7279003 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Category

Freepage List

Comments

Favorite Blog

東西通りのハナミズ… New! 隠居人はせじぃさん

春の東海道をゆくツ… New! オジン0523さん

【難波野茨 ・ 植替… New! Gママさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん
noahnoah研究所 noahnoahnoahさん

Headline News

Archives

Calendar

2019.07.16
XML
カテゴリ:海外旅行
今日は7月16日、私の69歳の誕生日。
昔で言えば『古希』。昔は『古希』の祝いは、数え年で行うのがしきたりでしたが、最近では
数え年のなじみが薄くなっていることから、満年齢でお祝いする人が増えて来ているのです。
因みに
・『還暦』60  : 数え年 61歳のこと。干支(えと)が60年たつと一回りして、元に帰るから。
・『古希』70  : 人生70歳まで生きることは古来から稀(希)な事であるという意味から。
・『喜寿』77  :「喜」の字の草書体「㐂」が「七十七」と分解できるところから。
・『傘寿』80  :「傘」の略字体の「仐」が「八十」と分解できることから。
・『米寿』88  :「米」の字が八十八に分解できることから。
・『卒寿』90  :「卒」の略字体の「卆」が「九十」と分解できるところから。
・『白寿』99  :「百」の字から「一」をとると「白」の字になるところから。
・『紀寿』100:「紀」の字が一世紀の「紀」に由来するから。「百寿」ともいう。


  【https://www.ringbell.co.jp/giftconcierge/2201】より転載させていただきました。

中国の代表的詩人、杜甫(とほ)の詩「曲江誌」の一節、
『酒債尋常行處有 人生七十古来稀』
「酒債(しゅさい)は尋常 行く処(ところ)に有り 人生七十 古来稀なり」
(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもある。しかし七十年生きる人は古くから
稀(まれ)である)に由来しています。もともとは『希』は『稀』の字だったのです。
現代では、男女ともに平均寿命が伸びており、70歳まで生きることが当たり前になりましたが、
当時は70歳を迎える人が少なかったため、この詩が生まれたのです。
そして「還暦は赤」など、長寿祝いにはそれぞれテーマカラーがあります。
そんな古希のテーマ色は「紫色」なのだと。
今朝も、復習と学習の朝となりました。
そして、長女はサクランボ、礼文島ウニを、長男はケーキ、そしてマレーシア土産の
ホワイトコーヒーを持って、孫を連れて家族で訪ねてくれました。
------------------------------------------------------------------------------------------
そして今日も『中国・東北地方7名所大周遊8日間』の続きです。

『瀋陽故宮博物館』に向かって進む。
故宮と言えば、昨年6月に訪ねた北京の天安門というくらい誰でも知っている北京故宮ですが、
恥ずかしながら、今回この地を旅するまで、瀋陽の故宮についてはほとんど知らなかったのです。
満洲族は、遼寧省東部の女真族が主となって女真族を統一、”文殊”菩薩の満洲語から名を取って
”満洲”を名のった。また、元の後裔から大汗の印璽を受けて蒙古族の大汗も兼ね一大勢力となった。
初代ヌルハチは、(後)金国としたが、二代ホンタイジが大清国に改めた。
この二代の都が盛京(瀋陽)で、宮殿が瀋陽故宮だ。
北京遷都後も盛京は満洲族の故郷として尊崇された為、文化財として今に伝承されているのだと。



沉阳故宮导游全景图(瀋陽故宮導遊(ガイド)全景図)。
瀋陽故宮は、図のように3つの区画に分かれる。右から東路、中路、西路の順に建てられた。
何故か東路は他と中軸線が少し傾いているのだと。
東路は、八角大の政殿と十王亭(左右翼王亭と八騎亭)が整然と並び初代ヌルハチが”大典”を
挙行した。満洲族の八騎制度と漢族の建築技術を反映した独特の広場だ。
中路は、東路の2年後に建て始めたもので、皇帝の政治活動や宴会、后妃の居住空間になる。
南北中軸線に正門となる大清門、崇政殿、鳳凰楼、清寧宮が並ぶが、鳳凰楼からは、
3.8m高くなり、シャーマン祭祀も見られる。
西区はオンドルなどの満洲族の建築様式のある。東南の角には清朝の祖先を祭る太廟がある。
西路は、劇台、嘉蔭堂、文溯閣、仰熙斎からなり、150年後の皇帝東巡の際に、四庫全書を
収める場所として建てられた。入口は、西路からになる。
地下鉄1号線懐遠門駅を降り、東に向かい城門を模した門(懐遠門)をくぐると瀋陽路に出る。
駅から0.5km程で故宮に着く。中路のハズレには武功坊と文徳坊。



入口両脇にあった巨大な石版彫刻。
その間には大きな連絡歩道が設けられ、両側には清朝2代の歴史絵巻が刻まれていた。
右側。



ラッパを吹く人物。



左側。
甲冑を纏い馬に乗りいざ出陣。



王ホンタイジと皇后であろうか?



舞う女性と称える随臣。
これらの巨大な石版彫刻の内容について詳しい方がいらっしゃいましたら
ご教示賜りたく。



『沈阳故宮』と書かれた扁額のある門の前には『多彩非遣美好沈河(多彩で斬新に?)』と
書かれたボードが。



瀋陽故宮博物院の入り口・瀋陽路の門。
屋根瓦などは葺き替えられたようですが、木製の扁額や飾り板などは年代を感じさせてくれた。



『文徳坊』と書かれた扁額。
漢字の上下には満州語の表記が。



ここにも『沈阳故宮』と書かれた扁額のある門。



結婚するカップルが記念撮影中。



満面の笑顔で。



空には蛸の形の凧が浮かんでいた。



そして同様な門が再び前方に。



『沈阳故宮旅游服务部(瀋陽故宮旅遊服務所)』は瀋陽故宮観光案内所か。



瀋陽故宮のマンホール。



『太廟』正門。
『太廟』は中国皇帝が皇室の祖先祭祀を行う場所。清朝では盛京(瀋陽)と北京の2箇所に
設けられている。瀋陽故宮の『太廟』は乾隆46年(1781)に撫近門(大東門)外から
大清門東横に移築されたもの。現在はバリケードがあり非公開のようであった。



『沈阳故宮博物館』が左手に。



『奏乐亭(奏樂亭)』。日本の舞殿の如し。



添乗員から入場チケットを貰い『大清門』から入る。



南北中軸線に正門となる大清門は故宮への入り口で清代には午門とも呼ばれた。
清の太宗天聡年間(1627~1635)に創建され、崇徳元年(1936)に正式に
大清門と命名。文武百官や外国使節はここでハンタイジの出御を待ち、またホンタイジが
ここで臣下や外国使節に賞賜を与えるなど、多くの典礼がここで行われたと。
『沈阳故宮博物館』の建築様式は崇政殿、清寧宮と同じく五間硬山式。
外側の『沈阳故宮』の扁額は、戦後にかけられたもので、郭沫若の筆であると。
門の左右には二匹の獅子が座っており、門を守護している。



『大清門』と書かれた扁額。
左は満州文字(満文)、右は漢文。



『沈阳故宮博物館』前の広場。



『清沈阳故宮』配置図。



『全景図』。



『沈阳故宮』案内。
瀋陽故宮は、清朝の初代皇帝、太祖ヌルハチ(努爾哈斉)と2代皇帝、
太宗ホンタイジ(皇太極)により建立された皇城。
1625年に着工して1636年に完成しました。
瀋陽故宮の総面積は約6万㎡あります。
北京の「故宮」の12分の1の大きさではありますが、500以上の部屋を持つ70以上の建物が
建ち並び、満州族の威厳と風格が感じられます。
敷地内は大きく東、中、西路の3つに分かれています。
入口を入ってすぐの東路正面に建つ大政殿は、かつて大典が行われていた場所です。
黄色の瑠璃瓦の美しい八角二層のこの建物は、漢、満、蒙の3民族の建築的な特徴を兼ね備えた
傑作といわれています。
中路には故宮の中心となる建物が一直線に並んでいます。
中央には玉座の置かれた崇政殿、その背後には三層の鳳凰楼、さらに奥には皇帝や皇后、
皇族達が生活していた建物があります。
盛大な宴会が催されていた鳳凰楼は故宮で最も高い建物で、楼上からは市内を
一望できたといいます。
皇帝の寝室だった清寧には、太宗ホンタイジが死去したという寝室が保存されています。
西路には嘉陰堂、戯楼、歴代の重要書「四庫全書」を収めていた文溯閣などがあり、
これらは北京遷都後に乾隆帝により建設されたものです。
ヌルハチとホンタイジの宮殿であった故宮は、順治帝が都を北京に移した後も離宮として
使用され、先祖の墓参りや東北地方巡回の際に皇帝が滞在していました。
現在は瀋陽故宮博物館として公開され、建物内には優雅な家具、調度品や食器類が
展示されています。



大清門をくぐると正面に見えて来た『崇政殿』は瀋陽故宮の正殿。



太宗ホンタイジはここで政治を行い、外国使節の朝見の儀式や饗宴もここで行われたと。
天聡年間(1627~35)に完成、崇徳元年(1636)正式に『崇政殿』と命名された。
北京への遷都後も、皇帝の東巡(東北への行幸)時にはここで政務や典礼を行った。



『崇政殿』が現在の姿になったのは、乾隆十一年~十三年(1764~48)頃にかけて行われた
『崇政殿』および宮殿中路の大規模な増改築の後であったと。
『崇政殿』も硬山式と呼ばれる中国北方地区によく見られる建築様式で建てられているのだと。
硬山式は日本建築の切妻造に近いが、左右の側壁が屋根の上端より少し高い位置まで
延び、左右の軒先が外側へ張り出していない点が異なるのだと。
『崇政殿』は間口が五間(柱4本、柱間に5つの空間)の五間硬山式で、大清門と清寧宮と
共通の様式となっていると。
屋根には他の建築物と同じく、黄色い瑠璃瓦を用い、緑の瑠璃瓦で縁取りされ、左右の隅棟には
走獣が置かれていた。



口を開いて水を吐き出している『鴟吻(しふん)』。
大棟(屋頂)の左右両側にには『鴟吻』と呼ばれる神獣の像が置かれていた
『鴟吻』は「龍生九子」、すなわち龍が生んだ九匹の子の一匹で古来、雨や水をもたらす
神として崇拝されており、建物を火災から守る役割を担っていたと。
そして龍の一族である『鴟吻』は、龍の化身たる中国皇帝が利用する建物にのみ置くことが
許される高貴な装飾なのであると。
また、大棟(屋頂)の左右両端は、側壁と屋根の前後の勾配の三面が交わる場所で、非常に
隙間が出来やすいため、『鴟吻』の像を置くことによって密封し、雨漏りを防ぐという実用的な
意味もあるのだと。尚、日本の「しゃちほこ」はこの『鴟吻』が変化したものらしいと。
こちらは右側の『鴟吻』。



左端にも『鴟吻(しふん)』が。



左右の隅棟には走獣が置かれていた。



入口左右の『斗拱(ときょう)』には首をもたげた龍の彫刻が色彩豊かに。



中国皇帝のシンボル、龍のレリーフ像が柱に。
上下2つに分けて焼成されていたが2頭であろうか。



『崇政殿』正面。
建物正面(南側)の軒下の柱は四角形の柱が用いられ、軒には斗栱(ときょう)と呼ばれる
枡形の飾りが取り付けられていたが、これはチベットの仏教寺院によく見られる手法とのこと。
入口左右の斗栱には、首をもたげた龍の彫刻が取り付けられていた。



扁額の『崇政殿』。



中央の『雲龍階石』。
風化が進んで、ほとんど判別が付きませんが、『崇政殿』の石像のレリーフ。



内部には玉座が置かれ、その両側には天空を舞う二匹の龍、後ろ側には金色の屏風があり
威厳のある造り。



玉座真上の天井には、『正大光明』の扁額が。
ひときわ目を引く玉座の上に掲げられた『正大光明』の扁額は、清王朝第5代皇帝の
雍正帝(ようせいてい、在位1722-1735)が考案した「儲位密建(ちょいみっけん)」の法で
有名であると。彼は、後継者となる皇子の名を記した勅書を厳封した上で、この
『正大光明』の扁額の裏に置き、自分の死後に皆で立ち会ってこれを開封し、次帝を
立てるようにと定めた。皇太子が誰かをぎりぎりまで公開しないことにより、皇太子の堕落や、
次帝をめぐるお家騒動を防止することを目的とした、実に巧みな制度であったと。



右側から玉座を。



『崇政殿』への階段を下りながら振り返って。



『嘉量』
貴重な品らしく、周りを鉄柵で囲ってあった。



日本で例えれば、石燈籠の光景ですが、容積の原器とされる『嘉量』と呼ばれるもの。



こちら『日晷(にっき)』は日時計。
これらは、乾隆十一年~十三年(1746~48)頃行われた、崇政殿と宮殿中路(中央部)の
増改築の際に置かれたものであると。

宮殿正面に容器の原器と日時計が置かれている理由は、繰り返しになるが、これこそがまさに
中華帝国と中国皇帝のシンボルだからであると。
始皇帝が天下統一後に度量衡を統一したように、度量衡は古来から国家統一の象徴。
つまり、国家の統一と皇帝の権威を象徴する重要な意味を持つのだと。



麒麟?も触られて黒光り。




                              
                              ・・・​もどる​・・・

                  ・・・​つづく​・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2019.11.01 23:58:57
コメント(0) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
別の画像を表示
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、こちらをご確認ください。



© Rakuten Group, Inc.