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カテゴリ:旧東海道53次を歩く
『旧東海道を歩く』ブログ 目次 後には、この浜松城主になることが幕閣への登竜門とさえ言われていたとされており、 別名出世城と呼ばれる。 天守閣は三層四階構造で、昭和三十三年の再建である。
天守台にあるハートの石 浜松城の天守台にはハートに見える形をした石があり、その石探しがちょっとした ブームになっている この真ん中の石だそうです。ななめになってますが、いわれてみればハートに見えなくもない。 『天守門』 「浜松城の第二代城主、堀尾吉晴は城の中枢である天守曲輪に天守を建築したと言われているが、 この天守は古図などの資料から、江戸初期には喪失していたと考えられる。 天守曲輪入口の天守門は幕末まで維持されたが、明治6年(1873)に解体され、払い下げられた。 「安政元年(1854)浜松城絵図」には安政地震による浜松城の被害状況が示されており、 天守門でも櫓の壁が一部潰れたものの、深刻な被害を免れた事が記載されている。 絵図には天守曲輪の外周を土塀が囲んでいる様子も描かれている。天守門は、門の上部に櫓が載る 櫓門と呼ばれる形式がとられている。天守門のように櫓が両側の石垣上にのびる渡櫓 (わたりやぐら)は、石垣を多用した西日本の城に多く見られる。 天守門(復元)の概要は次の通り
マンガ『センゴク』の画も展示されていた。 (三方ケ原合戦の様子が描かれていると) 『天守台』 「浜松城の天守台は、一辺21mのややいびつな四角形をしていて、西側に八幡台と呼ばれる 突出部が付いている。また東側には、付櫓と呼ばれる張り出し部分があり、 現在は復興天守閣への入口として利用されている。 浜松城の天守は第二代城主堀尾吉春の在城期(1590頃)に築かれた説が有力だが、 17世紀の絵図には天守が描かれていない事から、江戸時代前期には天守が失われていたと 考えられている。昭和33年(1958)に作られた現在の復興天守閣は、天守台の大きさと 比べると小さいものである。 かつての浜松城は、築城時期等から大きな屋根を持つ下層部の上に小さな望楼が載せられる 「望楼型」であった説が有力である。その規模は天守台の大きさから推測すると現在よりも 一回り大きい三重四階で、巨大な天守だったと考えられる。」 浜松城天守入口。 内部は資料館として使われており、徳川家康をはじめとした当時のゆかりの品々を 見学することができます。 『徳川家康の3D像』。 2015年、徳川家康公400年記念事業として制作された30歳前後の等身大家康像。 「手相・しわ・毛穴」まで再現され、今までにない家康公の姿を披露しているのだと。 『歯朶具足(しだぐそく)』(右) 徳川家康が霊夢により作らせた具足で御夢想形あるいは御霊夢形とも称されています。 兜に歯朶の葉形の前立がついていることから歯朶具足とも呼ばれました。 『金蛇美具足(きんだみぐそく)』(左) 総体が金泥または金箔でいろどられているために金蛇美具足と言われています。 桶狭間の戦いのときに、19歳の松平元康(後の徳川家康)が着用したものと伝えられています。 これも、徳川家康の武将姿の絵画であろうか? 天守入口前から天守門を見下ろす。 『井戸』 天守前広場に入った所にあった。 「この井戸は銀明水と呼ばれていたという。 浜松城には、天守台に一つ、天守曲輪の埋門のそばに一つ、本丸に一つ、二の丸に三つ、 作左曲輪に四つ、計十本の井戸があったという。 天守台の井戸は、再建の時に残し、今は、天守閣の地下室にある。 直径1.3m、深さは現在1mほどになっており水はない。」 『八幡台』。 天守台の北西にあたり、五段の石垣により天守台より高く、面積はおよそ40㎡ (12坪)あり、浜松城の中で最も高い所(419.9m)であります。 城を守る神社(多分、八幡大菩薩)をお祀りした所だといわれてます。 八幡大菩薩は武士の守り神として信仰されました。 『門下の排水溝』 「平成21年度からの発掘調査で、門下に瓦を用いた排水溝が発見された。 丸瓦を使用して排水溝を狭くしている部分があることから、かつて礎石が存在していた 時点には、排水溝が造られていたと考えられる。土層断面から、瓦の排水溝埋没後に 礎石の抜き取りがあったことがうかがえる。 排水溝は西側の雨落溝から屈曲し、南側の石垣に沿って配列されている。 排水溝に使用された瓦は、江戸前期までの古い特徴をもつもので構成されているが、 この排水溝がいつの時代に造られたものかは、正確には特定できていない。」 再び天守を。 『若き日の徳川家康公の銅像』 「この銅像は1981年(昭和56年)に建てられました。「徳川家康公は天文11年(1542年) 三河国岡崎城内に誕生した。 父は松平広忠、母に生別、駿府に少年時代を過ごしたが、岡崎に戻り独立の一歩を踏み出した。 元亀元年(1570年)遠江国へ進出、浜松に築城し、ここを根拠として着々と地歩を固めた。 その間17年、武田信玄のために大敗を喫した三方原合戦、正室築山殿嫡男信康を一時に 失うような家庭危機に遭遇したが、隠忍自重よくこれを克服し、東海を制圧、その領国は 遠江・三河・駿府・甲斐・信濃の五か国に及び、海道一の弓取り武名を馳せるにいたった。 そして常にこれを支えたものは浜松の地の利と人心の和であった。 浜松より駿府へ、さらに江戸に移り、江戸幕府を開き、二百六十年余の泰平の基礎を固めたが、 やがて駿府に退隠、元和2年(1616年)薨じた。 乱世を生きぬいた努力と忍苦の75年であった。 像は浜松時代の若き日の公の姿。 手にしたのは勝草と呼ばれためでたい歯朶である。」 その10 に戻る。 ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.05.01 12:20:29
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