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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.05.18
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旧東海道・県道37号線・連雀通り沿いの老舗呉服店「ます忠」前を進む。



更に進むと、右手に掛川城・大手門が右手に見えた。



そして右手が、『掛川宿沢野本陣跡』。



『本陣通り」という名前の屋台村になっているところが、沢野本陣跡であると。



さらに70mゆくと連雀西交差点。



右折すれば150m先で掛川城の天守閣。



反対方向に行けば掛川駅へ。



右手にはなまこ壁で仕上げられた店舗が。



なまこ壁で仕上げられた店舗が続く。



逆川に架かる『緑橋』が前方に。



掛川城・天守閣(左)と太鼓櫓(右)。



緑橋から逆川を見る。
掛川の旧名「懸河(かけがわ)」をケンガと音読みすれば、「勢いよく流れる川」という意味。
逆川が城山に当たり崖を成していたこの周辺を、鎌倉時代から懸河と呼ぶようになったそうです。



緑橋を渡ると左手交差点角にあったのが『懸河旧阯』。
掛川城公園前の休憩所になっているようであった。



足元には当時の掛川城の絵図・正保城絵図が。
「正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図。
城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれているほか、
城下の町割・山川の位置・形が詳細に載されています。各藩は幕府の命を受けてから数年で
絵図を提出し、幕府はこれを早くから紅葉山文庫に収蔵しました。
幕末の同文庫の蔵書目録『増補御書籍目録』には131鋪の所蔵が記録されていますが、
現在、国立公文書館では63鋪の正保城絵図を所蔵しています。
昭和61年(1986)国の重要文化財に指定されました。」



『掛川城 絵図』。


  【http://mino-tokai.cocolog-nifty.com/tetudouderyokou/2013/03/2013---7c3c.html

『掛川城 四足門(よつあしもん)』




「調査では、門の跡は見つからなかったが、正保城絵図を元に復元された。
門の内側には、入城者を調べる番所がありました。
本丸に通じる重要な門であったと。」



ミツバツツジが開花中。



入口前の三の丸広場には鯱(しゃちほこ)が置かれていた。



四足門から城内に入ると『掛川城主要部模型』が展示されていた。



「この模型は、正保元年(1644)幕府が諸大名に命じて提出させた城絵図と発掘調査結果を
基本資料として、150分の1の縮尺で製作されました。塩櫓・銭櫓のあった腰曲輪や、
内堀の松尾池・乾堀は、削りとられたり、埋め立てられたりして現在目にすることは
できませんが、模型ではこれらの曲輪や堀を含めた正保年間(1644~1647)頃の最盛期の
掛川城の主要部が示されています。
模型の素材は、風雨、日光などの屋外での自然条件下でも耐久性が高い有田製磁器が
用いられています。」



『天守閣』を見上げる。



『 十露盤(そろばん)堀』



「本丸を囲む重要な堀です。十露盤堀という名称の由来ははっきりしませんが、
水がたまった部分がそろばんの箱のように見えることが、その由来と考えられます。」



『三日月堀(みかづきぼり)』
本丸門(ほんまるもん)の前面に配置された三日月状の堀。深さは8m。
調査では、堀の南側から石垣が見つかりました。
その下からは、柱穴(ちゅうけつ)が並んで見つかりました。




掛川城 『二の丸御殿』を訪ねた。



掛川城の二の丸御殿は全国でも珍しい現存城郭御殿で、なかでも二の丸御殿が
残っているのは二条城と掛川城のみです。
(残りの高知城と川越城は本丸御殿が現存しています)



現在の二の丸御殿は、1854年(嘉永7年)に起きた東海大地震によって倒壊したあとに、
そのときの藩主であった太田資功が再建したものです。
明治に至るまで、掛川藩の政務所として使われました。



『二の丸御殿』からの天守閣。



『二の丸御殿』内の三の間には『打掛』が展示中。



『掛川城御殿』案内板。
「御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩政の中心となる
諸役所(しょやくしょ)と、城主の公邸が連結した建物です。書院造と呼ばれる建築様式で、
畳を敷きつめた多くの室(しつ)が連なり、各室は襖(ふすま)によって仕切られています。
文久元年(1861)に再建されたものですが、現存する城郭内の御殿としては、京都二条城など
全国でも数カ所にしかない貴重なものです。明治2年(1869)の廃城後は、学校、市庁舎などに
転用されましたが、昭和47年(1972)から昭和50年の3年間にわたって保存修理され、
国の重要文化財に指定されました。」



『掛川市二の丸美術館』
二の丸美術館は、細密工芸品を主とする木下コレクションと、近代日本画を収集した
鈴木コレクションを主に収蔵しています。
木下コレクションは、江戸から明治にかけてのたばこ道具、印籠、刀装具、書画など
約2,300点を数え、なかでもたばこ道具は秀逸な作品が数多く収集されています。
地域の芸術文化活動の拠点施設として、細密工芸・近代日本画・郷土で活躍した
人々の作品などを年8回程度の企画展を通して公開しています。



『二の丸美術館』からの天守閣。



この日は『煙草入れ風流物語』が開催されていた。



『二の丸茶室』。



『掛川城太鼓櫓』。
掛川城の太鼓櫓は、城下に時を知らせるための大太鼓を納めてあった建物。
1854年(嘉永7年)の大地震以後に建てられた櫓で、何度かの移転の末、
1955年(昭和30年)に三の丸から荒和布(あらめ)櫓のあった現在の位置に改築の上、
移築されました。なお、当時使われた大太鼓は二の丸御殿の広間に展示されています。



再び天守を桜越しに。



『本丸跡』。
「城の主要部で、藩主の住まいである本丸御殿がありました。
調査では、建物跡はわかりませんでしたが、柱穴や礎石が見つかりました。
城がつくられる以前は、墓地であったことがわかりました。」



再び城内に入って『掛川城 太鼓櫓』を。



再び『天守閣』を。



ここ『​​掛川城​』⬅リンクは以前にも何回か訪ねた城。
掛川城の見学の後は、周回道路を利用し、掛川城の裏に向かう。



『掛川城周辺案内』。



右手に『大日本報徳社』の建物が見えて来た。



『大日本報徳社 大講堂』。

大日本報徳社は、掛川城すぐ東側、江戸時代までは掛川藩士の屋敷があったと見られる
場所に立地。経緯と時期は不明だが、廃藩置県後に岡田佐平次の子良一郎が始めた
掛川農学社の所有地となり、現在大講堂のある場所には農学社学寮が建てられ、周辺にも
無尽蔵舎、土蔵などが建てられた。明治17年(1885年)5月、この農学社が遠江国報徳社の
3館(第1館は浜松、第2館は見付(現在の磐田市中心部))となり、農学社の演説会
などが行われた。明治34年(1901年)925日、見付の第2館で行われた遠江国報徳社
幹事会において、掛川の第3館に公会堂を建築することが議決された。
これにより公会堂が建築される。明治44年(1924年)、良一郎は遠江国報徳社を全国的な
組織とするため「大日本報徳社」と改称、本社を掛川に移す。大正13年(1924年)には
全国約700社の報徳社が大合同した。
昭和初期にかけて敷地内に報徳図書館、仰徳館などが建築され、現在に至っている。
平成21年に国指定重要文化財に。指定名称:旧遠江国報徳社公会堂(大日本報徳社大講堂)。



向かいには『仰徳学寮』が。



掛川の大日本報徳社は、二宮尊徳(金次郎)が農村の救済を実践する中で提唱した
『報徳の思想』を普及する活動拠点です。その敷地内には、明治17年(1884年)に東京の
霞ヶ関に建てられた有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)邸の建物の
一部である、仰徳(こうとく)記念館と仰徳学寮があります。
両建物は、昭和13年(1938年)に宮内庁から下賜(かし:授けられること)され移築したもので、
現存する宮家の建築として貴重な建物で、掛川市指定文化財となっています。




                             ​その10​  に戻る。

                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2019.11.02 08:55:51
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