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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.09.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

目黒川沿いを第1京浜に向けて歩きながら、旧東海道、荏原神社方面を振り返る。



第1京浜を青物横町駅方面に歩くと左手にあったのが『妙蓮寺』。
恵日山と号す。



『妙蓮寺 典籍』
「当寺の典籍は、文書6点を含む17点で、享保年中から明治に至る間(1720-1885)に
作成された写本、稿本(手書きした本)類である。
いずれも顕本法華宗の教義・門流・先師に関するもので、
特に典籍の「宮谷檀林林玄能歴代本山法主記」のように、現在では孤本となっているものもある。
また、文書の中には、創建(弘安8年=1285)以来から品川地域では大寺であった
同宗の天妙国寺に関する史料が含まれているのも興味深い。
これらは、顕本法華宗の宗門研究にとって大変貴重な史料である。」



『本堂』。
総本山妙満寺11世寂光院日遵上人が長享元年現在地に創建した。
2世中世院日存上人は、日遵上人の弟子で妙満寺14世に列せられ、「本亦対論用意抄」の著述を
残した学者でもあった。
3世心了院日泰上人は、日遵上人の弟子であり妙満寺16世である。千葉県千葉市中央区
浜野の本行寺を興し、酒井定隆を教化した。酒井定隆は、土気城主となった際に
領地七里四方を法華に改宗させた。そのことから日泰上人を称して七里法華弘通の開基と仰いだ。
25世日寛上人時代(寛政年間)に檀徒木倉屋細井又兵衛は弟子市兵衛と共に、
本堂並びに祖師堂山門を建立し、堂塔の整備につとめた。
現在の本堂は寛政年間建立の本堂を中に組入れた近代建築である。



『高木正年先生之像』。
日本初の全盲代議士。旧姓は細井。明治15年東京府会議員選挙に立候補して当選。
明治23年第1回総選挙に民権派として立候補して当選。過労がたたって明治29年失明するが、
地元民の圧倒的な支持を受けてその後も当選を重ね、熱心な普選論者として通算13回の当選を
果たした。婦人公民権の実現、盲人の生活・職業の保護などに尽力した。



こちらが妙蓮寺の『山門』。



第1京浜を渡り、『本光寺』を訪ねる。
山門の横には、大きな松の雪吊りが。



『山門』。



『木像日蓮聖人坐像(品川区指定文化財)』
「この日蓮聖人坐像は像の高さ68.5cmの堂々たる肖像彫刻である。
本像は像内に納入された文書および法華経8巻によって造立の経緯と開眼年代が明らかで、
京都上行寺の祖師像であったことが判る。このように造立の経緯のわかる彫刻は区内には
数少ない。また像自体については、面部が後世の補作となっている点こそ惜しまれるものの、
量感に満ちた体躰や袂先の表現、着衣に見られる緻密な唐草盛り上げ文様など中世の祖師像の
表現をよく伝える江戸時代初期の貴重な作品である。」



『本光寺五輪塔』。



『鐘楼』。
瓦葺きの重厚なもの。



『本堂』。
山号は経王山。往時は真言宗といわれ室町時代日什(にちじゅう)により法華宗に改宗し、
経王山本光寺と改称したという。徳川家光が本光寺を訪れ、本光寺18世・日啓と増上寺・
意伝が東海寺・沢庵宗彭(たくあんそうほう)の立会いのもと念仏無間の問答
(品川問答)をした。近年、アルゼンチンに流出していた上行寺の祖師像が本光寺へ遷座された。
本堂は昭和43年に建てられたコンクリート造りのもの。
庫裏は細工の細かい木造の建物が使われている。



『立正』と書かれた扁額。



『三重塔』。
裏手の墓地には、昭和60年に再建された三重の塔が建つ。



そして本光寺山門から少し奥へ入った所には、本光寺の塔頭であった清光寺がある。
「もと本光寺境内鬼子母神堂であったが、本多日生の雑乱勧請排他思想により鬼子母神を
厨子に封印し本光寺に還帰、そのお堂が清光寺の本堂となったと伝えられるが詳細は不明。
このほか本光寺住職の隠居所であったという説もある。」



『本堂』。
開創年代不明。開山不祥。三派合同以前は顕本法華宗。本堂は大正12年震災で倒壊し、
大正15年再建。本光寺の塔中寺院三ケ寺の一つ。



そして、その裏手に回り込むように入って行ったところに『大龍寺』があった。
その門前、なにやら道路に妙な段差が付いていて、これは何かの跡だなと思っていたら、
品川用水の跡であるという。
黄檗宗のお寺、『大龍寺』。



『星野東吉碑』。



この花の名は?



『本堂』。
黄檗宗の大龍寺は、瑞雲山と号します。大龍寺は、長徳寺を開山した覺阿が時宗寺院の
明王山東光院として寛正4年(1463)創建したといいます。
元禄16年(1703)黄檗宗の僧百泉己が衰微していた当寺を黄檗宗寺院の瑞龍山大龍寺と改め、
中国僧慧林を開山に迎えたと。
時宗時代に作られた閻魔堂は、その時、同じく時宗の長徳寺に移されたと。



この扁額の文字は?



『水子地蔵尊』の影も美しく。



『圓珠稲荷』



『不休地蔵尊』



『寺務所』。



『紙本墨画淡彩蘆葉達磨図、絹本着色羅漢図双幅、紙本墨画淡彩蘆葉達磨図』。
いずれも品川区指定有形文化財。



『木像釈迦如来及両脇侍像、伽藍神倚像』。
こちらも品川区指定有形文化財。



大龍寺を出て進むと煉瓦積みの塀が続いた。
これが、「京浜工業発祥之地」と云われる「工場跡の煉瓦塀」なのだと。



『小野稲荷大明神』。
幟には正一位小野稲荷大明神と書かれていた。



                              
                              ・・・​その4​・・・に戻る

                  ・・・​つづく​・・・






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Last updated  2020.05.01 14:20:29
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