|
カテゴリ:海外旅行
ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場の感動にて、本旅行の観光は全て終了し
バスにて夕食会場に向かう。時間は17:11。 途中のロータリーにあったグランド ミール ホテル(Grand Mir Hotel)。 そして最後の夕食会場に。 最後の最後までベジタリアン的な食事が続いたのであった。 これがメインディッシュ(食べかけ)であったのだろうか> 旅の疲れもあり、食事の写真は?? そして渋滞が始まった中、タシケント国際空港に向かう。 Babru streetの跨線橋(こせんきょう)を渡る。 そしてタシケント国際空港に到着。時間は18:53。 正式名はイスラム・カリモフ・タシュケント国際空港 (ウズベク語:Islom Karimov Nomidagi Toshkent Xalqaro Aeroporti)であるが ユジュニ空港と呼ばれる事もあると。 空港内。 チェックイン前にお土産類を手早くトランクに移すツアー仲間。 帰路のフライトはウズベキスタン航空HY527便 成田空港行き 22:05発。 ウズベキスタンともこれでお別れ。 飛行機は定刻通りウズベキスタン・タシケント国際空港を離陸。 そして離陸後1時間以上が過ぎ機内食が。時間は23:19。 そして往路と同じく中国・新疆ウイグル自治区のウルムチ(Urumqi)上空を飛ぶ。 そして旅の疲れかビールの酔いもあって爆睡。 そして気がつくと機窓には朝の光景が。時間は日本時間6:12。 飛行機は北京~天津上空から黄海に出て韓国。ソウル方面へ。 軽食が運ばれてきた。 韓国を横断し日本海に出て、小松市上空から日本列島上空に。 そして福島県いわき市方面へ。 そして群馬・長野・新潟県の県境付近にて進路変更して成田国際空港へ。 時間は8:55。 そして8時間近くの飛行を終え9:25に成田国際空港に到着。 「Welcome to Japan」 おかえりなさい。 ウズベキスタン・タシケントから飛行機が同じであったアパホテル社長・元谷芙美子氏の姿も。 ピントが合わず残念。 そしてアッと言う間に入国審査も通過し、トランクも無事受け取る。 お世話になったツアー仲間との挨拶も終え、税関も無事通過し日本に帰国したのであった。 成田国際空港には旅友Sさんの車が待っていてくれ、Sさんに自宅まで送って いただいたのであった。 12時前に無事我が家の到着し、今回の旅も「無事完了」。 旧ソビエト連邦の共和国のウズベキスタン国内を周遊する6泊8日の旅であった。 参加人数はご夫婦2組を含む男7名、女11名、そして男性添乗員の合計18名の旅であった。 平均年齢は私くらいであっただろうか? 高年齢ゆえに参加者皆さんは最後までmost punctualなのであった。 集合時間5分前には完全に全員がそろい旅程通りの旅を楽しむ事ができたのであった。 そして終盤には一人一人の名前も覚え、会話も弾み和気藹々の楽しい旅となったのであった。 ウズベキスタンは、カザフスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、キルギスタン、 そして、ウズベキスタンの5カ国からなる中央アジア諸国のひとつ。 いずれの国も1991年に旧ソ連が崩壊して生まれた新しい国なのであった。 そしてウズベキスタンは、他の4カ国すべてと国境を接している唯一の国。 つまり、中央アジア諸国の真ん中であり、シルクロードのど真ん中にある国であった。 遥か遠い昔、東洋と西洋を結んだ東西交易路シルクロード。その丁度、中間に位置し、 キャラバン隊のオアシスとして発展したのがこのウズベキスタン。 ウズベキスタンは乾燥した内陸国。ウズベキスタンは世界に2つしか無い 二重内陸国(もう一つはリヒテンシュタイン)であり、海へと出るためには国を 「2つ」越える必要があるのであった。アフリカにもその様な国が多くあると思っていたが 世界地図を見てこの事実を今回の旅で初めて知ったのであった。 加えて、内陸国の河川流域という特性上、海へと直接つながっている国内河川はなく、 領土の10%にも満たない灌漑農業用地や河川流域のオアシスに似た土地で集中的に 農業が行われており、残りの領土は広大な砂漠(キジルクム砂漠)と険しい山々で 占められていたのであった。 シルクロード=砂漠地帯を貫く道、であると認識していたが、ウズベキスタンも基本は 砂漠地帯なのであった。しかしタシケントの東には天山山脈がそびえ、川が幾つも 流れているので、農業が発展し、野菜が豊富なウズベキスタンなのであった。 レストランのテーブルには必ずトマト、キュウリ、タマネギのバジル風味のサラダ・ 「アッチク・チュチュク」と季節の果物が用意され、異国の地で暫しのベジタリアン生活を 楽しんだのであった。 ウズベキスタンは様々な民族によって構成されている多民族国家であり、国内の主要民族は ウズベク人。現在、総人口の約70%がウズベク人とのこと。 主な少数民族としては、ロシア人(8%)、タジク人(5~30%)、カザフ人(4%)、タタール人(2.5%)、カラカルパク人(2%)などがいると。 しかし、ロシア人やその他の少数民族が他国へと移住し、ソビエト連邦時代に他国に 居住していたウズベク人がウズベキスタンに帰国していることから、ウズベキスタン国内に 住むウズベク人以外の民族の割合は減少傾向にあると添乗員から。 そしてウズべキスタンの人々は、人なつっこい親日であることに嬉しく感動したのであった。 旅の途中に、老若男女の方々から自分のスマホやカメラで一緒に写真を撮って欲しいと 何回となく声を掛けられ応じたのであった。目を輝かせながら、興奮したように 男女の子供や少年達が駆け寄ってくる姿も実に印象的であり感動そのもの。 そして私がカメラを向け写真を撮っても嫌がらない、というか、むしろ撮って撮ってと 言われて自ら笑顔でポーズをとってくれ、撮ると逆にお礼を言われるのであった。 思いも寄らない程に、旅人いや「日本人」に優しいウズベキスタンの国民であり 一期一会の旅なのであった。 ヒヴァの街に着いてまず最初に目に入ったのが、ドーンと高くそびえ立つ城壁であった。 城壁周辺の現地に人々と「アッサローム アレイコム!」とお互いに笑顔で挨拶が 出来たのであった。 街は外敵を防ぐために外壁と内壁の二重の城壁に守られており、内側の城壁に囲まれた内城・ イチャン・カラには20のモスク、20のマドラサ、6基のミナレットなど多くの遺跡が 残されていた。城壁の上に登ると土色一色の世界と青のドームが所々に。 タイムスリップしたような風景そのものが眼前に拡がっていたのであった。 この景色は何百年と変わらずに存在しているのであろうと、暫しノスタルジーに浸ったのであった。 ブハラは現在も青色がまばゆい壮麗なイスラム建築物が立ち並び、その昔キャラバン隊が 足を休めた砂色のバザールが点在するエキゾチックな街並みなのであった。 紀元前からの歴史を持つオアシス都市。中世の時代に築かれた建築物が多く残る それらの街を早朝散歩、観光で歩くとシルクロードの時代へとこの地もタイムスリップの 旅が存在していたであった。
「青の都」と呼ばれる古都サマルカンドは、ウズベキスタンの英雄と呼ばれるティムールが お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|