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カテゴリ:旧東海道53次を歩く
『旧東海道を歩く』ブログ 目次 跨線橋南交差点から県道49号線に入り、舞阪駅南入口交差点を過ぎるとすぐ、 その松並木が始まる所に、『夢舞台・東海道「松並木」』の標柱が立っていた。 約700mの両側におよそ340本ほどの松が残っているのだと。 『東海道松並木』。 常夜燈を模したものであろうか。 汚水マンホール蓋もひたすら『松』。 松への薬剤散布の管理TAGのようであった。 進行方向右手には干支(えと)で時刻を表す石像が。 左手には東海道五十三次の宿場の碑が続いていた。 車の少ない時にシャッターを。 枯れて伐採された松の株、中が空洞になっていた。 道路側は『東海道 五拾三次内 舞阪 三拾之宿 平成三年』 歩道側は『今切のレリーフ(左) 舞坂 今切真景(右)』 「舞坂宿は、日本橋から67里(264,9km)品川宿から数えて30番目の宿である。 東海道の陸路は、舞坂で一度切れて、ここから新居宿まで海上一里半船を頼りとして 渡ることになる。 浜名湖は、かつて遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応7年(1498)の 地震により切れて入海となった。その切口を「今切」と呼ぶ。地震による被災から復興して 「今切渡船」の発着地となり、舞坂は交通の要地となった。」 『東海道松並木』 「この松並木は、慶長9年(1604)徳川家康の命により街道を整備し、黒松を 植えたのに始まる。正徳2年(1712)には舞阪宿の東端「見付石垣」より馬郡境まで、 8町40間(約920m)道の両側の堤に、1,420本の立木があったという。 その後、寿命や台風で倒れる一方で、その都度補植など行ってきたが、昭和13年(1938) 国道付け替えの際。堤を崩し両側に歩道をつけ今日の姿になった。 現在700m、株数約330本旧東海道の面影を良く残している。」 道路側は『舞阪宿』。 往時の東海道を偲ぶ松並木。やはり旧街道に松並木は似合う。 松並木の途中にあった『舞阪橋跡』。 「ここは江戸時代、舞阪宿唯一の橋である舞阪橋がかかっていました。北に西長池という 大きな池があり、南から松並木を横切って昭和10年頃まできれいな水がながれていました。 天保14年の東海道宿村大概帳には次のように書かれています。 字 舞阪橋 土橋 長7尺 横3間 橋杭4本立て弐組 是は前々より御普請所にて、寛政10年御代官辻甚太郎掛にて御普請これあり、 この証拠書物は宿方にあり、文化14年にも御普請これあり、もっとも土橋のため保持に 難あり宿役で板橋に掛換えをした。」
「むかし、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていました。魚が取れない日が続いたある日、 真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は 「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに、 海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と 言うので、海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと 伝えられています。 ~遠州七不思議より」 『MAISAKA(舞阪) MAP』。 ここは新町交差点の手前。 新町交差点で終わる東海道松並木。 そして新町交差点で国道1号線と合流するが、直ぐに別れ旧東海道は左側に。 道路の分かれ目の先端には『東海道⬅舞阪宿』の表示板があった。 そして道路の前方両側に石垣が。 『見付石垣』 宿の東外れに位置していると。 『史跡 見付石垣』。 「この石垣は舞阪宿の東はずれに位置している。石垣の起源の詳細は明らかでないが、 宝永六年(一七○九年)の古地図には既に存在している。 見付は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここに六尺棒を持った番人が立ち、 人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。」 『東海道舞阪宿一里塚』碑が右側に。 近寄って。 『一里塚跡』碑が左側に。 「江戸幕府は、交通政策に重点を置き、諸国に通じる街道を整備し、慶長9年(1604年)、 主要街道に一里塚を築くようお触れを出した。これにより、日本橋を起点として 1里(約3.9km)ごとに、道の両端に土を盛り、その上に榎や松などを植えた一里塚が 整備されていった。一里塚は、旅行者の目印になるとともに、馬や駕籠の賃銭を支払う 目安にもされた。舞阪の一里塚は、日本橋から68里(約267km)に位置し、松が 植えられていた。」 『宿内軒別書絵図面』 文久二年 東海道舞坂宿 宿内軒別書絵図面 現在地付近。 写真中央付近に『壱里塚』、『秋葉山常燈明』の文字が。 『一里塚跡』手前には『新町 常夜燈』が。 「舞阪には往還沿いに3基の常夜燈がある。舞阪宿では、文化6年(1809)元日、宿場の大半を 焼く大きな火事に見舞われたことから、これをきっかけに火防の秋葉信仰が広がり、常夜灯を建て 秋葉講を組織して火の恵みに感謝するとともに、火の用心を誓いあった。 常夜燈の竿石の四面には両皇太神宮、秋葉大権現、津島牛頭天王、建立年月が刻まれている。 新町の常夜燈は、文化12年(1815年)正月に建立されたもので、灯りをともして悪霊の侵入 を防ぎ地域を鎮めるとともに、闇夜を照らす道しるべとして守られてきた。 月詣りやのぼり立ては、今も地域の人たちに受け継がれている。」 その3 に戻る。 ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.05.01 12:24:53
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