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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.01.19
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

遊行寺を後にし、いろは坂を下り惣門から西日の輝く遊行寺橋に向かう。
小さな橋ですが、赤くて印象的。時間は16:09。



『遊行寺橋(旧大鋸橋)・高札場跡』
江戸から東海道を進むと、東海道第六の宿、藤沢宿内の遊行寺橋(旧大鋸橋)で境川(片瀬川)を
越えて鎌倉郡から高座郡に入ります。橋を渡って、右手が大久保町。橋のたもとに高札場があり、
公定運賃の定め、キリシタン禁制など、徳川幕府の重要法令が掲示されていました。
高札場は屋根付きで高さ約3.6m、横幅5.4m、縦幅1.8mの規模であったと。
左手(南側)には「江の島一ノ鳥居」が建てられていた。
江の島弁財天の遙拝の鳥居で、東海道と別れて鳥居をくぐれば、「江の島道」です。



国道1号線の藤沢橋を振り返る。



『東海道五十三次 藤澤宿』。
藤沢宿は東海道の江戸日本橋から数えて6番目の宿場。
すでに戦国時代から、小田原北条氏が弘治元年(1555年)に藤沢大鋸町に伝馬(てんま)を
置くなど、交通上の要地ではあったが、慶長6年(1601年)に駅制が定められるにあたって
藤沢宿として整備され成立した。また、それ以前の慶長元年(1596年)に徳川将軍家の
宿泊施設である藤沢御殿が築かれていた(17世紀半ばに廃止)。
宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で
構成されており、範囲は遊行寺東側の江戸方見附(みつけ)から台町の東手前
(小田急江ノ島線を越えたあたり)の京方(上方)見附までであった。
下の浮世絵は藤沢宿の夜の風景で、右側にある鳥居が江の島一ノ鳥居(江の島道入口)、
左手にあるのが大鋸橋(現遊行寺橋)。
宿場に着いた人々と客引きをする宿の人々の様子が描かれ、賑わいが感じられるのだ。



『桔梗屋』は国登録有形文化財。
宿場的雰囲気がある店蔵(桔梗屋)は、明治44年の建築で国登録有形文化財になっている。
本社は横浜に移転したという桔梗屋は、藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家で、この時間、店は
閉まっていた?が、現在も藤沢支店として使用されているとのこと。



『稲元屋本店跡 明治天皇行在所記念碑』
「弘化2年(1844)、初代寺田三郎兵衛(満弘)が創業。質素と誠実を家訓とし、
稲元屋呉服店の礎を築いた。明治24年亀井野の陸軍大演習のため行在所となった。
石碑は皇紀2600年(昭和15年)町民の意気高揚のため建てたものであると、
側面に平成14年6月、5代目当主と刻まれていた。
裏山の竹林に「明治天皇行在所」の石碑があるとのこと。
呉服屋稲元屋本店(寺田家)は藤沢宿で一番の大店(おおだな)であった。
寺田家には現在二棟の土蔵が残っているが、かつては五棟の蔵があった。
藤沢駅の開業は明治二十年(1887)、四年後の明治二十四年(1891)に御在所となった。
隣はさんこうどう、創業百二十八年の老舗です。明治十四年築の大規模な店蔵と洋館は
藤沢市が解体、保存されています。寺田家の竹林を抜けた場所には古典地誌「我棲里」などの
多くの著作を残し、藤沢の発展に尽力された医師・小川泰堂の笑宿庵跡があったが、
史跡を見つけることはできないと。



藤沢宿で一番その当時の雰囲気を残している建物の1つは内田商店本店。
旧東海道に面して重厚な造りの母屋の店舗が建ち、その裏手にはくの字に
曲がった石蔵と母屋の店舗横にも土蔵があるようだ。 

DSC07998_R.JPG

『東海道藤沢宿復元図』



『問屋場跡』。
宿場において人馬の継ぎ立てを行う場所を問屋場と呼び、藤沢宿では、大久保町と坂戸町に
一ヵ所ずつありました。問屋場では 問屋(責任者)や年寄(補佐役)の指示のもとに、
人馬と荷物の割り振りや賃銭の記録、御用通行の武家等の出迎え、継飛脚 (公用書状の逓送)
などが行われました。また、近隣の村へ助郷役や街道掃除役の割り当ても行いました。
この場所は坂戸町問屋 の敷地跡で、のちに藤沢警察署となり、現在は消防署出張所になっています。



『藤沢御殿跡』は現藤沢公民館場所。



江戸時代の初め頃、藤沢にはまだ本陣がなかったので、将軍は自らの宿泊のために
今の藤沢一丁目あたり(藤沢公民館付近)に藤沢御殿をつくりました。
絵図面によると東西約193m、南北約113mの長方形の区画で、記録によると「慶長五年(1600)に
家康が宿泊して以来、寛永十一年(1634)に家光が使用したのを最後に廃止の道をたどりました。
御殿の周辺には御殿を管理する代官陣屋が配置され、陣屋小路をはじめ御殿辺などの地名や
陣屋橋、御殿橋といった橋の名に今では往時のなごりをとどめているのみです。



藤沢御殿は藤沢宿が設置される前の慶長元年(1596年)頃に築かれたと推定される。
徳川家康は天正18年(1590年)関東に入ると地域支配の拠点、休憩・宿泊施設として
御殿やお茶屋を設置した。記録としては『慶長記』に徳川家康が慶長5年(1600年)に
鎌倉遊覧のため訪れた記述があるのが最初で、秀忠、家光と寛永11年(1634年)まで2
8回利用されていると。



資料によると四方は水堀で囲まれ、内土塁と外土塁がめぐらされている東南の堀は幅6間、
深さ2間半、南北の堀は幅5間、深さ2間半で、外土塁の外側は東西106間、南北62間で、
内土塁の中は東西86間、南北36間の広さがあった。
表御門は東海道に面した南側にあり、裏御門は東側にあった。
表御門の西側には御殿番所、東側には代官陣屋が立ち並んでいた。
総面積は6,000坪に及び、これは城郭構えである事は明らかであると。



『蒔田本陣跡(まいたほんじんあと)』
藤沢宿の本陣は江戸時代中期から蒔田源右衛門が勤めました。
本陣は大名や公家などの専用宿泊で、江戸時代に来日した朝鮮通信使も利用しました。



「相中留恩記略」に見る蒔田本陣 墨絵図。
藤沢宿の本陣は大久保町名主・問屋を勤めた堀内家(元玉縄城北条氏家老の家柄)であったが、
延享2年(1745)に火災のため本陣職を坂戸町の蒔田(まいた)家に譲った。
蒔田本陣の規模は間口13間、奥行19間、建坪210坪、玄関・門構えのある建物で
明治3年まで約120年間続いたとのこと。

DSC07999_R.JPG

そして『常光寺』を訪ねる。
旧東海道(現国道467号線)から消防署の脇を入ると、明治五年に警察署の前身である
「邏卒屯所(らそつとんじょ)」が置かれた常光寺(浄土宗)がある。
創立は元亀三年(1572)、墓所を包むようにひろがる約7900㎡の静かな寺林は、
天然記念物として市の指定を受けている。



境内の六地蔵。



子育観音像。



本堂左脇に市指定文化財の「庚申供養塔」が2基。万治二年(1659)の銘をもつ庚申塔は、
庚申講中が建立した浄土宗系のものとして貴重です。
もう1基(寛文九年銘・1699)は、笠石が軽快な感じを与えます。



本堂。



『常光寺の樹林』。
常光寺の境内の樹林は、藤沢市の天然記念物に指定されているようで、
境内には大きな木がほかにもあります。
幹周り4.1mのタブノキ、幹周り2.9mのイチョウそして本堂裏も樹林が。



『かながわの名木100選 常光寺のカヤ』



ひときわ目を引くのは、高さ約25m、推定樹齢300~400年にもなるカヤの巨木で、
県選定の「かながわの名木100選」にも挙げられています。



『野口米次郎辞世碑』
明治八年愛知県に生まれ、二三年単身渡米、新聞記者となり、のち英国に渡る。
詩集を出版するなど両国の詩壇で活躍し、 三七年日露戦争の報道のため帰国、
兄が住職を勤める常光寺や鎌倉円覚寺に住した。慶応大学で教鞭をとり、
世界各地で日本文芸について講演し、また広重・春信などの浮世絵や
正倉院宝物について英文出版、さらに日本での最初の英文案内書『Kamakura』を
出版したりして日本の文化・文芸を世界に紹介し、“ヨネ・ノグチ”の名で親しまれている。
昭和 二二年疎開先の茨城県で没した。
墓碑には野口米次郎の臨終の時の詩が刻まれています。
「鐘が鳴る かねがなる これは即ち 警鐘と言うのです
これが鳴ると皆ねます さぁ みんな眠りましょう」と刻まれていた。
この誌の意味は?余裕を失った我々現代人への警鐘?それとも・・・・・?



一段上にも多くの無縫塔(むほうとう)墓碑が。 常光寺の歴代僧侶の墓塔であろうか?
塔身が卵形という特徴があり、「卵塔」とも呼ばれる形。



常光寺の西側に八王子社跡があり、そこに『弁慶塚』があるとのことで
訪ねる。
石段を上ると旧字で書かれた「辨慶塚」の看板があり、多くの木々が。



奥にはさらに石段があり、もう1段高い場所に庚申塔などが並んでいた。
この石段の上にも石段の石を飲み込むようにタブノキの古木が立っていた。



八王子社跡。「庚申尊」碑と弁慶塚、庚申塔がずらりと並ぶ庚申塚。
「白幡神社誌」によれば、奥州平泉から自害した源義経の首と一緒に武蔵坊弁慶の首も
鎌倉の在の腰越に送られ、首実検がなされ、夜の間に2つの首は寒川神社に飛んで来たという。
このことを鎌倉殿(頼朝)に伝えると、白幡神社としてこの神社に祀るようにと下知され、
義経を御祭神として白幡神社となった。弁慶の首は八王子社として祀られたのだと。



弁慶塚の堂の中に「弁慶塚」と刻まれた石碑が。



そして旧東海道沿いの『済美館』。



街道に戻って直ぐ先の「藤沢公民館分館」は、済美館として生まれ変わった建物である。



この地域は、江戸時代以前から、遊行寺の門前町、東海道の宿場町として栄え、
商業(問屋街)も盛んで、近隣の町村から多数の人が集まりました。
また、大正初年から町役場があり、市制が布かれてからも昭和二十六年(1951)まで
市役所が置かれ、本市の歴史・文化並びに経済の中心地でもありました。
済美館は、昭和十七年(1942)一月武道場として飛嶋繁氏によってこの地に建設、
藤沢市に寄贈されました。
この「済美館」の名称は明治三年(1870)十月大久保町の名主堀内悠久の子郁之助氏により、
土地の子弟教育のため藤沢宿に創設された藤沢郷学所済美館の名にあやかり命名されたものです。
その後、一時期市議会議場として使用されたほか、昭和六十二年(1987)まで主に市民の
武道練成の場として利用されてきました。
当館は、建築後五十年近くを経、この度、地域住民の熱望により、地域の活性化と、住民の交流を
図るための機能を加え、新しい済美館(藤沢公民館分館)として生まれ代わり、ここに完成をみました。
これを記念するとともに、「世々その美を済す」という済美館の原意通り、当館が生涯学習の
拠点として、これを利用する人々の創意と工夫により、将来に向けて、今後ますます
発展していくことを祈り、この碑を建てます。



『妙善寺』入口。
日蓮宗の寺院。山号は、長藤山。旧本山は、比企谷妙本寺。池上法縁。
永正元年(1504年)に日純により創立した。前身とされる密教寺院が建立された
延暦15年(796年)が創立で、弘安3年(1280年)日聞が日蓮宗に改宗したという説もある。
天明年間(1781年-1789年)に洪水により堂が流失したが、天保13年(1842年)に日扇が
再建したと。
そしてこの寺は我が実家の菩提寺。



山門。



本堂。



『正宗稲荷大明神』



鐘は鐘楼の完成を待っていた。



本堂と周囲の墓地。



そして東海道に戻り『伝源義経首洗井戸』を訪ねる。
平泉で討れた義経の首は首実験後片瀬の浜に捨てられ、境川を逆り白旗に漂着したものを
里人がこの井戸で洗い清めたと。



井戸は公園右手の竹塀の前にあり、格子蓋が被せてある。中を覗くとやや深い円筒形で、
涸れ井戸だった。
井戸の手前右には説明板、左には『武蔵坊辨慶公之靈 九郎判官 源義経公之首塚 
亀井坊 片岡坊 伊勢坊 駿河坊 各靈』と刻まれた石碑と、『源義経史蹟 藤沢市』と
刻まれた石柱が建っていた。



「吾妻鏡」という鎌倉幕府の記録によると兄頼朝に追われた義経は奥州(東北)でなくなり
文治五年(1189)に藤原泰衡から義経の首が鎌倉に送られてきました。
義経の首は首実検ののち腰越の浜へ捨てられました。それが潮に乗って境川をさかのぼり
この辺に漂着したのを里人がすくいあげ洗い清めた井戸と伝えられます。
ここから北方四〇メートル辺に義経首塚と伝える遺跡もありました。



格子蓋が被せてある井戸。



『本町白旗商店街マップ』
東海道藤沢宿の西部にあたる商店街。
前身は本町のれん会という名称でしたが、源義経を祀る白旗神社にちなんで、
本町白旗商店街と名前を変え昭和63年に発足したと。



『藤沢宿絵図』。
白旗神社は訪ねなかったが、以前に訪ねて
ブログアップ​(☚リンク)している。



そして夕日が沈みつつあるなか、伊勢山橋に着く。



下は小田急江ノ島線の線路そして藤沢本町駅が。
高校時代はこの駅を利用して登校していた懐かしい駅。



橋の上から丘の上にある『眞源寺』が見えた』。



そしてこの日の最後の訪問場所は『藤沢宿 京見付』。
小田急江ノ島線に架かる伊勢山橋を過ぎると藤沢宿京方見附跡がある。
台町と呼ばれており、バス停にその名を留めている。
台町バス停は小田急藤沢本町駅の最寄のバス停である。



尚、「藤沢地区郷土づくり推進会議」では、電柱の地中化に伴い設置された
トランスボソクスに、街の変遷してきた姿や浮世絵などをラッピングしているのであった。
「トランスボックス」は通りの両側に数十メートルの間隔で設置されており、
車道側・歩道側両面にラッピングしていた。
以前この「​トランスボックス​」(☚リンク)を巡りブログアップしているので
ここにリンクします。


そしてこの日の反省会は旧東海道を白旗交差点まで戻り、白旗神社方面に左折し直ぐ
左側の店・万作で旅友とモツ鍋を楽しむ。



そしてサンマ焼きも。更にいろいろと・・・。



                              ・・・​その6​・・・に戻る

           ・・・旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢) 完・・・
                  

           ・・・​旧東海道を歩く(藤沢~大磯)につづく​・・・​






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Last updated  2020.04.26 15:51:34
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Re:旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢)その7・藤沢:遊行寺橋~京見付(01/19)   無手勝 さん
この辺りもほとんど「…藤沢宿を巡る」で歩きました。 (2019.01.19 08:39:05)


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