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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.07.24
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カテゴリ:海外旅行
中山広場でバスを降り、暫しの広場周辺の夜景観光に。
中華民国時期(1912-1949)に、孫文の三民主義と孫文本人を宣伝する
国民党の孫文崇拝運動の一環として、「中山公園建設運動」が行われた。
「中山」は孫文の出身地は、広東省中山市に由来ているのだと。
そして孫文の死後、国民政府は全国各地の孫文と関係のある公園を中山公園に改名する
運動を行い、中国全土にある中山公園の数が一気に増えたと。
1949年には、中山公園は全国に267箇所あると言われていたが、半世紀ほど経過し、
現存するのは87箇所と言われていると。
この後にも、大連の日本の統治時代に建設された建物が並ぶ中山広場も訪ねたのであった。

ここの中山広場中央にはかつて日本が建てた日露戦争の戦勝記念碑に上書きされた形で、
日本の侵略を指弾する姿勢をとる毛沢東像が立てられていたのであった。
これにより、この毛沢東像は、日本のイデオロギー的象徴を完全に否定し、日本の侵略を
強烈に批判するモニュメントとなったのであるとのこと。



中山路/浪速通の方向へ手を掲げていて、その先には瀋陽駅(旧奉天駅)がある。
日本が支配した奉天満鉄附属地の中核である駅の方に手を向け、台座部分の躍動感あふれる
群衆も毛沢東と同じ旧奉天駅を向いて、民衆と指導者毛沢東との一体化を連想させ、
抗日戦争や戦後の中国の発展などの物語を現し、抗日の迫力が増しているのであった。



そして『遼寧賓館』・『旧奉天ヤマトホテル』を訪ねた。



『大和旅社旧址』。
築:1927~1929年 設計:小野木横井共同建築事務所
奉天大広場(中山広場)に面して建築された、大連ヤマトホテルと並んで満州を代表するホテル。



『遼寧賓館』・『大和旅社旧址』の文字が。



遼寧賓館・館内の片隅にはピアノが。
スタインウェイのピアノ。1899年製で米国ニューヨーク工場での製造品と書かれていた。
現在では保護されるべき文物として使用されていない様であった。



もしかすると、李香蘭も弾いた当時のピアノかと?



通路の左右には連続アーチが連なり右手にはエレベーター、左手には階段があり、
正面の階段を昇った通路突き当たりには「餐庁」と金色の額が掲げられたバンケットホール。
翌日は日曜日、結婚式でも行われるのであろうか?
既に受付の準備が行われていた。



歴史を感じさせるホテルロビー。



李香蘭が初舞台となった、奉天・大和旅館。



李香蘭は満州国と日本のスターだったが、映画『萬世流芳』とその主題歌「賣糖歌」、
挿入歌「戒煙歌」そして「夜來香」「海燕」「恨不相逢未嫁時」「防空歌」「第二夢」などの
ヒット曲により、中華民国でも人気スターとなったと。



李香蘭は中国人と思われていたため、日本の敗戦後、中華民国政府から
漢奸(売国奴・祖国反逆者)の廉で軍事裁判にかけられた。
そして、李香蘭は来週上海競馬場で銃殺刑に処せられるだろう、などという予測記事が
新聞に書かれ、あわや死刑かとも思われた。
しかし奉天時代の親友リューバの働きにより、北京の両親の元から日本の戸籍謄本が届けられ、
日本国籍であるということが証明されたのだと。
帰国した後、翌年には旧姓(当時の本名)「山口淑子」に戻って銀幕に復帰、日本映画を中心に
活躍した。
主演作では、池部良と共演した1950年(昭和25年)の『暁の脱走』などが名作として名高い。



見事なシャンデリア。



このホテルに宿泊したことのある、中国の著名人100名のリスト。
金日成、松岡洋右、愛新覚羅・溥儀、蒋介石・・・の名が。



ホテル『遼寧賓館』のフロント。



1F客室前の廊下。



この螺鈿細工がほど施された鏡は、エレベーターホール奥にある「餐庁」の入口前に
置かれていた。奉天の迎賓館たる存在だったヤマトホテル時代の調度品は皆この様な
豪華なものだったことまちがいなし。



毛沢東の写真。



1920年台に賓客用の会見に使われた『中央大廳・バンケットホール(宴会用広間)』の写真。



現在のバンケットホール(宴会用広間)。
女学生だった山口淑子は自身の歌の先生(イタリア人オペラ歌手)の前座として、
荒城の月やシューベルトのセレナーデをこの舞台で歌ったのだと。



1950年台初期の毛沢東主席、周恩来総理、とベトナムの胡志明(ホー・チ・ミン)。



陳列棚には当時使われていた食器等が展示されていた。



1920年台後期の建設直後の大和旅館。



民国初年(1912年)の奉天駅。



こちらも1920年台末の大和旅館。



1927年の建設中の大和旅館。



1Fのホテルロビー。



そして再び『中山広場』の毛沢東像を。



笑顔で手を降って。



毛沢東像の土台の部分。
躍動感あふれる人々。抗日戦争や戦後の中国の発展などの物語を現しているのだと。
兵士、労働者、農民たちが毛沢東(中国共産党)を支えているイメージ。



設定を変えズームで。
中央後ろには毛沢東語録を持つ群衆の姿が。



画面中央には中国の国章を掲げている男女もいた。



毛沢東の背中側にも。
農民と思しき恰好をした二人が手を取り合い掲げ、その横に共産党宣言をもったインテリ風の
人が横の農民と手を取り合い、中国を構成する4要素のうちの知識人と農民の連帯が
アピールされているのだと。



最後に『大和旅館旧址』を振り返る。



帰路の中山広場近くにあった『西部酒城』。



『炭焼鸽』は焼肉屋か。そして『鸽』はハトの意。



『金凤凰』はサウナ付きのマッサージ店か?時間は21:13。
いろいろな店のネオンを楽しみながらの店を想像しながらの帰路であった。



そして2連泊のホテルに戻り、翌日に向けてトランクの整理等を行い、
この日の長い一日の反省会を行い、爆睡したのであった。

                              ・・・​もどる​・・・
                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2019.11.02 00:02:02
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