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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.01.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

前回11/5(月)に川崎宿から保土ヶ谷宿まで歩いていたので、今回11/14(水)に旅友と
東海道53次の保土ヶ谷宿から戸塚宿そして藤沢宿へ向かった。
保土ヶ谷宿から藤沢宿までは約16.7Kmの距離。



保土ヶ谷駅中央改札出口で旅友と9:00に待ち合わせ。



そして保土ヶ谷駅西口からこの日の旧東海道を歩き始める。



『歴史の道 東海道保土ヶ谷宿周辺散策案内図』。



旧東海道に入る。まだ人通りは少なかった。



『助郷会所跡』。
宿場で賄い(まかない)きれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを
助郷を云い、指定された村を助郷村と云うと。助郷は東海道が整備されてから交通量が
増加してきた17世紀半ばころに次第に制度化されて来た。
享保10年(1725)に定められた保土ヶ谷宿の助郷村はおよそ40か村で
現在の保土ヶ谷区内のみならず、旭、西、中、南、港南、磯子、戸塚の各地域に及んだ。
こうした助郷村は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所と云う事務所を
設けていたのだと。



『歴史の道 問屋場跡』。
問屋場
宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府
公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場、
宿場の中でも最も重要な施設のひとつ。

助 郷
宿場で賭いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを助郷、指定さ
た村を助郷村という。

高札場 
高札場は、幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札=「高札」を掲示した
施設である。



初代広重作の、庄野「人馬宿継之図」。
問屋場は、江戸と全国各地の間で送付される幕府の書状の継立(つぎたて)や、
参勤交代の大名行列時などに周辺の村々から動員された人足・馬の差配を取り仕切る場所であり、
街道に面した宿場の中心に設置されている場合が多かったようである。



商店のシャッターに描かれた東海道53次「程か谷 新町入口」。



『高札場跡』
宝暦13年(1763)に普請された保土ヶ谷宿の高札場は幅二間半(約
4.5m)、高さ一丈(約3m)の規模であった。
一般の法令以外にも、隣の宿場までの荷物の運搬料金や旅籠屋の
木賃(宿泊料)等を細かく記載した高札も掲示されたと。



『金沢横丁』。



左手に行くと、かなさわ・かまくら道であると。



東海道と金沢八景・浦賀へ通じる金沢道とが分岐する四つ角に石碑が4基。
金沢道は梅の名所の杉田梅林、景勝地の金沢八景、名所旧跡の鎌倉、江の島弁天参詣
などに行くために多くの人々が訪れた道であり、幕末にはペリー来航で幕府役人が、
浦賀へ通った道でもあったと。



『金沢横町道標4基』
「この地は、旧東海道の東側で、金沢・浦賀往還への出入口にあたり、通称「金沢横町」と
呼ばれました。 金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が
枝道にあるため、 道標として四基が建立され、現在残っています。 四基の道標は、それぞれ次のとおりです(右側から番号を付す)。
1. 円海山之道〔天明三年(一七八三)建立〕左面に「かなさわかまくらへ通りぬけ」と刻されています。 建立者は保土ヶ谷宿大須賀吉左衛門です。 円海山は「峯のお灸」で有名でした。 
2 かなさわ、かまくら道〔天和二年(一六八二)建立〕 
左面に「ぐめうし道」と刻されています。 
3 杉田道〔文化十一年(一八一四)建立〕 正面に「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」と刻されています。
句碑を兼ねた道標は珍しく、また作者の其爪は江戸の人で河東節の家元です。
4 富岡山芋大明神社の道〔弘化二年(一八四五)建立〕
建立者は柳島村(現茅ヶ崎市)の藤間氏。 芋明神は、富岡の長昌寺で、
ほうそうの守り神として信仰を集めていました。 」と。



JR東海道線&横須賀線の踏切を渡る。



藤沢方面。



右手に曲がり国道1号線に入ると『歴史の道 旧東海道』の標柱が。



『歴史の道 本陣跡』。
公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣・脇本陣である。
その格式と引き換えに制約や出費も多く経営は必ずしも楽ではなかった。
また、休息のみに利用された茶屋本陣もあった。
本陣は、代々苅部家がつとめた。現在は当時を偲ばせる門や土蔵が残っている。
1870(明治3)年に軽部に改姓し、現在も在住。



『歴史の道 本陣跡』。
「慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が
「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。
東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。
保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が
代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、
安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、
初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。
本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。
保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の33軒の脇本陣がありました。」と。



『脇本陣(大金子屋)跡』
天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模
建坪79坪(約261㎡) 間口7間(約12.7m) 奥行11間半(約20.9m) 
室数13。



『 脇本陣(藤屋)跡』。
天保年間の藤屋(四郎兵衛)の規模
建坪119坪(約293㎡) 間口6間半(約11.8m) 奥行18間(約32.7m)
室数14 玄関付 。



『 脇本陣(水屋)跡』。
天保年間の水屋(与右衛門)の規模
建坪128坪(約423㎡) 間口8間(約14.5m) 奥行16間(約29m) 
室数14 玄関門構付。



『歴史の道 保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設』。
本陣・脇本陣
公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣(1軒)脇本陣(3軒)で、
明治3年の宿駅制度廃止まで続いていました。しかし、その格式と引き換えに制約や出費も多く、
経営は必ずしも楽ではなかったようです。 

茶屋本陣
正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋が上方見附付近にあり、「茶屋本陣」と
呼ばれていました。
苅部本陣を利用しない大名が休息するほか、参勤交代の大名の出迎えもしていたとされています。 

旅籠屋
はじめは「木賃旅籠屋」といって食事を出さず、旅人が持参した食糧を自炊する薪を提供する
だけでしたが、元禄(1690年代)のころから食事や酒を提供する旅籠屋も増えてきました。
保土ヶ谷宿の旅籠屋の数は寛政12年(1800)には37軒でしたが、天保13年(1842)には
69軒となっています。 

茶屋
往来する旅人が休息するために宿内には茶屋がありました。文政7年(1824)の
保土ヶ谷宿には33軒の茶屋があり、金沢横町の茶屋七左衛門が茶屋惣代でした。



『早朝出発する大名行列の様子』
武家の行列が保土ヶ谷宿を通行する状況を描いている。
篝火(かがりび)や「保土ヶ谷宿」と記された提灯が各家の軒先に多数配置されており、
手前の門(本陣か)から行列が薄明の内から出発する様子であろうか。



旧東海道を進む。



『旅籠屋(本金子屋)跡』



天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模
建坪79坪(約261m)間口7間(約12.7m)奥行11間半(約20.9m)室数13



格子戸や通用門が当時の旅籠の雰囲気を伝えている。現在の建物は1869(明治2)年の建築。
旅籠屋が元禄年間(1688~1704年)で37軒、天保13年(1842年)になると69軒もあったと。



『まちかど博物館』
保土ケ谷区では、H19年3月に策定した「歴史まちなみ基本構想」に掲げている方針の一つ
「地域住民間、地域住民と来街者間の交流機能を育て、巡り歩いて楽しめるまちを創る」を
実現するために、保土ケ谷の歴史、文化及び技術・技能を広く区民や来街者に周知し、
交流の活性化及び産業の振興を図ることを目的として、「まちかど博物館」を旧東海道沿いに
モデル的に7館設置していると。



『茶屋本陣跡』。



国道1号線沿いの今井川。



今井川に架かる茶屋町橋(ちゃやまちはし)。



『歴史の道 一里塚跡、上方見附跡』。
一里塚跡
街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。
一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つよう
榎など木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、江戸から八番目のものです。 

上方見附跡
保土ケ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ケ谷区郷土史によれば、
外川神社の前にあったとされています。 見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ
構造をしており、「土居」とも呼ばれています。
この上方見附から江戸方見附までは、 家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。



『東海道保土ヶ谷宿の松並木と復元事業』。
「保土ヶ谷宿の松並木 我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、
全国的な規模取り組まれるようになったのは江戸時代にはいってからです。慶長9年(1604年)
幕府は諸国の街道に並木を植えるよう命じました。以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、
植樹帯は旅人の休息場所となることから、官民挙げて大切に保護されました。 
保土ヶ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、広重や北斎などの浮世絵にも
度々描かれました。その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されてきましたが、
時代とともに減り続け、現在は旧東海道の権太坂付近にわずかな名残を留めるだけに
なってしまいました。 
この度の松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った約300mの
区間に松などの木々数十本を植えました。 



保土ヶ谷宿の一里塚 松並木と同時期、街道の距離の目安として、日本橋を起点に
一里(約4km)ごとに築かれたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土を盛って
小山をつくり、その上には遠くからでも目立つよう榎や松などの木々が植えられていました。 
保土ヶ谷宿の一里塚は日本橋から八番目に位置し、この付近(現在の車道上)にありましたが、
古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。
その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。 
この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような「五間(9m)四方」に
相当する大きさの塚を築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、
松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。」と。



外川神社(とがわじんじゃ)へ渡る仙人橋(せんにんはし)。



江戸時代の出羽三山講に由来を持つ神社で、羽黒山から勧請されたと。
はじめ外川仙人大権現と称したが、明治二年の神仏分離令により、日本武尊を祭神と定め、
社名を外川神社と改めた。その神験は著しく、ことに小児の虫封じや航海の安全に御利益が
あったとして、遠近から参詣する者が絶えなかったと。



一里塚跡、上方見附跡。
江戸幕府は、諸国の街道に松並を植えるよう命じた。
以来、夏は木陰をつくり、冬は風雪を防ぎ、旅人の休息の場となったと。



外川神社を今井川越しに見る。



立派な松並木に成長するのはいつであろうか?



江戸時代から保土ヶ谷宿の内に出羽三山講があった。幕末の頃、その講元で先達でもあった
淸宮輿一が、湯殿・月山・羽黒の三山の霊場を参拝した際に、羽黒山麓の外川仙人大権現の
分霊を勧請し、自分の屋敷内(現在の地)に奉ったと。



背の高い石碑が湯殿山供養塔。



今井川で羽を休めていたのはマガモの雌であろうか。



               ・・・旧東海道を歩く(川崎~保土ケ谷)その7 ・・・に戻る
                  

                   ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2020.04.26 15:47:26
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Re:旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢)その1・保土ヶ谷駅~一里塚跡、上方見附跡(01/11)   ozin0523 さん
集合場所が戸塚になっていますよ (2019.01.11 10:21:46)

Re[1]:旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢)その1・保土ヶ谷駅~一里塚跡、上方見附跡(01/11)   jinsan0716 さん
ozin0523さんへ
ありがとうございます。変更しました。
(2019.01.11 10:50:05)

Re:旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢)その1・保土ヶ谷駅~一里塚跡、上方見附跡(01/11)   無手勝 さん
マガモのメスとカルガモはよく似ています。写真のはクチバシが黒くて先端が黄色いのでマガモですね。 (2019.01.11 17:32:59)

Re:旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢)その1・保土ヶ谷駅~一里塚跡、上方見附跡(01/11)   無手勝 さん
間違えて送信してしまいました。カルガモです。 (2019.01.11 17:36:55)


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