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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.09.27
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カテゴリ:国内旅行
​​​​ーー​​​​​が(その13)の散策ルート。


『山手十番館 / 仏レストラン&カフェ』。
横浜 外人墓地を臨む山手の丘にある異国情緒あふれる小さな洋館。
昭和42年(1967年)明治100年を記念して建てられた「山手十番館」。
向かいには日本で初めてビールを醸造したウィリアム・コープランドが眠る外国人墓地があり。



結婚式も出来るようであった。



横の庭には緑豊かな西洋庭園に客席を設け、ガーデンBBQと共に歴史を感じながら
ビールを味わえるビアガーデンが。



そしてその隣にあったのが『山手資料館』。
山手資料館の前庭はバラ園として設えられていたが、バラはほぼ終わっていた。



山手資料館は、明治42年に建造された、横浜市内に残る唯一の「和洋併設型住宅」木造西洋館。
館内には、チャールズ・ワーグマンのポンチ絵や、ジェラールの西洋瓦等、文明 開化当時を
しのばせる展示品など、居留地だった頃から関東大震災までの横浜や山手に関する資料を展示。
横浜市の歴史的建造物に指定されている。



牧場主として財を成した中澤兼吉の和洋併設住宅のうち、洋館部分だけを
1977年(昭和52年)に移設したとのこと。
この移設には人気レストラン「山手十番館」のオーナー、故・本多正道が携わっており、
この山手資料館は山手十番館の敷地内にある。




『山手資料館』
建物は明治期に建てられたもので、明治期の木造西洋建築物としては横浜に遺された唯一の
ものとして知られる。内部には横浜開港期を偲ぶ様々な資料が展示されている。



建物の脇には『クリーンベンチとガス燈』が。



明治初年、米国よりグリーンベンチが横浜共立学園に送られ「伝道のイス」と呼んで
親しまれました。
ガス灯は明治5年、横浜・馬車道に初めて点灯されました。
庭園内の2基のガス灯は当時のガス灯を復元したものです。



ガス灯には灯が灯っていた。



山手本通り側から見る。



『横浜山手聖公会』。
横浜山手聖公会は、文久3年(1863年)に横浜に居住する英米人のために設立された、
開国3番目のキリスト教会。
創建当時の教会堂は現在の中華街近くにあったが、明治34年(1901年)に現在地に
赤レンガ造りの聖堂が建てられた。



『横浜山手聖公会』と書かれたプレート。



この聖堂は関東大震災で失われ、現在の建物は、昭和6年(1931年)にアメリカ人建築家の
モーガン氏の設計で、大谷石造りの聖堂として再建されたものが母体となっていると。
2005年1月に放火により大きな損傷を受けたが、同年11月に設計当時の形で美しく蘇った。
横浜市認定歴史的建造物に指定。



塔の各面に3つづつ並ぶ窓枠は大谷石を蝋燭形にしてある。



『自働電話』。
エリスマン邸から山手十番館に行く途中にある、灯台のようなレトロな電話ボックス。



電話100年を記念して、1990年に設置された公衆電話。
公衆電話が初めて設置された当時は、『自働電話』と呼ばれていたと。



『山手234番館』。
192391日に発生した関東大震災では横浜の多くの家屋が失われ、山手も瓦礫の山と化した。
駐留していた外国人は神戸市や上海など他の都市に移り住む者が相次ぎ、震災前に7650人いた
外国人は、震災の翌年には2156人まで減少した。横浜市では外国人に市外から戻ってきて
もらうべく、復興事業として山手や根岸に市営住宅を建設した。山手234番館も、市営ではなく
民間の事業であるものの、こうした外国人向けの集合住宅の一つである。



竣工は1927年で、第二次世界大戦後の占領軍による接収を経て、1980年ごろまで外国人向け
アパートメントとして使用された。1989年に、景観の保全を目的として横浜市が建物を取得。
1997年より保全改修工事が行われ、1999年より一般公開されている。
1999年には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。



『えの木てい  本店』。
山手外国人墓地を過ぎたところにある「えの木てい」。
昭和2年(1927)日本人建築家 朝香吉蔵氏が設計した英国式洋館で、アメリカ人検事が暮らしていた。
昭和45年(1970)現オーナーのご両親が自宅用として購入。
西洋館のリビングを、そのまま喫茶店として利用しています。
木製の上げ下げ窓や暖炉をそのまま残したリビングは、当時の面影を残しています。



看板商品はチェリーサンド、店舗自慢のテラス席からは目の前に広がるローズガーデンに
咲き並ぶ様々な薔薇を眺めながら優雅なティータイムを楽しめると。



『エリスマン邸』。
スイス人貿易商フリッツ・エリスマンの邸宅として、1925年から1926年にかけて、
山手127番地(現在地より南東に400mほどの位置)に建設された。
設計はチェコ出身の建築家アントニン・レーモンド。エリスマンの没後は数度所有者が
変更となり、第二次世界大戦の被害を免れたものの1982年にマンション建設のため解体された。
歴史的価値を見出した横浜市は部材を買い取り、1990年に元町公園内に移築・復元した。
2001年には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。



地上2階・地下1階建の木造建築で、施工は清水組。1階は応接間や台所、居間兼食堂、
2階は主に寝室や浴室として使われていた。移築前は和館が併設されていたが、
部材が残っておらず復元されなかった。
屋根の勾配を緩くし、1階と2階の間に庇を設け、水平性を強調する意匠とした。
外壁は、1階は垂直方向の堅羽目板張り、2階は水平方向の下見板張りとして変化を付けている。
2階の2か所に壁面を後退させてバルコニーを設け、寄棟造の屋根を雁行させて単調な直方体と
することを避けた。窓など開口部は大きくとられ、青緑色の鎧戸が設えられている。
全館にスチーム暖房が採用されていたが、施主のリクエストにより応接間に暖炉が設けられた。
エリスマンの妻が日本人であったことから、浴室とトイレはそれぞれ独立した造りになっている。



建物の横の塀には、『エリスマン邸』の案内板が。



『横浜雙葉中学高等学校』校門。



この建物は重厚感溢れるものだが、山手の雰囲気とはちょっと違う?



エンタシスの柱が至るところに。



『ベーリック・ホール』への入口門。



『ベーリック・ホール』。
イギリス人貿易商バートラム・ロバート・ベーリックの邸宅として、1930年に建設された。
設計はアメリカ出身の建築家・H・モーガンで、山手111番館と並び彼の住宅建築の代表作の一つ。
ベーリックの没後はカトリック・マリア会に寄贈され、同会の運営するセント・ジョセフ・
インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用された。「ベーリック・ホール」の名称は、
マリア会の命名によるものである。2000年に同校が閉校となったのちは横浜市が敷地を取得し、
建物も市に寄贈された。元町公園の一部として整備が行われ、2002年より一般公開されている。
2001年には横浜市認定歴史的建造物に選定されている。



地上2階・地下1階建で、地下は鉄筋コンクリート構造、地上部分は木造である。
山手地区に現存する、戦前からある住宅としては最大規模。
スパニッシュ様式で、クリーム色の壁やオレンジ色のスパニッシュ瓦、アーチ型の玄関ポーチ、
クワットレフォイル(英語版)と呼ばれる窓の様式などに特徴が現れている。
1階は応接間や食堂、居間とこれに続くパームルームなど、2階は主に寝室として使われていた。
食堂と居間には暖炉、横浜港を見渡せるよう北側に作られたパームルームには獅子頭の壁泉が
設えられている。
2階は主人・婦人・子息と来客用の寝室、それぞれに附属する浴室が設けられている。
3連アーチや煙突が印象的な外観と、和洋様々な手法を取り混ぜたインテリアは、
建築学的にもたいへん大きな意味を持っているのだと。



『横浜ユニオン教会』。
185910月以来、ジェームス・カーティス・ヘボンが神奈川の成仏寺で合同礼拝を行っていた。
横浜で1866年以来合同礼拝が行われ、18719月から18728月の間に教会として組織された。
最初、山手町のアメリカン・ミッション・ホームで行い、次にゲイティ座で行われた。
1875年から日曜日の午後に日本の教会を借りて行った。
1888年に最初の専任牧師の聖公会の祭司ジョージ・ミーチャムが就任する。
1889年から、1907年までユージーン・ブースが奉仕をする。
1910年山手町で礼拝堂を建設するが、1923年に関東大震災で倒壊する。現在と同じ場所の、
山手町66に再建する。
太平洋戦争中は米軍の空襲により完全に破壊される。戦後、進駐軍のチャペル・センターにより
礼拝出席者が減少した。1960年代にフェリス女学院礼拝堂で行われた合同礼拝により
横浜ユニオン・チャーチは再建された。



以前は大きな駐車場で会った場所は更地に。なにが建つのであろうか?



『代官坂上』
「YAMATE LINER」こと神奈中11系統は、横浜市営バスから引き継いだ路線である。



茶色とクリーム色のカラーリングを纏い「YAMATE LINER」のロゴが付いた
いつもの神奈中バスとは異なる専用塗装車。



『末日聖徒イエス・キリスト教会 山手ワード』
大正10年(1921年)に建設され、横浜市指定文化財でもある旧露亜銀行横浜支店の建物
(イギリスの建築家バーナード・M・ワードの設計)をリニューアルし、平成23年(2011年)
9月に、生演奏の音楽やオルゴールセレモニーなどの音楽の演出ができる結婚式場
「la banque du LoA(ラ・バンク・ド・ロア)」としてオープンしている。



1830年アメリカ合衆国にてジョセフ・ スミス・ジュニアによって立ち上げられたキリスト教系の
新宗教であり、通称モルモン教といわれる。山下町・音の教会と詠っている。



末日聖徒イエス・キリスト教会の塔。



記念レリーフの銘文。



『日本郵船山手クラブ』。



日本郵船株式会社は、1885年9月29日に創立された船会社である。
三菱財閥の中核企業であり、三菱重工とともに三菱グループの源流企業である。
1893年12月15日に株式会社となった。日本の3大海運会社の一つであり、
戦後の株式特定銘柄12社の一つでもある名門企業。



                              ・・・​もどる​・・・

                   ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2019.09.27 11:04:40
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