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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.08.31
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

『梶原稲荷神社 』を後にし第1京浜に向かって進む。



途中、急な下り階段が。



『犬坂』と書かれた柱が。
坂の頂上付近が急勾配なため、階段とスロープが設置されており、階段より下側は曲がり
くねった坂となっていた。
犬坂の由来は不明だが、俗称の「へびだんだん」は、その曲がりくねった様子から来ていると。
また、坂の頂上付近の急斜面地には元芝公園があり、この公園は遊戯施設中心の公園と
なっていた。



そして『東京消防庁 大井消防署』前を通過。



消防署の角を左折すると登坂が。
周辺案内板。



『木の芽の坂(このめのさか)』。



立会小学校の南側に位置し、かつての間部下総守下屋敷横通りで、反対側は崖になっており、
その奥に泉があったと。
若葉のころが美しかったのでこの名が付けられたと。
また坂の近くにある大井公園は、幕藩時代には仙台藩の下屋敷となっており、
校地には山内容堂の墓所があった。



鮫洲駅前の大井公園内にある『山内豊信(容堂)の墓』を訪ねる。



『旧・越前鯖江藩間部家下屋敷跡(元・陸奥仙台藩伊達家下屋敷跡)』。
第一京浜(国道15号)跨ぐ歩道橋の場所を左折し、大井公園を訪ねた。
坂道を挟んで大井公園は左右に分かれている。まず右側の公園に行く。



入口前に『旧・越前鯖江藩間部家(さばえまなべけ)下屋敷跡(元:陸奥仙台藩伊達家下屋敷跡)』と
書かれた品川区教育委員会案内板が立っていた。
この地より高台に向かう一帯には越前国(現・福井県)間部下総の守の下屋敷があった。
もともとは、万治元年(1658)に仙台藩伊達家が麻布(現・港区)下屋敷を返上して、
新たに大井村に拝領した下屋敷であった。この屋敷内には高尾太夫の器を埋めたという塚があり、
その上にはひと株の枝垂梅があったと伝えられている。
元文2年(1737)年、鯖江藩大崎屋敷と伊達家品川屋敷の一部を交換し、間部家の下屋敷となった。
その後、一部は再び伊達家の所有となったと。
安政2年(1855)頃の鯖江藩間部下総守詮勝(あきかつ)は5万石の家禄があり、
上屋敷は常盤橋御門内(現・千代田区大手町)にあったと。



そして左手には『山内豊信(やまうちとよしげ)(容堂)墓』の案内板。



左手の細い道を進むとアルミ製の大きな扉が。ここは午前9時から午後5時まで見学可能と。



更に階段を登る。



すると右側に墓石群が現われた。



山内豊信は土佐高知藩主で幕末から明治のはじめにかけて幕府と朝廷の斡旋に尽力したとある。
この場所が大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていたことからここに葬られたようである。
ここに下屋敷のあった仙台藩や鯖江藩と直接の関係のある人物では無いようである。
墓は大きな円墳に墓石を配した珍しい形となっていた。
『贈従一位山内豊信公之墓』と刻まれていた。
裏には「明治五年六月二十一日薨」と。



「山内豊信 は容堂と号した。文政十年(一八ニ七)に分家の山内豊著 の長子として生まれ、
嘉永元年(一八四八)に宗家を継いで第十五代の土佐国高知藩主となり、人材を登用して
藩政の刷新に努めた。
一方、国政についてもいろいろと論議し、策を建てて多難な幕末期の幕政に大きな影響を与えた。
進歩的で強力な言動は幕閣に恐れを抱かれ、一時、大井村の下屋敷に蟄居させられたが、
文久二年(一八六ニ)に再び政治の場に復し、大政奉還をはじめ幕府と朝廷の間の斡旋に
力を尽くした。明治元年(一八六八)に維新後の新政府の内国事務総長となったが、翌年引退し、
明治五年に四十五歳の若さで亡くなった。
遺言によって大井村の下総山(土佐山)と呼ばれていた現地に葬られた。」と。



手前の「島津常侯墓」は島津家から輿入れした13代豊熙の正室の墓。
裏面には「従四位下山内豊熈朝臣室 明治十三年十一月十六日逝」と。
これは、第13代土佐藩主山内豊熈公の正室・候姫(こうひめ)の墓石。
候姫は、薩摩藩主島津斉興公の娘だから、「嶋津常候之墓」とある。



山内家合祀の墓も。



侯爵山内豊範妻栄子之墓。
山内豊範公は第16代藩主で、土佐藩最後の藩主。



ここ品川の地に、山内豊信公と、坂本龍馬さんがいたとは…。
なかなか興味深い歴史散策となったのであった。
「山内豊信(容堂)墓」を参拝した後は鮫洲駅前の歩道橋を渡り、更に品川駅に向かって
進む。



『鮫洲八幡神社』を訪ねたが、この神社は​前回訪ねた​(☚リンク)事を思い出す。



日本橋まで10kmの表示。



『泊船寺』を訪ねた。



入口には『泊船禅寺』と。こちらは裏口のようであった。



『境内』



『本堂』。
山号の「天林山」の扁額が。
室町時代の永徳2年(1382)に開かれたといわれる。江戸時代の初期、1680年代に住職を勤めた
千巌宗億(せんがんそうおく)が俳人、松尾芭蕉と親交が深く、境内に牛耕庵
(泊船堂、芭蕉堂)を建てて芭蕉を迎えたと伝えられる。
文化年間(1804~18)には、俳人2世とかくさいさんど杜格斎山奴(白牛禅師)がこの寺に
住んだことから、たびたび句会が開かれるなど、芭蕉を慕う多くの俳人が集まるようになったと。



境内には『いかめしき音やあられの檜傘』の芭蕉の句碑が。



そしてこちらが『泊船禅寺』の山門。



『六地蔵』。



そして次に道路の反対側にある『海晏寺(かいあんじ)』を訪ねた。



建長3年(1251年)開山。本尊は聖観音菩薩、山号は補陀落山。
この寺は、鎌倉時代幕府5代執権北条時頼が開基となって宋から渡来した禅僧蘭渓道隆の
開山により曹洞宗の寺院として創建されたと伝えられる。
本尊の観音像は、品川沖でかかった鮫の腹から出た物と伝えられ、一帯の「鮫洲」という
地名の由来ともなっている。
かつては多くの末寺を有したが衰退し1593年(文禄2年)徳川家康が天叟慶存を招いて再興し、
現在の曹洞宗の寺院となった。江戸時代「御殿山の桜」とならび紅葉の名所として知られていたと。
寺の名称は、「世の中が安らかで穏やか」という意味の「四海安平(しかいあんぺい)」に依る。
岩倉具視(いわくらともみ)、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)など歴史的著名人の墓がある。
『本堂』。



『海晏禅寺』と書かれた扁額。



『江戸名所 品川 海晏寺 紅葉見』。

「品川 海晏寺」の画像検索結果

『鐘楼』。



大木の後ろには『寺務所』が。



『牢光堂(ろうこうどう)』。



堂内のモニュメントには、「倶會一處(くえいっしょ)」と「天地興我同根 萬物興我一體
(天地と我と同根、万物と我と一体)」の文字。
「倶会一処」とは、『仏説阿弥陀経』に出てくる「倶(とも)に一つの処(ところ)で
会(あ)う」というご文(もん)で、同じ阿弥陀さまのお浄土でまた共に会わせていただくと
いう意味。
「天地興我同根 萬物興我一體」は、この世界のあらゆる存在と自分とは根源が同じという
意味の禅語。



多くの立派な墓石が並ぶ。



俳人『白井鳥酔墓』案内版。
白井 鳥酔(1701-1769)・江戸時代中期の俳人。



『白井鳥酔墓』



『石碑・石仏群』
鐘楼脇には、たくさんの石碑・石仏などが並んでいた。



『出世弁財天』。



『富士山元大菩薩』。



その他、様々な石仏が。



『石碑・石仏群』の手前には「砲弾」も。
「砲弾」の隣には閻魔様も。



ここにも2個の砲弾が。
何故、この場所に?

​​

岩倉具視の墓がありますが、お参りは出来ないようであった。

                                  ・・・​その1​・・・に戻る

                 ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2020.05.01 14:18:52
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