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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.06.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

松林寺を後にし、更に浜松城に向かって進むと、直ぐ右手に黒い塀が重々しい
『金原明善(きんぱらめいぜん)生家』があった。
金原明善は、明治時代に、私財をなげうって水害で悩む天竜川流域の治水に尽力した人物。



『金原明善翁生家』と刻まれた石柱と生家の門。
現在は明善記念館 ( めいぜんきねんかん )として金原明善の遺品や資料を展示し、
彼の業績を紹介していた。



現在は、一般財団法人『金原治山治水財団』が金原明善生家<・明善記念館を運営していると。



金原 明善(天保367日(183274日) - 大正12年(1923年)114日)は、
明治時代の実業家。遠江国長上郡安間村(現浜松市東区安間町)出身。
浜名郡和田村村長。天竜川の治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した。
明善記念館は、その偉業を顕彰するために、1960年、生家の前を通る旧東海道を隔てた南側に、
建築家十代田三郎(そしろだ さぶろう:1894-1966)の設計で建てられたものです。
記念館には、治山治水や植林事業で使った測量器具、地図、請願書、公文書、私信、遺墨などが
多数収蔵・展示され、当時の難事業の様子を知ることができます。展示室は1階と2階回廊部分に
分かれ、1階には天竜川流域の治山治水、植林事業の計画書や申請書、実際に測量や植林に
使用したさまざまな道具類や愛用したカバン、91才の最後の山林視察で使った籠などを
見ることができた。2階の回廊には、親交のあった多くの著名人からの手紙や、
明善直筆の遺墨などが展示されていた。



大きな和室が続く。



名善自筆の屏風。



読んで内容が理解できれば最高であったが・・・・。



この部屋でビデオ鑑賞。



金原明善の生涯を画いた映画が製作されたと。
金原明善は、幕末、明治に渡って活躍した浜松の偉人。
社会企業家の草分けと言えるその実績と業績は、現在でも学ぶところが多々あります。
金原明善とは如何なる人物なのか。なぜ、偉人として浜松史にその名を残しているのか。
今また見直され、注目されている明善の生き方が紹介された『​金原明善の生涯​』👈リンクの
ビデオを鑑賞した。



床の間のある和室には欅の一枚板のテーブルが。
厚みもあり、重厚感と高級感が十分に。



金原明善の写真。



金原明善の業績は大きく分けて次の4つ
・天竜川治水事業
・天竜川流域の植林事業
・北海道開拓
・更生保護事業金原明善は、天竜川にほど近い現在の浜松市東区安間町で生まれました。
農民でしたが、いわゆる富農と言われるような比較的裕福な家の生まれのようです。
「あばれ天竜」と呼ばれていた天竜川の氾濫に悩まされ、全財産を投げうって
天竜川の治水に努めます。1877年には時の内務卿大久保利通に謁見がかないます。
内務卿とは今で言うと総理大臣のようなものです。天竜川の治水事業実施を嘆願します。
金原明善は嘆願がかなわなければ死ぬ覚悟でこの謁見に臨んだそうです。
金原明善の、全財産を投げうって天竜川の治水に努める熱意と事業家としての資質を認めた
大久保利通は、金原明善の嘆願を受け入れ天竜川の治水事業を許可しました。
この他教育にも力を入れていたようで、この自宅の2階を教室にして授業を行っていたと。



名善書の掛け軸。
『富在山林』:山林に冨在り
『私心一絶萬功成』:私心というものがなければ万功は成るが、これに反して少しでも
          私心があると、万功は望むべきもない。
の文字が。



『江戸時代の東海道:安間、中野町、天竜川西岸地区 絵図』



田中茂助との写真。
田中茂助は、林の下刈用の鎌の改良を命じ【金原鎌】をつくりあげた東京の鍛冶職人の棟梁。



1877
年(明治10年)、全財産献納の覚悟を決めた明善は内務卿大久保利通に
築堤工事実現の為に謁見した。明善自身も一介の田舎農民が内務卿への謁見は叶わないと
思っていた。ところが快く大久保利通との謁見は実現した。
それは長年、誠実一途に天竜川の治水工事に奔走している明善の話が大久保利通の耳に
入っていたからである。そして、近代的な治水事業が始まった。
それは、主に堤防の補強・改修をはじめ
・天竜川を西洋式の測量器を使用して全測量
・鹿島村から諏訪湖に至る高低測量
・天竜川河口から二俣村に至る実測量
・駒場村以下21箇所の測量標建設
・自宅に水利学校を開き、治水と利水の教育を行う。
を実施した。後年の天竜川における治水計画の基礎となったと。



『名善翁胸像』。



大正11年に金杯を賜った時の絵画であろうか?



様々な栄典・授章・授賞を頂いたと。
位階
1888年(明治21年)331 - 従五位
1914年(大正3年)108 - 正五位
勲章等
1888年(明治21年)69 - 金製黄綬褒章
1902年(明治35年)222 - 勲六等瑞宝章
1915年(大正4年)1110 - 勲四等瑞宝章
1923年(大正12年)114 - 紺綬褒章



明治天皇、昭憲皇太后に拝謁。



明治10年、昭憲皇太后に拝謁し歌を賜ったと。
昭憲皇太后の紹介文も。



明治11年に明治天皇に拝謁し画を賜ったと。



大正11年、更生保護事業の功で金杯を賜る。



明善の事業経営の基本方針は
1.身を修め家を斉えて後、始めて報効の道は開かれる。
2.事業には必ず資本を必要とする。この資本は質素倹約を基調として求むべきものである
 そしてその事業が大きくなるに従ってしの資本は共同出資方式にならねばならぬ。
3.事業の発展進歩はその事業に携わる人々にある。そしてこの人物の育成は教育に
 俟たねばならぬ。
明善は、「金は値打ちのない場所(町)で儲けて、値打ちのある所(田舎)で遣え」という
金の活用法を実践した事業家でもある。
名善から5代目の方が丁寧に説明してくれたのであった。



歴史を感じさせる、天井、壁、照明であった。



別屋には懐かしい井戸の姿も。



30分ほどの慌ただしい滞在であったが『金原明善生家』を後にする。



『金原明善生家』の角にはこれも歴史を感じさせる大きな『石造りの蔵』が。
金原明善翁は安間町に住みながら、掛塚湊を出入りする廻船を持っていた。
そんな船が伊豆から運んで来た伊豆石で造られた蔵が、金原明善翁生家の横手に残っていた。



腰壁をなまこ壁で飾った漆喰土蔵などに比べ、特に飾り気がないように見える石蔵だが、
窓の上にはアーチ状に石が積まれていた。
そして、アーチの中央にはキーストーン(要石)が嵌め込まれていたのであった。



小路の奥にあったのが『普伝院』。



更に旧東海道を進む。ここは浜松市東区安新町。



この道が『姫街道』の安間起点の場所。
写真の左右方向が旧東海道で、奥方向が旧本坂通り。



『本坂通(姫街道)安間起点』
「この地点は本坂通(姫街道)の起点であり、もと「□□(従是)鳳来寺」と記された
道標があり、本坂通(姫街道)が鳳来寺道でもあったことを示している。この道標は、
現在は百五十メートル西にある天竜公民館の敷地に移されている。
この起点の西には、江戸から六十四番目の東海道 安間一里塚 が東海道の両脇にあった。
この一里塚 は本坂通(姫街道)の一里塚も兼ねていたが、現存しない。
「東海道宿村大概帳」には、安間新田地内 壱里塚 左右之塚共木立榎」と榎が
植えられていたことが記されている。」



県道312号線と合流地点手前、『安間一里塚』碑が右手前方に。



『安間一里塚』
江戸日本橋から64里(約251km)、京都三条大橋からは54番目(約262km
七里の渡しを27.5kmとして)にあたる安間一里塚跡。
両塚とも現存していなかった。



そして旧東海道(県道314号線)は県道312号線と合流。



合流地点には『旧東海道』と書かれた木柱が。



合流地点を振り返る。



旧東海道の安間川(あんまがわ)に架かる『柏木橋』を渡る。



『安間川』下流側。



上流側には国道1号線の高架橋が。



浜松市東区薬師町の旧東海道を進む。



前方の国道1号線(浜松バイパス)下を潜る。



所々に松並木が姿を現す。



『東海道の松並木』
「旧萱場村から植松村まで東海道筋のうち町家が並ぶ場所以外には、松並木が整備された。
江戸時代を通じて、沿線の村々によって維持されていた。



更に進行方向左手のみに松並木が続く。



『立場跡』。
「宿場と宿場の間に設置された休憩所、旅人や駕籠かき、馬子が一休みした。
多くの場合茶屋があって土地の名物を販売していた。
ここは、見付宿と浜松宿の間に置かれた。藤棚があって旅人を楽しませたと伝わる」。



根本近くで大きく横に這っている松の木を振り返る。



                              ​その7​  に戻る。

                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2020.05.01 12:19:10
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