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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.08.13
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カテゴリ:海外旅行
旅順から大連市内にバスは戻り、このツアーの「最後の晩餐」会場に向かう。
場所は大連・中山広場の近く、人民路に沿った『天天渔港』。



いろろな、受賞銘板が入口に並んでいた。



様々な旨そーなメニューが。



「最後の晩餐」会場。



そしてビールを注文し料理を待つ。
青梗菜。



そしてポテトスティックと??



最後の晩餐?と言うことでカレイ?の刺身も。「えんがわ」をたくさん楽しみました。



様々な野菜も。



そして「最後の晩餐」を堪能し、店を後にする。
店の出口には鮮魚や海鼠類も。



貝類、海老、蟹も水槽の中に。



そしてまたまたこれを発見。「カイコ」や「サナギ」!!。
正確にはカイコ(蚕)といえば桑の葉を食べるあの生き物ですが、中華料理店で出される
「カイコ」は、違う生き物。
たいていは便宜上カイコと呼んでいるだけで、
「サクサン(柞蚕)」というヤママユガ科の蛹(さなぎ)なのだと。



そして連泊のホテル、大連・日航飯店に戻る。
そしてしばしの休憩後に我々二人は、近くにある夜の『旧ロシア人街』の散策に
出掛けたのであった。時間は19:30過ぎ。『旧 日本橋(現 勝利橋)』を渡る。
1907年(明治40)に架けられた旧日本橋はロシア街を正面に見て右側。
美しいアーチ状の構造をしていることが分かったのであった。
1905(明治38)年2月11日にロシア統治時代の「遠い街ダルニー」から「大連」へ
名称が変更され、日本の本格的な統治が始まった。
日本橋は現在の中山広場(旧、大広場)から西北へ上海路(旧、大山通)を
直進した先にあった。この橋は現在は「勝利橋」と呼ばれ、大連港と大連駅とを結ぶ鉄道を
跨ぐ陸橋で、今もそのまま残っていた。
そのまま渡って、旧ロシア人街(団結街)へ入って行ったのであった。



橋の途中から『芙蓉国际酒店』が前方に。



橋の下には大連駅に向かうCR(中国国家鉄路集団)の電車が頻繁に。



ピンクの『インターコンチネンタルホテル』。



そして再び大連駅に向かう電車が。



勝利橋を渡るとそこが旧ロシア人街。
ここでは新旧のロシア風建物を見ることが出来たのであった。
1898年ロシアは遼東半島南部を99年間の期限で租借し、「遠方」という意味の「ダリーニ」と
名付けた。大連の都市構造の基本はロシアによって作られたわけである。
1904年に日露戦争が始まると、大連はわずか3ヶ月で日本軍に占領された。
日本統治の後、1945年から10年間、大連は再びソ連に接収された。日露戦争までの
僅かな期間に完成した建物がここにはある。2000年に古い建物なども活用して
復元整備された町並みで、まるでテーマパークのような雰囲気であった。
というか、実際にテーマパークの如き施設もあったが、古いのかレプリカなのか、全くの
新規建造物なのか、よく解らない建物が並んでいたのであった。
橋を渡って直ぐ正面の建物は『东清轮船会社旧址』。



旧ロシア人街の入口に建つこの象徴的な建築物は、1900年に東清鉄道汽船会社の社屋として
建てられたもので、日本時代は「日本橋図書館」であったと。



建物は、ドイツ式の建築となっている。説明によれば、ロシア人がドイツ人技師に設計を
依頼したものだという。当時、ロシアよりもドイツの技術が優れていたから、ドイツの技術を
積極的に導入しようとしていたのだろう。
現在は「大連芸術展示館」という美術館になっていると。



大連と北九州は姉妹都市で、これに似た建物が門司港にもあるのだと。
日本時代には舞踏場として賑わい夏目漱石も訪れていると。
しかし、残念ながら、この建物は再建されたレプリカであるようだ。
現在の復元された建物は、取り壊し前に北九州市門司港に作られたレプリカを参考に忠実に
復元されたものであると。こんなこともあるのかと驚き!!
北九州のレプリカは、姉妹都市である北九州との友好都市締結15周年を記念して1994年にと
建築されたものであると。
そして、私もその『​門司港にある建物​』👈リンクを2011年に訪ねたことがあることを、
先程思い出したのであった、



『东清轮船会社旧址』。



『芙蓉国际酒店』が入口左に。



旧ロシア人街(俄罗斯风情街)は、19世紀末期、大連に港湾施設を建設し、都市開発を
進めたロシア人たちが最初につくったエリア。いわば大連発祥の地
下の写真は日本統治時代のもので、鉄道をまたぐ旧日本橋(現・勝利橋)の北側の一帯には、
ロシア風の街並みが広がっていたと。


       【https://inbound.exblog.jp/24019874/】より転載

『露西亚(ロシア)町旧址』



『大連・俄罗斯(ロシア)风情街』。
1898年ロシアは遼東半島南部を99年間の期限で租借し、「遠方」という意味の
「ダリーニ」と名付けた。
大連の都市構造の基本はロシアによって作られたわけ。
1904年に日露戦争が始まると、大連はわずか3ヶ月で日本軍に占領された。
日本統治の後、1945年から10年間、大連は再びソ連に接収された。
日露戦争までの僅かな期間に完成した建物がここにはあっのであった。
かつてこの通りには壮麗なロシア建築が並んでいたが、新中国建設後は老朽化が進み、
2000年代に派手なペイントを塗りたくられ、お色直しして現在に至っていると。
現在では、このエリアのメイン通りにあたる街を「俄罗斯风情街」と命名し、
再開発されていた。
歴史的建築物を保護することを目的に、2000年代初めに大連市政府によって
着手されたものだが、正直なところ、土産物屋とエコノミーホテルの並ぶ
ロシア風テーマパークと変わっていたのであった。



『旧ロシア人街』の地図をパンフレットから。



奥に向かって散策を続ける。



『旧満鉄総裁公邸』

初代大連市役所の少し手前にあるこの建物は東清鉄道の技師長サハロフの官邸として
1900年ごろに建てられ、サハロフが市長を兼ねると市長公邸となったと。
満鉄設立後は、満鉄総裁公邸を経て、大和ホテルの新築前は賓客の接待にも使われたと。
現在は1階はバー(?)、2階は船舶学校の事務所として使用されているようだ。
ロシア風情街入り口からだと左手にあった。
カメラの設定が変わってしまっていた?



中国を代表するエコノミーホテルチェーンの『錦江之星』などいくつかのホテルが。



こちらは『全季酒店』。



『新海瑪精品店』。



塔のある建物は『珍珠』。



『珍珠』の説明板は歴史的建築物の説明であると思っていたが
よく見ると宝飾店の商品説明か?



『福园』。



巨大な『マトリョーシカ』が壁に嵌め込まれていた。



そしてマトリョーシカのお土産屋も路の両側に。



こちらも。



『莫斯科购物广場』は「モスクワ購物広場」の意味の店であったが
実は漢方薬屋であったのだろうか?



その他様々な商店が並んでいた。



巨大な朝鮮人参か?



『玖恒精品城』



カードゲームを楽しむ大連のオジサン、オバサン。
この光景を見ると、やはりここは中国なのであった。



歩いて来た旧ロシア人街を振り返る。



歩道には多くの出店が。



『旧 大連市自然博物館』
通りのいちばん奥まった場所に、唯一お色直しされておらず、老朽化にまかせるまま、
それゆえに独特の存在感のある建築物が建っていたのであった。
夜間の無色(黄色?)の照明であったため一層状態が悪く見えたこともあろうが。



この建物は最初、東清鉄道事務所として建てられ、1902年には初代の大連市役所、
日本統治時代の1907年に満鉄本社、翌1908年に2代目ヤマトホテル、その後、
満州物質参考館、満蒙資源館、満州資源館と名称を変更しながら博物館として使われ、
新中国時代は1997年まで大連市自然博物館であったとのこと。
1998年に博物館が他所に移転されてからは利用されていないとのことだ。
その後、一時期オフィスやホテルにも使われたようだが、結局、この歴史的な建築遺構を
再利用することなく、今や廃墟同然の姿で現存していたのであった。
このまま朽ち果てていくのであろうか?保護・保存活動の予定は?



『金帆賓館(俄羅斯風情街)』は現在もホテルなのであろうか。
この建物の周辺の円形広場廻りは、時間が停まっているように見えた。
100年前からずっとここに建ち、このまちの変遷を眺めて来たのであるが。



道路を隔てた隣の建物。



更に隣のビル、反時計回りに。



そしてこの円形広場からインターコンチネンタルホテルの姿を。



様々な色彩に変わる高層ビル。



そして帰路に。



途中、石畳に毛筆で字を書くオジサンの姿が。
0.5~1mほどの木の棒に、筆先をとりつけ、地面に水で文字を書いていくこの書道は
『地書』と呼ぶらしい。
腕や手の訓練になるだけでなく、立ち姿全体でバランスをとりながら文字を書くことから、
一種の全身運動として、引退後の世代に人気なのだと。
金がかからなくて健康によい知的な遊びなのであろう。



バケツに溜めた水で、太い筆を使って石畳に文字を書いているのであった。



『郷』の字も達筆。
人によって、楷書、篆書、隷書など専門があるようだ。
中国人は、字が上手な人が多いのだが、公園等で書道の練習をしている人は、とにかく上手。
西安や北京を訪ねた際にも同様な光景を公園内で何度か見た。
中国人にとっては、見慣れた風景のはずだが、見事な字を書く人のまわりには、人だかりが
出来ているのであった。



旅友を捕まえ書けと。TRYする旅友の姿。



年の功で達筆。



そして私もオジサンに捕まり特訓を受ける。



そして最後に『中日友好』と書くと大いに喜んでくれ、
握手の手を差し出してくれたのであった。
これぞ『一期一会』の時間と空間なのであった。



そして再び『旧 日本橋』を渡る。



そして、刻々と色を変える『インターコンチネンタルホテル』の姿を楽しみながら
ホテルへと戻ったのであった。時間は21時。



部屋に戻り、トランクの整理を行い、暫しの反省会の後に、
翌朝6時出発の覚悟をし、床についたのであった。

そしてこのブログを書く中で、今年(2019年)1月に名古屋から大連を訪ねた
ツアー参加者の方の『​大連市内観光の動画​』👈リンク に寄り道をしましたので、
ここに紹介させていただきます。
このツアーの現地添乗員は、我々のツアーの現地添乗員と同じ「王さん」であったのでした。



                              ・・・​もどる​・・・

                   ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2019.11.02 00:10:02
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