流の芸術家や職人を連れ帰り、
モスクや廟を次々と造らせたと。
連日続いた抜けるような青空と平和を象徴する青いタイルで装飾された歴史的建築物には
感動の連続であった。またモスクのドームやイスラム教神学校のメドレセ、霊廟などを覆う
青色タイルは、ペルシャの職人の技術をもとに、中国の陶磁器とアラブの顔料が融合した
シルクロードが生んだ芸術なのであった。
人々はその鮮やかな青色を「サマルカンド・ブルー」と呼んでいるのだと。
それら美しい青色を基調とした建造物群は「サマルカンド文化交叉路」として世界遺産に
登録されているのであった。
中でもひときわ目を引いたのが街の中心に建つ3つのメドレセ(神学校)がとりまく
レギスタン広場。ティムール朝時代の政治・経済・文化の中心であった場所で、
ライトアップも神秘的で美しく、また抜けるような青空の下に堂々と建つ、青タイルで
装飾された建造物群の美しさに感動の連続。
まるで天と地が「青」のカオスの混沌とした世界なのであった。
最後に訪れた日本人抑留者墓地、そして第二次大戦後にタシケントに連れてこられた
日本人抑留者の強制労働によって建てられたナヴォイ・オペラ・バレエ劇場。
戦争中も日本国の為に戦い、その結果無数の白骨を太平洋や大陸のあちこちに晒し、
捕虜になっても更にまじめに労役に服し、戦争が終わってもひたすら働くことに
身をささげた日本人がいたという真実を今更ながら知ることが出来た旅なのであった。
敗戦直後という地獄の中で、人類を結ぶ友情と平和のシルクロードをウズベキスタンに
築いてくれた日本人抑留者に、心から手を合わせ、感謝と称賛・敬意・頭を垂れて『合掌』の
気持ちをツアー仲間全員で共有したのであった。
日本人抑留者墓地を美しく管理してくれているウズベキスタンの方々にも感謝。
ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場。
そして今でもウズベキスタンのモスクのドームやイスラム教神学校のメドレセ、霊廟などを
覆っていた青色タイルが目に焼き付いているのである。
そしてイーワーン( Iwan)のムカルナスも。
ありがとう、お世話になりました、ウズベキスタン。
さて次回は何処へ。
既にこのツアー帰国時には2週間後の6月10日からの中国・北京の世界遺産を2泊3日で
訪ねる旅は決定していたのであった。
よって来年は何処へ?
①ポルトガル周遊
②バルカン半島のギリシャ、アルバニア、ブルガリア、マケドニア・・・諸国
を訪ねる旅が候補に挙がっているが旅友のSさんと相談して次回の弥次喜多道中の
旅にチャレンジしたいと思っているのである。
『ウズベキスタンへの旅』へのブログアクセス ありがとうございました。