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カテゴリ:海外旅行
旅順から大連市内にバスは戻り、このツアーの「最後の晩餐」会場に向かう。
場所は大連・中山広場の近く、人民路に沿った『天天渔港』。 いろろな、受賞銘板が入口に並んでいた。 様々な旨そーなメニューが。 「最後の晩餐」会場。 そしてビールを注文し料理を待つ。 青梗菜。 そしてポテトスティックと?? 最後の晩餐?と言うことでカレイ?の刺身も。「えんがわ」をたくさん楽しみました。 様々な野菜も。 そして「最後の晩餐」を堪能し、店を後にする。 店の出口には鮮魚や海鼠類も。 貝類、海老、蟹も水槽の中に。 そしてまたまたこれを発見。「カイコ」や「サナギ」!!。 正確にはカイコ(蚕)といえば桑の葉を食べるあの生き物ですが、中華料理店で出される 「カイコ」は、違う生き物。 たいていは便宜上カイコと呼んでいるだけで、 「サクサン(柞蚕)」というヤママユガ科の蛹(さなぎ)なのだと。 そして連泊のホテル、大連・日航飯店に戻る。 そしてしばしの休憩後に我々二人は、近くにある夜の『旧ロシア人街』の散策に 出掛けたのであった。時間は19:30過ぎ。『旧 日本橋(現 勝利橋)』を渡る。 1907年(明治40)に架けられた旧日本橋はロシア街を正面に見て右側。 美しいアーチ状の構造をしていることが分かったのであった。 1905(明治38)年2月11日にロシア統治時代の「遠い街ダルニー」から「大連」へ 名称が変更され、日本の本格的な統治が始まった。 日本橋は現在の中山広場(旧、大広場)から西北へ上海路(旧、大山通)を 直進した先にあった。この橋は現在は「勝利橋」と呼ばれ、大連港と大連駅とを結ぶ鉄道を 跨ぐ陸橋で、今もそのまま残っていた。 そのまま渡って、旧ロシア人街(団結街)へ入って行ったのであった。 橋の途中から『芙蓉国际酒店』が前方に。 橋の下には大連駅に向かうCR(中国国家鉄路集団)の電車が頻繁に。 ピンクの『インターコンチネンタルホテル』。 そして再び大連駅に向かう電車が。 勝利橋を渡るとそこが旧ロシア人街。 ここでは新旧のロシア風建物を見ることが出来たのであった。 1898年ロシアは遼東半島南部を99年間の期限で租借し、「遠方」という意味の「ダリーニ」と 名付けた。大連の都市構造の基本はロシアによって作られたわけである。 1904年に日露戦争が始まると、大連はわずか3ヶ月で日本軍に占領された。 日本統治の後、1945年から10年間、大連は再びソ連に接収された。日露戦争までの 僅かな期間に完成した建物がここにはある。2000年に古い建物なども活用して 復元整備された町並みで、まるでテーマパークのような雰囲気であった。 というか、実際にテーマパークの如き施設もあったが、古いのかレプリカなのか、全くの 新規建造物なのか、よく解らない建物が並んでいたのであった。 橋を渡って直ぐ正面の建物は『东清轮船会社旧址』。 旧ロシア人街の入口に建つこの象徴的な建築物は、1900年に東清鉄道汽船会社の社屋として 建てられたもので、日本時代は「日本橋図書館」であったと。 建物は、ドイツ式の建築となっている。説明によれば、ロシア人がドイツ人技師に設計を 依頼したものだという。当時、ロシアよりもドイツの技術が優れていたから、ドイツの技術を 積極的に導入しようとしていたのだろう。 現在は「大連芸術展示館」という美術館になっていると。 大連と北九州は姉妹都市で、これに似た建物が門司港にもあるのだと。 日本時代には舞踏場として賑わい夏目漱石も訪れていると。 しかし、残念ながら、この建物は再建されたレプリカであるようだ。 現在の復元された建物は、取り壊し前に北九州市門司港に作られたレプリカを参考に忠実に 復元されたものであると。こんなこともあるのかと驚き!! 北九州のレプリカは、姉妹都市である北九州との友好都市締結15周年を記念して1994年にと 建築されたものであると。 そして、私もその『門司港にある建物』👈リンクを2011年に訪ねたことがあることを、 先程思い出したのであった、 『东清轮船会社旧址』。 『芙蓉国际酒店』が入口左に。 旧ロシア人街(俄罗斯风情街)は、19世紀末期、大連に港湾施設を建設し、都市開発を 進めたロシア人たちが最初につくったエリア。いわば大連発祥の地 下の写真は日本統治時代のもので、鉄道をまたぐ旧日本橋(現・勝利橋)の北側の一帯には、 ロシア風の街並みが広がっていたと。 【https://inbound.exblog.jp/24019874/】より転載 『露西亚(ロシア)町旧址』 『大連・俄罗斯(ロシア)风情街』。 1898年ロシアは遼東半島南部を99年間の期限で租借し、「遠方」という意味の 「ダリーニ」と名付けた。 大連の都市構造の基本はロシアによって作られたわけ。 1904年に日露戦争が始まると、大連はわずか3ヶ月で日本軍に占領された。 日本統治の後、1945年から10年間、大連は再びソ連に接収された。 日露戦争までの僅かな期間に完成した建物がここにはあっのであった。 かつてこの通りには壮麗なロシア建築が並んでいたが、新中国建設後は老朽化が進み、 2000年代に派手なペイントを塗りたくられ、お色直しして現在に至っていると。 現在では、このエリアのメイン通りにあたる街を「俄罗斯风情街」と命名し、 再開発されていた。 歴史的建築物を保護することを目的に、2000年代初めに大連市政府によって 着手されたものだが、正直なところ、土産物屋とエコノミーホテルの並ぶ ロシア風テーマパークと変わっていたのであった。 『旧ロシア人街』の地図をパンフレットから。 奥に向かって散策を続ける。 『旧満鉄総裁公邸』 初代大連市役所の少し手前にあるこの建物は東清鉄道の技師長サハロフの官邸として お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.11.02 00:10:02
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