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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.09.13
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カテゴリ:国内旅行
​​​​ーー​​​​​が(その6)の散策ルート。



『横浜地方裁判所』の前の『日本大通り』のT字路交差点から『横浜地方裁判所』を
振り返る。



『横浜三井物産ビル』の路地を中に入っていくと、反対側にあったのが
『横浜情報文化センター』の建物。



横浜情報文化センターは、日本新聞博物館と放送ライブラリーを中核として、多目的ホールや
オフィススペースを備えた複合施設である。オフィススペースには情報関連企業が入居している。



旧・横浜商工奨励館(昭和4年に関東大震災により打撃を受けた市内商工業界の復興事業
として建築)を再利用した4階建ての旧館部分と新たに造られた12階建ての新館部分から
構成される。旧館部分は、横浜らしい建築を創り出している近代建築として平成11年2月に
「横浜市認定歴史的建造物」に認定されている。



内部には『日本新聞博物館』、『放送ライブラリー』も入っているようであった。



『新聞少年の像』。



戦後の経済発展とともにその歴史を刻んできた新聞配達。
その一翼を担っていたのが新聞少年たち。
日本新聞博物館の「新聞少年の像」は、日本新聞販売協会創立50周年を記念して、
2004年(平成16年)に寄贈されたものであると。



こちらが、『日本大通り』側の正面入口であろうか。



『大さん橋入口交差点』にあったのが『旧横浜市外電話局』。



「旧横浜市外電話局は、昭和4(1929)年に横浜中央電話局として建設されました。
設計をおこなったのは横浜出身の逓信省技師中山広吉で外壁には濃茶色のタイルを全面に貼り、
装飾を控えた堅実なデザインでありながら、2階から4階をまとめる柱型や頂部の石のコー二スに
古典主義様式の細部を残すなど、昭和戦前期の逓信省建築特有の意匠が認められます。
各階の高さは異なっており、1階と3階は高くそれぞれ営業室、交換室として使用されました。
また、2階には局長室、技術官室などの業務スペースが、4階には女子職員のための休息室や食堂、
宿直室が設けられていました。その後、市外電話局及びNTT横浜情報案内センターの時代を
経た後、NTTの移転を機会に、横浜の施設として活用されることとなり、本町通り側および
大桟橋通り側の外壁を創建当時のまま残して、平成15年(2003)年、新しく生まれ変わりました。」



シックで落ち着いた風格が、横浜の町並みに映えていたのであった。



黒の扉も重層感が。



『大さん橋入口交差点』の角、『旧横浜市外電話局』の対角線上にあったのが
『ホテルコンチネンタル横浜』



『本町通り』を県庁方面に戻ると、『横浜港郵便局』の建物の壁に展示されていた絵画。
2015年(平成27年)の神奈川県版年賀はがきデザイン。
『伝えたい想いがそこにある』『手紙って、いいね!』の文字が上に。



再び『横浜地方検察庁』の建物が『港湾郵便局交差点』の向かいに。



交差点の渡ると目の前にあったのが
『神奈川運上所跡』。



安政5(1858)年、米英仏露蘭5か国との間に修好通商条約が結ばれ、神奈川宿の名寺には
各国領事館や公使館が開設されました。翌年、貿易や外交業務、外国人の居留地整備などを
総合的に行う機関として、神奈川宿対岸の横浜村、現在の神奈川県庁あたりに設けられたのが
運上所です。運上とは税金のことで、明治5(1872)年に横浜税関に改められ、今に至ります。



『日本大通り』の銀杏並木の歩道を神奈川県庁方面に向かって進む。



『神奈川県庁』。
『ウィキペディア(Wikipedia)』によると
関東大震災で焼失した旧県庁舎の再建にあたり、公募で当選した小尾嘉郎の案を基に、
神奈川県内務部(成富又三)により設計され、建築顧問として佐野利器が迎えられた。
昭和初期に流行した帝冠様式が取り入れられている。1926年(大正15年)12月4日に
地鎮祭が執行されたのち、1927年(昭和2年)1月15日より建設に着手され、建築工事費
約275万円を費やして1928年(昭和3年)10月31日に完成した。
塔屋は「キングの塔」として親しまれており、横浜税関本関庁舎(クイーンの塔)、
横浜市開港記念会館(ジャックの塔)とともに「横浜三塔」の一つに数えられる。
かつてこの塔は「修養塔」とよばれており、最上階に横浜の総鎮守とされる
伊勢山皇大神宮の分霊が祀られていた。
また歴史的建造物として、1996年(平成8年)に登録有形文化財(建造物)に登録された。



大桟橋通と日本大通にはさまれた場所にある『横浜開港資料館』。
ここは、もともと『英国総領事館』として、1931(昭和6)年に建てられた。
総領事館としての横浜の業務は1972年に停止され、それを利用して1981年に
横浜開港資料館として開館したと。
英国工務省が設計し、資材すべてを英国から取り寄せて建築したもの。
鉄筋コンクリート造の3階建てで、一部地階が付いている。
屋根は銅板葺で、石造の外観を持っている古典様式の建物。



『横浜開港資料館』入口前。



『横浜開港160周年記念 開港前後の横浜 村びとが見た1858~1860』が開催中。



『開港前後の横浜』のポスター。



「今からちょうど160年前のこと。江戸幕府は、横浜村という海に面した村を開発して
町と波止場をつくり、外国人と貿易をはじめました。
村に住んでいた「和兵衛」と「おはま」は、開港前後(おおよそ1858~1860年)の
横浜の移り変わりをつぶさに見聞します。ふたりはいったいどんな光景を見たのでしょうか? 
当館が保管する浮世絵、地図、古文書のほか、新たに見出された歴史資料もまじえながら、
ふたりの視点から横浜開港をわかりやすく紹介します。」と。



『脇玄関』。
隣にある玉楠の木の下で日米和親条約が結ばれたという土地に建つこの建物は、昭和47年まで
イギリス領事館として使われていた。設計も英国工務省らしく18世紀のジョージアンスタイルの
都市邸宅をほうふつとさせるデザインで、玄関周りが特徴的。



こちらが正門玄関なのであろう。
左右に立つ大きな柱はキャピタル(柱上部)にアカンサス(葉薊/ハアザミ)の葉と蔓が
彫刻されているコリント式で、その奥に玄関ドア、2階窓、そして3階の半円窓までを
吹き抜けとした印象的なデザイン。



そして『開港広場前交差点』に出る。
正面に『海洋会館(旧大倉商事横浜出張所)』。
もとは大倉商事の出張所として建てられたもの。
右隣にある『横浜貿易会館』と設計・施工・施工時期も同じ兄弟ビル。
特に特徴のない典型的なスタイルの建物ですが、
現在は解体されてしまった「キッコーマンビル」を含めて、
連続する四棟のスクラッチタイルのビルディングのひとつとして
「港町ヨコハマ」の雰囲気を印象づける、いい味を醸し出している建物。



『横浜貿易会館』
『横浜貿易会館』は、横浜における貿易振興の為に設立された”横浜貿易協会”の
事務所ビルとして、関東大震災復興期の昭和4年(1929)に竣工した。
設計・施工は大倉土木で、外壁のスクラッチタイルが特徴的。
隣に現在も残る
『海洋会館(旧大倉商事横浜出張所)』と同時に同じ設計・施工で建てられた。



『昭和ビル(旧カスタム・ブローカー・ビルディング)』。



海岸通りに連なるスクラッチタイルの外壁が特徴的な戦前期のモダンビル群のうち、
西端の象の鼻パーク入口脇に立つ「昭和ビル」。
「昭和ビル」は関東大震災後の昭和6年(1931)に「カスタム・ブローカー・ビル」として竣工した。
多くの横文字の店が並び、米国の田舎の居酒屋の如し。



一番手前にあったのが『Restraunt AQUA 0LIVINE』。



漁港直送の魚介を生かした魅惑的で色鮮やかな料理 明るく温かな雰囲気のフレンチレストラン。
店内は2階にあるため窓からは海が見え、とても落ち着くレストランであると。



そして『象の鼻パーク』へ再び。



『横浜税関(神奈川運上所)』の案内板。
「安政6年(1859)、幕府は開港のために神奈川奉行所を設けました。その下で、通商事務の
ほか、船の出入港手続き、洋銀両替、各国領事との交渉や違法行為の取締りなど幅広い業務を
取り扱ったのが、神奈川運上所でした。
運上所の庁舎は波止場の中央正面に建てられていました。
明治4年(1871)には運上所業務のうち通商事務などが大蔵省の所管をされ、明治5年(1872)
には全国の運上所の名称が「税関」に統一されました。
明治6年(1873)、「横浜税関」となってからの初代本庁舎が初代運上所の建屋があった
位置よりやや海側に石造3階建てで建設され、明治16年(1883)にはこの庁舎は神奈川県に
譲渡されました。明治18年(1885)になると、中央に「塔を配した煉瓦造2階建の
2代目本庁舎が建設されました。
大正12年(1923)に震災の復興事業の一つとして建設されたのが現在の3代目本庁舎です。
この庁舎にそびえる高さ51mのエキゾチックな塔は一般に「クイーンの塔」と呼ばれ、
今も広く親しまれています。
右写真上より
初代横浜税関本庁舎 「横浜税関」 横浜開港資料館所蔵
2代目横浜税関本庁舎 「横浜税関庁舎」 横浜開港資料館所蔵
3代目横浜税関本庁舎 「横浜税関」 横浜都市発展記念館所蔵
歴代の横浜税関本庁舎の位置図」



『「海の日」の由来』案内板。
「海の日は、1876年(明治9年)、明治天皇の東北地方巡幸の際、それまでの軍艦ではなく
灯台視察船「明治丸」によって航海をし、7月20日に横浜港(象の鼻地区)に入港して、
横浜御用邸伊勢山離宮へ帰着したことにちなみ、制定された。」
しかし、2003年(平成15年)の祝日法改正(ハッピーマンデー制度)により、
7月の第3月曜日となった。
なお、2020年(令和2年)は東京五輪・パラリンピック特措法により、東京オリンピックの
開会式の前日に当たる7月23日(木曜日)に変更されるのだ。



『象の鼻パーク』案内板。
1854年3月31日にアメリカのペリー提督が2度目の来日で、上陸した場所。
安政6年(1859)日米修好通商条約により、開港場に指定される。
横浜で最初の波止場。
象の鼻パークには歴史解説板があちこちにあり、歴史を物語っていた。



『象の鼻地区の変遷』案内板。
安政5年(1858年)に米、蘭、露、英、仏と修好通商条約が結ばれ、翌年横浜港が開港すると、
港には東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の二つの波止場が作られました。
その東波止場が時代とともに少しずつ形を変え、現在の象の鼻の原型となりました。
現在の象の鼻は関東大震災後に復旧された形が元になっています。





『港を支えた艀荷役』案内板。



そして『波止場会館』。
波止場会館は、みなとみらい線日本大通り駅から徒歩5分、
ベイブリッジや大桟橋ふ頭など横浜港をのぞみ、象の鼻パークに隣接する
好立地な環境の会議室。



『横浜港港湾労働者供養塔』。
供養塔は横浜港で不慮の事故で亡くなった港湾労働者を供養するため1974年に山下ふ頭に設置。
昨年5月に開港150周年を記念して横浜港発祥の地である象の鼻パークに移転した。
現在まで2830柱近くが合祀(ごうし)されているとのこと。



『藤木幸夫』の文字が。
何か心当たりがあると思ったが、実は今回の、横浜市の林文子市長がカジノを含む
統合型リゾート施設(IR)の誘致を正式表明した事に対して、噛み付いていた
『ハマのドン』なのであった。



『RESTAURANT SCANDIA』。
横浜を代表する山下公園からほど近くの海岸通り、大桟橋の入り口の角に位置するひときわ
風格ある石造りの建物がその「スカンディヤ」。
竣工は1929年。もともとは、進駐軍に接収されていた横浜貿易ビル。
1階はカジュアルな「スカンディヤ ガーデン」、2階が、瀟洒な空間が広がる
北欧料理レストラン「レストラン スカンディヤ」。
古くは横浜港を利用した外国人らで賑わい、ヒッチコック監督や美空ひばりも訪れたのだ。
なんでも、昔の従業員は全員英語が話せたとか。
今でも有名人がお忍びで来訪することがあるのだと。



私も大学時代、研究室の先輩に連れられて何度か訪ねて食事をご馳走になった
懐かしい店なのである。




                              ・・・​もどる​・・・
                

                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2019.09.13 00:00:18
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