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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.08.14
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カテゴリ:海外旅行
この旅行の最終日(7月26日)は日本への帰国の日、早朝4:30前には起床する。
『大連日航飯店』の部屋からの光景。時間は5:01。



早めにフロントに行きチェックアウトし、朝食のサンドイッチをもらい、ロビーで
食べる。そして出発の時間6時には全員揃い、大連空港に向けてバスで出発。
昨日夜に歩いた『旧日本橋・現勝利橋』を渡る。



『俄罗斯风情街』の1本東側の上海路を走ると、ここにも旧ロシア人街風の建物が。



こちらにも。



『北海公園』を左に見ながら『先进街』に向けてバスは進む。



右手に『东联路』。



『迎賓路』を大連空港に向かって走る。



『大连国际机场宾馆(Dalian Intl Airport Hotel ホテル)』が前方に。



『迎賓路』沿いの地球儀の如きモニュメントには中国の姿が。



『大連国際空港駐車場入口』が前方に。



『大连国际机場集团』ビル。



大連国際空港ターミナルが姿を現す。
正式名は『大連周水子国際空港(だいれんしゅうすいしこくさいくうこう)』
開港時から現在の正式名称にも含まれている「周水子」という名前は、ここが周水子という
地名であったことが由来で、近くにも周水子駅ある。
市街地の北西に位置し、旅順北路に面していて、街の中心地から車で約20分の場所にある。
また、大連空港は軍民共用空港であるため、中国人民解放軍の軍用機も駐機・離着陸している。



町に近く、歴史ある空港であるが、その限界に近付いており、
大連金州湾国際空港(Dalian Jinzhouwan International Airport)が
渤海の金州湾の埋立地に建設中であるとのこと。



『大连国际机場』ターミナルビルに到着。



『DALIAN』の文字。これは英語名。



漢字は『大連』で簡体字・『大连』ではなかった。



チェックインカウンターに並ぶ。



利用便は中国南方航空 CZ629 8:20発 成田空港行き。



しばし空港待合室からの景色を楽しむ。



空港横には住宅街がギッシリと。



そして定刻に搭乗開始。



この飛行機は中国の航空会社の『海南航空』。
その後ろに管制塔が。



そしてほぼ定刻に離陸。時間は8:40。



利用便はエアバス『A321』便。



離陸し大連湾海上に出て大きく左に旋回。眼下に『和尚島』が。



今回の離陸後の飛行ルート。



旋回し再び遼東半島上を飛行。大連の街並みが眼下に。



そして飛行機は黄海上空を南下し、ソウル南部から韓国を横断し日本海へ。
そして日本海を能登半島方面に向かう。



そして離陸後1時間弱で食事が配られた。



そして金沢市上空から富山市上空へ。



右手眼下には、立山連峰の白き山々が見えて来た。



北アルプス北部『白馬岳』、標高: 2,932 mであろうか?



北アルプスの山々。



そして東北地方を斜めに横断し、いわき市手前で大きく右旋回し南下し成田空港へ。



そして成田空港に着陸。時間は日本時間の12:10。
飛行時間は予定通り約2時間50分あまり。



青空は垣間見えたが、未だ梅雨空。



飛行機を下り、利用した中国南方航空便を振り返る。



到着ゲートを進む。



日本に戻ったことを実感する『迎』の文字が今回も迎えてくれた。
武田双雲氏の書であるようだ。



そして入国、税関手続きも無事完了し、トランクも受け取る。
お世話になった添乗員、旅友に挨拶を済ませ、旅友Sさんの愛車に乗り帰路につく。



新空港自動車道・成田料金所を通過。



東関東自動車道・幕張を通過。



湾岸道路の東京港トンネル。



東海JCT手前を通過。



渋滞もなく順調に進む。



そして横浜新道に入り、無事我が家の駐車場まで送ってもらったのであった。
時間は14:30で成田空港から1時間30分で到着したのであった。



戦後74年を経た、旧満州:中国・東北地方7名所を8日間で訪ねる旅であった。



訪ねた都市は下記の7都市の各名所。
★黒龍江省 ハルビン(哈爾浜)
★吉林省  長春(旧 新京)
★遼寧省  瀋陽(旧 奉天)、本渓、丹東(旧 安東)、大連、旅順



★哈爾浜(ハルビン)
中国旧満州(現在の東北地方。中国では「偽満州」とよぶ)の哈爾浜市は中国最北の
黒龍江省の省都で、人口1060万に達する大都会であった。
もともとは旧帝政ロシアによって19世紀末から20世紀初頭にかけて建設された街で、
その後の日本統治を経た現在でもロシア風の建物が多く残されるなど、歴史的にも
観光地的にも興味深い街なのであった。
ロシア正教やユダヤ教などの教会が残り、異国情緒ただよう街並みは、他の中国の都市とは
異なる雰囲気を有していたのであった。
しかし、今回この街では、ロシア人はほとんど見かけなかったのであった。
東方の小パリ・小モスクワとも呼ばれていて、広場や公園の管理も徹底され美しい街並み。
冬はマイナス20~30度にもなり、壮麗な氷雪祭りも有名とのことだが、冬の哈爾浜(ハルビン)の
街並みそして中国で5番目の大河であり全面凍結する松花江の世界三大氷祭りも訪ねて
見たいと思ったのであった。
『中央大街』はアジア最大の石畳の目抜き通り。ハルビンを代表する歴史的な大通りで、
ロシア語でキタイスカヤと呼ばれ、昔は中国人街であったと。
その規模は、全長1450m・幅21.34m(内、車道の幅は10.8m)。
ロシア統治時代の建築物が数多く残され、「東方のパリ」とも称される西洋風の街並みが
一直線に松花江に向かい、南は経緯街(十字街)から北は松花江防洪記念塔まで伸び、
大いに賑わっていたのであった。
一つ心残りは『侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館』を訪ねる事が出来なかったこと。





★長春(新京)
満州国時代の首都で新京と呼ばれていた街。そのため、当時のゆかりの施設が多数あった。
代表的なものが「偽満皇宮博物院」で、溥儀の宮廷府を博物館にしたものであった。
そして当時の関係資料、写真が多数展示されていたのであった。
緝煕楼は中に入ると階段も廊下も皇宮と言うには余りに狭く、部屋も大変質素であった。
観光客が多く、廊下ですれ違うのもたいへんなほどで、芥川龍之介が「夢魔」と形容した
あの巨大な北京の紫禁城からすれば、溥儀にとっては、まるで物置に住んでるみたいに
感じていたのではないであろうかと。





★瀋陽(奉天)
奉天は清朝の故地であり、郊外には北陵(歴代の皇帝陵墓)があった。
市内中央部中街に位置する瀋陽故宮は、清朝の初代皇帝、太祖ヌルハチ(努爾哈斉)と2代皇帝、
太宗ホンタイジ(皇太極)により建立された皇城であった。
北京の「故宮」の12分の1の大きさではあったが、500以上の部屋を持つ70以上の建物が
建ち並び、満州族の威厳と風格が感じられたのであった。
そして『大政殿』前での清代の舞踊劇を楽しんだのであった。
大都会の中にあったが、この一角だけ昔の中国らしい空間で、時間の流れもゆっくりに
なるような感覚を味わえたのであった。その他観光ルートには尽きるところがない瀋陽。







★本溪
本渓水洞(ほんけいすいどう)は遼寧省にある鍾乳洞で、内部のほぼ全体が池になっていて
電動船での見学であった。鍾乳洞の長さは2800メートルとのことであったが、内部の
ライトアップが私にやや興ざめなのであった。
私としては『金州観光』に変えて欲しかったのであったが。





★丹東
丹東は鴨緑江を隔てて朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と接する国境の街であった。
朝鮮族が約2万人居住していて、中朝貿易最大の物流拠点であり、その7割以上がここを
通過すると言われているとのことであった。
朝鮮戦争の際に国連軍の爆撃によって破壊され不通になっている鴨緑江に架かる
『鴨緑江断橋』を先端まで歩いて見学し、『鴨緑江』のクルージングも。
米朝首脳会談のため、金正恩朝鮮労働党委員長が鉄道で中国に向かって渡った
『中朝友誼大橋』など、メディアをにぎわせる話題に事欠かない場所だが、対岸に拡がる
北朝鮮の新義州の建物と丹東の高層ビル群の林立する姿を目の当たりにし、
国交があり友好国?そして最大の輸出入国である中国との北朝鮮の国境の現実で
ある事もこの旅行で知ったのであった。







★大連
遼東半島の南端にあり、「北海の真珠」とも呼ばれる港町。
黄海と渤海に面し、海を挟んで南側には山東半島がある。
坂道の多い街並みには洋館が立ち並び、エチゾチックな雰囲気が漂っていた。
19世紀末に帝政ロシアの租借地となり、1904年の日露戦争以降は日本の支配地となったのだ。
この時に造られた放射線状に並ぶ道路や大同広場(現中山広場)、大和ホテル(現大連賓館)などが
今も残っていたのであった。
大連は、ロシアが中国に進出した際、フランスのパリのような街にしようと開発した場所。
したがって、中国には珍しいハイカラな街並みが未だの残っていたのであった。
日露戦争で勝利した日本は、そのロシアの考え方を受け継ぎ、美しい街の建設に努めたのだと。
日露戦争については、司馬遼太郎の渾身の大著『坂の上の雲』が。
大連~旅順を訪ねた今、もう一度『坂の上の雲』を読み返して見たいと思っているのである。
そして、昨年、2018年5月7、8日に北朝鮮の金正恩委員長の2度目の訪中となった際に
中朝首脳会談が行われた『大连棒棰岛』も訪ねることが出来たのであった。







★旅順
日露戦争の戦跡=「聖地」?をめぐったのであった。激戦地となった203高地、ロシア軍の
堅固な要塞がそのまま残る東鶏冠山、乃木大将とステッセルの会見の舞台である水師営など
見どころは尽きなかったのであった。戦跡周辺の山の木々は、あえて伐採されて戦争当時の
殺伐とした雰囲気を感じるようにされているのではとも。
旅順の戦跡を巡ることによって、日露戦争で斃(たお)れた多くの兵士に思いを馳せ、
彼らの犠牲の上に現在の日本の発展と満洲の躍進があることを再確認したのであった。







そして今回の旅行で一番感じたことは、満洲国時代に日本人によって建てられた建造物が、
戦後74年経た現在でも数え切れないほど残っていて、その多くが今も重要な施設として
大切に使われ保存されていたこと。
中国人にとって見れば、ある意味では『負の遺産』であり、直ぐにでも破壊しても
不思議ではなかったと私は感じているのであるが。
あくまでも個人的な考え方であるが
一つの理由は、この『負の遺産』をナショナリズムの高揚につなげようとする側面があった事は
否めないであろう。つまり、植民地支配という負の歴史が刻まれた建造物を憎悪の感情から
短絡的に破壊してしまうのではなく、それらを敢えて残すことによって、その負の歴史を
乗り越えて、現在の中国の発展があるのだ、という意識を中国国民に植え付けようと
しているのではないかと。
そしてもう一つは、「歴史的・文化的価値の認識」の側面。
満州国時代の建造物の歴史的・文化的価値が中国人にも理解されたということではと。
首都・ 新京(現・長春)の官庁街に多く取り入れられた「帝冠様式」は、五族協和という
満洲国のイデオロギーを体現した建築様式であったが、戦後の国民党政府、さらには
中華人民共和国が成立した後も、同様の様式がそのまま「民族形式」という名の下で
採用され、中国ナショナリズムを体現する様式になったのではなかろうか。
特に近年では、中国の対外的な開放が進み、多くの観光客が期待できるようになったために、
こうした歴史的建造物を積極的に観光資源として活用し、ツーリストマネーに繋げようと
する動きが加速しているのも否定できないのではと。
そして我々の今回のツアーもこのツーリストマネーに繋がる動きの上にまさしく載っかって
いるのであった。



しかし一方で韓国では、日本による支配は恥ずべき歴史であり、日本の近代建築や敵産家屋は
否定性に満ちた「負の遺産」という認識があるため、破壊すべき、との声も多いとのことが
以前の報道で。
ちなみに日本統治時代の名残は、韓国では「日帝残滓(일제잔재、イルチェジャンジェ)」と
呼ばれていると。「残滓」は残りかすという意味。建物に限らず、言葉や文化も同様だと。
しかし一方では、京城府庁舎として使われていた建物は、2012年までソウル市庁舎として
使われていた。老朽化もあり、その後ろに建てられた新庁舎に機能が移ったが、
文化財に指定されるとともに今は図書館としてリニューアルを遂げ、新たな形で活用されて
いることも事実のようだが。

災害や戦争など死や苦しみと結びついた場所を旅する行為は「人類の悲しみの記憶を巡る旅」
であり、悲しみを経験した人々に思いを馳せ、悼み、祈る気持ちを抱き、これを子供たちに
伝えていくことも我々の義務であるとも考えているのである。

そして、私の部屋にあるテレビは今
『第2次世界大戦後に旧ソ連・シベリア地域に抑留されて亡くなった日本人の遺骨として
厚生労働省の派遣団が5年前に持ち帰った16人分の遺骨について、日本人のものでない
可能性が高いことを、厚生省は昨年から把握していたにもかかわらず公表していなかった
ことが7月29日、明らかになった。』とのニュースが。

最後に中国東北部の都市開発、新幹線網の発展のスピードに驚いたのであった。
今回訪れた都市は、日本以上にビルの高層化が進み、高速道路網の発展にも驚いたのであった。
大都市内での車の過剰に拠る渋滞は更に深刻化していた事は明らかであったが、都市を繋ぐ
高速網の発展のスピードは目を見張るものがあった。
そして新幹線網の発達にも驚いたのであった。利用した新幹線は、日本国内の新幹線と勘違い
するほどのスピードと安定感を有していたのであった。そして新幹線の駅舎は、空港ロビーと
これも勘違いするほどの造りになっていたのであった。
中国の新幹線技術の発展は、川崎重工業が東北新幹線「はやて」をベースに技術供与した
ものであると。中国側はこれを「独自開発した」と主張して国際特許出願にまで踏み切った
のだと。JR東日本と組んで新幹線の車輌(技術)を提供した川崎重工業の契約が杜撰で
「技術を盗んでください」といっているようなものだったことが、新幹線技術を中国に盗まれる
原因となったのだと。川崎重工業とJR東日本による中国への新幹線技術の売り込みに一貫して
反対していた人物は「中国に新幹線のような最先端技術を売ることは国を売るようなものだ」と
まで言って反対していたのだと。中国側は「技術供与を受ける際、巨額の特許料を支払っている。
合法的な使用は“盗作”にはあたらない」と反論しているのだと。「350kmの技術があるのに、
なぜ250kmの技術を盗まなければならないのか」とも。
日本国内の鉄道網の整備が飽和状態となる中、海外に活路を求めざるを得なかったのだとも。
高速鉄道に加え、地下鉄などの数多くの大型の都市鉄道計画を持つ巨大市場、中国に目がくらんだ
のだとの指摘も。侃々諤々(かんかんがくがく)の中で真相は如何に??



中国高速鉄道網。
中国の高速鉄道網は、運行開始から10年の間に猛烈なペースで拡大。営業距離は17年末時点で
約2万5,000キロと日本(約3,100キロ)の8倍に達し、世界一の高速鉄道大国に成長している
のだと。


           【https://www.nna.jp/news/show/1787778】より

そして最後に、このツアーは参加人数11名の少人数、男性4名、女性7名の賑やかな、いや
賑やかすぎる?そして当然ながら女性優位の旅であったのだ。
しかも平均年齢は70歳前後であろうか。
しかし、年齢的なことも在り、全員が「PUNCTUAL」そのものであった。
集合時間の10分前には既に全員が揃っているのが当たり前の中でのツアーであった。
しかし、ベテラン添乗員&現地添乗員が、匠の技で女性陣?をコントロールし、
途中からは、ツアー仲間同士が毒舌を交えた冗談や会話が出来る、楽しい旅となったのであった。
そして今回のベテラン添乗員への感謝と、また何処かで一緒に旅をしたいと思っているのである。



さて次回の海外の旅は何処へ?
ブルガリア、ルーマニアの5つの世界遺産を訪ねる旅であろうか?

                              ・・・​もどる​・・・

                  ・・・完・・・





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Last updated  2019.11.02 00:10:29
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Re:旧満州:中国・東北地方7名所大周遊8日間』の旅へ:8日目(6/26)                オジン0523 さん
満洲の旅のブログご苦労様でした。
今回の纏めは力が入っていますね。
今回、田舎へ帰り祖母の哈爾浜での生活を聞いたけど、情報はいまいちでした。
ただ、祖母は大手の証券会社に勤めていたようですね、
伯父、叔父さん、伯母も行っていたと (2019.08.14 11:58:00)


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