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JINさんの陽蜂農遠日記

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2018.06.30
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カテゴリ:海外旅行
楽寿堂(がくじゅどう)。
楽寿堂は1776年に乾隆帝が建設したが、後には西太后が60歳を過ぎてから居住した。 
楽寿堂の中には、自らも書家が出来るほどの腕前である乾隆帝の数々の書が各部屋を飾っていた。 
玉で造られた仏像等の作品群も多数展示されておりここは、まさに宝の山という建物。 
乾隆帝は権力に任せて、欲しいものは何でも手に入れたのだと。
​​

​​
中国最大級の玉の彫刻、「大禹 治水図玉山」が展示されていた。
ここでの一番の宝物は、この「大禹 治水図玉山」という、
洪水を治めて帝位についたという禹の治水伝説を一つの玉に掘り込んだ玉の作品。 
​​

​​
清朝の記録では、この巨大な玉の原石は乾隆帝の勅命に より、新疆のミーローター山
から掘り出された。 重さは100トンもあったとか。
​​新疆から北京までの約1万kmの距離を新たに道を開き、河には橋を架け、冬の間に、
凍った道を車幅12mもの特大 の運搬車で、数百頭の馬と1000人近い人夫が3年かけて
運んだと。 乾隆帝は王宮に伝わる宋代以前の作とされる「大禹治水図」が色あせ
劣化したことを惜しみ、中国古代の伝説的な帝王「禹」の治水事業を後世に伝えるために、
巨大な玉に治水の物語をそのまま刻ませたのだと。
​​

​​​​
別の角度から。
​​

​​
製作工数15万人工の大工作を、1組60名の玉匠が3組で、昼夜兼行で製作にかかり、
乾隆52年(1787)、製作年月6年かけてようやく完成させたと。
​​

​​
そそり立つ巨岩、奥深い洞穴、岩間に生える樹木の間を険しい坂道を上り、
狭い足場の上に立って、鑿(のみ)や槌などの初歩的な道具で山を
切り崩そうとして蟻のように働く人々が生き生きと彫り込まれていた。
​​

​​
さすがの蒋介石も、高さ2.4m、幅0.96m、重さ5.3 トンもある超巨大な玉彫は、
重すぎて持ち出すことを諦めた?
大八車の如きを押す人物を刻み込んだ精巧な玉の彫刻。
​​​​

​​
楽寿堂の天井近く。
​​​​「興和気游」の文字が。
​​

​​
見事なソファー。
​​


和軒。


​​
ここにも日時計が。
​​

​​
「太和完満」の文字が。
​​

​​
何が書かれていたのであろうか?
​​

​​
??殿前の中庭。
​​

​​
​​珍妃井。
珍妃(ちんぴ、あるいは ちんひ:1876227 - 1900815日)は、清の光緒帝の
側妃の一人。光緒帝に最も寵愛された妃であったと。
​​

​​
西太后の指示により、珍妃が投げ込まれた井戸
珍妃は皇帝の寵愛を懼れた西太后によって、小部屋に監禁状態で食事も満足に与えられず、
痩せ細っていったと。外国軍が攻めてきた時、逃げるためようやく解放されたが
嫉妬深い西太后は皇帝にあわせることを嫌い、殺してしまおうと
「捕まればレイプされて名誉が傷つく」という名目のもと自害するように部下に
命令を下した。
​​

​​
これを聞いた珍妃はなぜ自分だけ自害しなければならないのか納得がいかず拒否をしたが、
部下は西太后の言葉は絶対なので縛って無理やり投げ込まれたと。
痩せ細っていたし、手加減などなく、無理矢理にこの井戸にに入れたのだと。
​​

​​
近くの建物の屋根には様々な動物が。
​​

​​
隅櫓の如し。
​​

​​
角楼(故宮東門外)
​​

​​​​
城壁の四隅にある角楼は外部から宮殿を守る防衛施設。
その形状はユニークで、頂部の入母屋が十字に交叉すしその下には更に4面に
入母屋が設けられている構造はどことなく日本の城の天守閣を思い起こさせるのであった。
​​複雑にして精緻、起伏に富んだこの3層構造は、コオロギを飼うための虫籠の形が
ヒントになったという伝説があるのだと。日本風に言えば、巨大な隅櫓なのであろう。
​​しかし中央には宝珠が。
​​

​​
東筒子は故宮の北東に位置する南北300メートルほどの赤い壁の通路。
寧寿宮区の北の出口から出て左に曲がって歩いていくとすぐ道の左側に路地がある。
それが東筒子で、溥儀が自転車で走って遊んだ場所だと言い伝えられている。
人の少ない早朝にここを歩いていると、ふと赤い壁の向こうからラストエンペラー
溥儀が自転車に乗って走ってきそうな錯覚を覚える幻想的な空間。
​​​​

​​
神武門。
皇后主催の儀礼「先蚕」のために皇后たちが外出する際や、清朝皇帝の妃を選ぶ試験
「選秀女」のためにお妃候補が入城する際などに使われた門。
中央は皇帝・皇后専用で、妃や官吏は両脇の門を使っていた。
1924年、溥儀が故宮を離れる時はこの門から退出した。
午門、神武門のほか、現在は閉ざされている東の東華門、西の西華門という二つの
城門が存在する。神武門は故宮(紫禁城)の北門。
​​

​​
神武門 説明板。
​​

​​
順貞門を振り返る。
​​

​​
「順貞門」と書かれた扁額。
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神武門を潜る。
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​​
出口を出ると、向かい側に景山公園が。
​​明・清代の皇帝の庭園となった山で、明代に紫禁城を作ったとき、元の宮殿であった
延春閣の跡地に、堀を掘った時の残土で人工の五つの峰を形成する形に作られたと。
紫禁城に殺気が入ることを防ぐために、紫禁城の真北に作られたと言われている。
これは背山面水という風水の考え方を実現したものである。明国時代に景山は公園化された。
現在は故宮博物院のすぐ北にある。山頂の堂(万春亭)からの故宮の展望は素晴らしいと。
​​


山頂の堂・万春亭には多くの観光客が。


​​
山裾にある观妙亭。
​​

​​
神武門(しんぶもん)。
神武門は紫禁城の北門。
​​ラストエンペラー溥儀はこの門から故宮を後にしたことを想いだしたのであった。
​​

​​​​
角桜(故宮東門外)が見えた。
​​

​​
城壁の四隅にある角楼は外部から宮殿を守る防衛施設。
日本の城の天守の如し。
​​​​

​​​​
景山東街まで歩きバスを待つ。
​​​​

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トロリーバス。
​​

​​
東四十条から公人体育場北路に向かって走る。
環状道路・東二環は渋滞が始まっていた。
​​

​​
工人体育場。
​​サッカーの試合に使用される事が多く、1996年から2005年の間、そして改装後の2009年から再び中国サッカー・スーパーリーグの北京国安のホームスタジアムとなっている。また、サッカー中国代表のホームスタジアムにもなっている。2004年のアジアカップでは開催スタジアムの一つとして、グループリーグ5試合と準々決勝1試合、準決勝1試合、3位決定戦と決勝戦が行われた。2008年に開催された北京オリンピックのサッカー競技では、女子決勝を含む全試合数のおよそ4分の1にあたる試合が実施された。また、毎年秋に開催されている北京国際マラソンのゴール地点でもある。


​​
地下鉄・呼家楼駅(こかろうえき)への入口。
​​

​​
そしてこの日の夕飯会場へ。
​​場所は呼家楼宾馆 (Hujialou Hotel)下レストラン・呼家楼小吃店。​​
​​

​​
入口には真っ赤な大きな金魚が。
​​​​


中華料理は旨かったが、写真はピンボケが多かった。
​​











                   ・・・​つづく​・・・​​・





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Last updated  2019.11.02 00:57:09
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