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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.05.10
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カテゴリ:旅行
我が家の門の横のバラ。



澄んだピンクの花。



大きな葉の奥で咲くゼニアオイ(銭葵)。



花色は赤紫色。更に濃い紫の線の入った5弁の花。
丸い花が「一文銭」ぐらいの 大きさだったことから「銭」。
「葵」は「立葵」の葉っぱに似ているから。



アイリス。



花色は紫、青、黄、オレンジ、白、ピンクなど様々。
花びらの付け根にある目のような模様が特徴。
アイリスは、ギリシア神話の女神イリスにちなんだ名前。
イリスが虹を渡って神々のいる天上と地上を行き来する使者だったことから、
『メッセージ』『吉報』『良き便り』という花言葉がついたと。



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旧東海道を歩く(藤枝~金谷)その3です。
県道381号線を離れて旧東海道を進む。



右手に『交通遭難者慰霊塔』が。
ここは 静岡県島田市御仮屋町で国道1号御仮屋西交差点の南東側、国1と本通りに挟まれた
狭い三角形の土地に。
慰霊塔は巨大な墓のような姿をしており、表面に“交通遭難者慰霊塔”と刻まれていた。
裏側基部にある銘板によると、慰霊塔は昭和34年(1959年)に島田市稲荷4丁目に建立され、
平成18年(2006年)3月に現在地である御仮屋町に移設した模様。



島田市本通7丁目 本通りにあった『枡形跡(宿東入口)』
「宿場の出入口には「見付」と呼ばれた施設がありました。もともとは城門の見張り施設の
ことをいいました。宿場の見付は、上に柵や竹矢来を設けた石垣や土手で、街道に直角や
鉤の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った升型の見付もありました。
島田宿の東入口には、例の少ない升形の見付が設けられていました。
広さは五間四方(約80㎡)ほどです。
ここに宿場の番人を置いたという記録はありませんので、宿場の境界として設けられ、
本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所だったようです。」



島田宿の本通りを進むが、時間は11:06であったが、水曜日であったがここも人影は少なく。



本通り7丁目の交差点の先の路地を左折し『蓬莱橋(ほうらいばし)』に向かう。



JR東海道本線の踏切を渡る。



『第一相良街道(さがらかいどう)踏切』。
東海道線の起点の東京駅から206K923Mとの表示が。
相良街道は東海道の藤枝宿と相良城を結ぶ約7里(約28 km)の街道。
別名、田沼街道(たぬまかいどう)。藤枝宿から西島で大井川を渡り、対岸の高島から
吉田・榛原(あいはら)を通り、相良城下までの道筋である。
当時、大井川を渡河するには、徳川幕府によって東海道の島田・金谷の渡しのほかは
許されておらず、大井川を渡ることができた田沼街道は地元の人々から重宝されていた。
よってこの道が相良街道ではなく、相良街道へ向かう道と言うことに。



緩やかにカーブし島田駅に向かう東海道線線路。



東海道線の踏切を過ぎてほどなく、右手に『高野山 島田教会&高野山 蓮花院 別院』が。



『三重塔』。



『本堂』。



『六角経堂?』。高野山金剛峯寺のものは回転する構造であったが。



『馬頭観世音』。



『楽寿観音霊場第十番』の木札が。



堂内の観音菩薩像。



大念珠を引く旅友。
この数珠のような輪になった百八の煩悩滅除の珠を
「紐を引っ張って、八個だけきちん落とすことで邪念を祓うことが出来る。
珠が上から1つずつカチリと落ちると煩悩が取り払われ、厄難が除かれる」 と
書かれていた寺があったと記憶しているが、この寺も同じであったのだろうか。
大先輩の旅友はこれを理解して??



扁額には『遍照殿』と。



『空海上人像』



更に『蓬莱橋』に向かって進むと左手には、総合スーパー大型店『APITA(アピタ)』が。



そして漸く『大井川』堤防に辿り着いた。



『ギネスブック認定書』
蓬莱橋は明治12年に完成。
全長897mは、木造歩道橋としては世界一の長さで、平成9年にギネスに認定された。



『勝海舟之像』。



台座の説明文。
勝海舟は島田市の牧之原開拓を進めた重要人物であり 牧之原の気候・地質が茶栽培に
適しているとして、栽培作物として選定した人物なのです。
当時は世界での茶の需要の高まりから、日本も茶の輸出を積極的に図っていた時期であり
その後、島田の茶の栽培成果は着実に上がり、現在の茶の名産地へと成長しました。
現在の島田、島田茶は勝海舟のおかげであるといっても過言ではないのだと。

IMG_0464.jpg

蓬莱橋 案内板をズームで。



『蓬莱橋の歴史』

明治2年(1869)7月、最後の将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣達が大井川右岸にある
牧之原を開拓し、お茶を作り始めた。
当初は大変厳しい環境の中で、筆舌には尽くせない苦労の連続だったが、そのかいがあって
順調に茶栽培が営まれ、生活が安定するにしたがって、島田の方へ生活用品や食料品を買いに
出かけるようになってきた。
また、島田の方からも初倉に山林、原野の開墾のため出かけるようになったが、大井川を小舟で
渡らなければならず、大変危険なことだった。
そこで、島田宿の開墾人総代達は、時の静岡県令(現在の知事)に橋をかける願いを出し
許可され、明治12年(1879)1月13日に完成した。
しかし、木橋のため大井川の増水のたびに被害を受けてきたので昭和40年(1965)年4月に
コンクリートの橋脚に変え、今日の姿となった。
現在蓬莱橋は、全長897.422m(1997年12月ギネス認定「世界一長い木造歩道橋」)、
通行幅2.4mであり、大井川の自然と一体となった木橋として全国的に有名な観光名所と
なっている(歩行者と自転車の専用橋)。



橋の下流側から。



台風24号の大水により、橋脚が損傷したため、現在通行を規制中。
左岸側(料金所側)から約50メートル付近までを開放し、渡橋料は無料としていたが、
平成30年11月1日(木曜日)、橋中央付近までの往復について可能となった模様。
また、それに伴い渡橋料については通常どおりの料金100円になったのだと。



橋の上流側から。



ギネスに認定された全長約897.4mの橋。
橋の長さが「やくなし=厄無し」の語呂合わせで縁起のいい橋とされているのだと。
ひたすら真っ直ぐに。しかし手摺の高さは50cm程度。



ズームで。



大井川の上流側。



橋を歩いて行ったが強風で、橋も何か揺れているようだったので
「やくなし=厄無し」を願って、早々に引き返したのであった。
橋の左側にあるのが『蓬莱橋897.4茶屋(やくなしちゃや)』



堤防の階段を降りて『​蓬莱橋​』👈リンク を見上げる。
江戸時代、大井川は東海道最大の難所として知られていたが、幕府がある江戸防衛の目的から
架橋や渡船は許されておらず、川を渡るためには川越人足に頼るしかなかった。
その大井川に、旧幕臣が茶畑として開拓した牧之原台地と、東海道の島田宿を結ぶために、
1879年(明治12年)に架けられたのがこの『蓬莱橋』である。



『蓬莱橋897.4茶屋(やくなしちゃや)』内にあった『頼朝公大井川行列』
一英齋芳艶 文久3年(1863)。
当時、徳川将軍を対象として直接描くことは禁止されており、浮世絵では出版統制に
引っかからないように徳川将軍家茂を源頼朝に仮託して表現した。
上記の浮世絵は、武家の頭領らしく勇壮な渡河風景である。上流には流れを緩やかに
するため人壁を並べ、下流には流れを緩やかにするため布幕を巡らしている。
もちろん、この風景は想像であるが権威を表す勇壮な渡河風景である。



茶屋でアイスクリームを楽しむ。
我が家の近傍にある『横浜薬科大学』との共同開発の抹茶アイスであると。



台風24号の大水により、中央よりやや右岸方向の場所の橋脚が損傷した
様子を報道した新聞。



大井川沿いの観光案内図。



そして『蓬莱橋』を後にし、再び旧東海道に向かって歩く。
島田市に汚水マンホールの蓋。「大井川蓮台越」デザイン。
江戸時代の東海道の難所であり、「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と
詠まれた大井川の川越の様子がデザインされていた。



この近くに『島田歴史的長屋群』があるとのネット情報であったが、
この写真の建物がそうであったのだろうか?。



芝桜に似た花。



ペットハウス前にあった『江戸時代の島田宿』説明板。
「一、島田宿の成立 
  慶長六年(一六〇一)  徳川家康により、東海道の「伝馬駅」として指定される。 
  慶長九年(一六〇四)頃 大井川の大洪水で宿駅施設はすべて押し流され、
              北の「元島田」で仮に継立てを行なった。 
  元和元年(一六一五)  元の島田宿に戻り復興した。 
一、位置 
  江戸へ 五二里二町四五間(約二〇四km) 
  藤枝宿へ 二里八町(約八・七km) 
  金谷宿ヘ 一里(約三・九km) 
一、宿内往還(道悦島村境より大井川堤まで)の長さ三四町五三間(約三・八km) 
  道幅四間(七m二十四cm 向かいの車道に鋲で表示してあります) 
一、宿内家並東西長さ 
  九町四〇間(約一・一km) 
一、宿内入口(天保十四年・一八四三年) 
  六七二七人 内男 三四〇〇人 女三三二七人(当時の静岡県内では、府中に次いで
  人口が多かった) 
一、宿内総家数(天保十四年・一八四三年) 
  一四六一軒 
一、宿泊施設 
  本陣 三軒 上本陣 村松九郎次家(三丁目) 
  中本陣 大久保新右衛門家 (三丁目) 
  下本陣 置塩藤四郎家(四丁目) 
  脇本陣 なし 
  旅籠屋 四八軒(大六軒・中七軒・小三五軒) 
一、問屋場 一ヶ所(五丁目) 
  宿建て人馬人足一三六人・馬一〇〇疋 
一、高札場 一ヶ所(西入口北側・大井神社南鳥居横) 
一、郷倉 一ヶ所(五丁目南裏) 
  『東海道宿村大概帳』より 」



更に旧東海道・県道34号線を進む。



『東海道島田宿一里塚阯』碑。



『島田宿 一里塚』
「慶長9年(1604年)徳川家康は東海道の一里(36町)ごとに塚を築かせました。
塚は五間四方(直径約9m)上に榎を目印として植え、通常は街道の両側に対で
築かれました。
島田宿一里塚は天和年間(1681~1684年)に描かれた最古の東海道絵図の中で
江戸から50里と記され、北側の塚しか描かれていません。
幕末の文献「島田宿並井両裏通家別取調帳」では幅五間二尺で北側のみ、塚の上には
榎が植えられていたことが記されています」



その先左側、本通りの「佐の幸茶」という店ににあったのが『甘露の井戸水』。



「昭和の初め頃に甘露亭という料亭があり。 ここの掘り抜きの井戸の水は美味で
料理・洗い水・風呂、全般に使っていた。 水源は南アルプスの雪解け水が地下へ浸み込み
約百年をかけて湧き出る大井川の伏流水。
永年枯れることがなく、現在はお茶の冷蔵庫の冷却水として使用している。
一部をツクバイへ流して東海道の旅人に提供。 佐の幸茶店」



『佐の幸茶店』



店の横にあった『金運上昇』像。






                              ​その2​  に戻る。

                  ・・・​​つづく​・・・







Last updated  2019.05.28 13:58:38
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Re:旧東海道を歩く(藤枝~金谷)その3:島田市・枡形跡(宿東入口)~甘露の井戸水(05/10)   無手勝 さん
前日の、白と紫のもアイリスですね。アヤメではありません。 (2019.05.10 05:00:32)

Re[1]:旧東海道を歩く(藤枝~金谷)その3:島田市・枡形跡(宿東入口)~甘露の井戸水(05/10)   jinsan0716 さん
無手勝さんへ
ご指摘、ありがとうございます。
修正いたしました。 (2019.05.10 05:39:04)


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