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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.10.01
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カテゴリ:国内旅行
先程横から見えた沢に架かる石橋を渡って更に進む。



緑に覆われた『十三重石塔』。



『聴秋閣(ちょうしゅうかく、旧二条城移築三笠閣)』も重要文化財。



緑のモミジ葉が陽光に輝く。



「『聴秋閣』は元和9年(1623)三代将軍徳川家光が上洛した際に、佐久間将監に命じて
京都二条城内に建立されました。当初は三笠閣という名前でした。
その後これを乳母春日局に賜り、局はそれを夫の稲葉候の江戸邸内に移しましたが、
明治14年(1881)には更に牛込若松町の二条公邸に移築、大正11年、
三溪園に移築されました。」



『聴秋閣』は内苑でも一番奥の渓流沿いに建てられ、山間の中にひっそりと現れる洒脱な
楼閣といった趣きで、新緑や紅葉の頃には色づく木々とあいまって
特に秀麗な姿を見せてくれると。



緑のモミジ葉で覆われた楼を見上げて。



外観は小さな楼閣を乗せた二層構造で、正面から見た時には中央上部に楼が突き上がり下層が
横に広がっていますが、横から見た時には上下とも同じ幅になっています。さらに楼の下の
主室を中心に左右非対称の異なる内部構成になっており、それに合わせて屋根の構成も
変化をつけるなど、その見る位置によって様々な顔を見せる複雑妙味な建造物です。



『春草廬(しゅんそうろ)』。



『春草廬』は三畳台目の茶室で、後掲の月華殿と共に宇治三室戸寺の金蔵院にあり、当時は
9つの窓があることから、九窓亭と呼ばれていました。
有楽斎は利休十哲(りきゅうじってつ)のひとりとされる茶人だ。



躍り口脇の刀掛けの踏石は稲葉と名づけ、岐阜県稲葉山より持ち来たもの、庭前の手洗石は
京都嵯峨天竜寺にあったもので、夢窓国師が使用されたものだそうです。



ガラス戸に映った景色も見事。



春草廬からの小道の傍らには苔むした石棺などが置かれ、ここは特に奈良の風情が色濃い場所だ。



『石棺』。
奈良は海竜寺付近から出土した5~6世紀の石棺。



それより100年以上も古い石棺の蓋
古代に思いを寄せつつ進んだ先に待つ、窓が多く優しい華やかさを感じさせる小さな空間。



更に緑の散策路を進む。



『蓮華院』。
もとは、現在の春草廬の位置にありましたが、 第二次世界大戦後に竹林にある茶室という
構想のもとに現在の位置へ再築されました。
二畳中板(にじょうなかいた)の小間と六畳の広間、土間からなっています。



土間の中央にある太い円柱と、その脇の壁にはめ込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の
古材と伝えられています。 蓮華院という名は、三溪が茶会を催した際に広間の琵琶床に、
奈良東大寺三月堂の不空羂索観音が手に持っていた 蓮華を飾ったことに由来しています。



『横笛庵』
草庵風の茶亭で素朴ながら風趣のある建物です。
建物内に横笛の像が安置されていたことから横笛庵と称されています。
横笛の像は、戦争の際に失われました。



横笛は、高倉天皇の中宮 建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と
悲恋に終わった女性です。 横笛が、他の人々の恋が実ることを願って、時頼から寄せられた
千束の恋文で作った己の像は、 「縁結びの像」として知られていました。
(2人の悲恋話については、高山樗牛による"滝口入道"という小説が有名です。)



『海岸門』を潜る。
こちらも御門と同様に京都西方寺から移築されたものである。



魔除けの桃瓦が写真左に。



鬼瓦は阿吽でこちらは阿形。



『松風閣展望台』に向かって進む。



狭い山道。



『三溪園 昔むかし 9 御谷館』。
「御谷館は、もと鎌倉・鶴岡八幡宮境内に併存していた神宮寺の僧房であったといわれる建物。
明治41(1908)年に移築され、来園者の休憩用にあてられたようであるが、詳しくは不明。
大正4(1915)年に焼失した。」

『三溪園 昔むかし 10 造成中の内苑(大正10年頃)』。
「当時一般に公開されていたのは、現在の外苑部分で、内苑は原家のプライベート・エリアで
あった。写真では公開部分との境に仮説の塀が設けられ、その向こうに資材置き場であろうか、
簡易な建物が見える。土塁を経て中央の臨春閣から上方にのびる瓦屋根は、源 頼朝の木像
(現在は東京国立博物館所蔵・重要文化財)を安置した源公堂と、月華殿までの石段上に
設けられた回廊の姿である。いずれも戦時中に取り払われ、現存しない。」



秋にはオオスズメバチがいそうな坂道。



岩がゴロゴロした場所には、木製階段が。



『松風閣跡地』。



『三溪園 昔むかし 12 松風閣』。
「初代・善三郎が別荘として明治20年ごろに築造した建物で、その名称は伊藤博文に
よるものである。写真はレンガ造の玄関部分で、窓などに中国風の意匠が見られる。
断崖に立ち東京湾の絶景を望むことができる松風閣は、三溪の代となり本邸・鶴翔閣が
建てられると、重要な客をもてなす、いわゆるゲストハウスとして増築がなされた。
大正5(1916)年には、アジア人初のノーベル賞受賞者であったインドの詩人・思想家の
ラビンドラナート・タゴールがアメリカへの講演旅行の途中、ここに数ヶ月間滞在し、
詩「さまよえる鳥」をのこしている。また、その一室”観山の間”には三渓が支援した中でも
最も好んだ日本画家下村観山が描いた「四季草花図」の障壁画があったが、大正12(1923)年の
関東大震災により建物とともに消失した。」



そして松風閣跡を南側に登ると展望台に着く(展望台に松風閣の名が残る)。



階段を上り展望台へ。



展望台から東京湾の豊浦町、本牧埠頭の景色を楽しむ。
『JXTGエネルギー(株) 根岸製油所』。



南本牧ふ頭のコンテナクレーンが並んでいた。
手前には『首都高速湾岸線』が。



『三溪園 昔むかし 11 聚星軒(じゅせいけん)』
竹を編みこんだ壁など、中国風の意匠が特徴の建物。明治20(1827)年ごろ、松風閣とともに
原家初代・善三郎が築造したもののようであるが、大正12(1923)年の関東大震災により倒壊し、
現存しない。
周辺には、中国で産する太湖石の石組みなどが今も残り、善三郎の中国趣味の一端がかいま見える。



展望台を後にして、尾根道を下る。大明竹が覆いかぶさるような径を抜けると、樹々の合間から
三重塔が見えて来た。三溪園のシンボルともいえる建物。
そのちょっと手前、径の左側に石の仏像が置かれていた。名付けて『出世観音』と呼ばれていると。



三溪園あるいは三溪と縁の深かった文化人たちの多くが、文化勲章の栄誉を受けているという
事実から、なんとなく呼ばれるようになって来たようであった。



そして『重文 旧燈明寺三重塔』



三溪園のシンボルのように中央の山上に建つ三重塔は、京都府相楽郡加茂町燈明寺にあったものを、
大正3年3月に移築したもの。1485年の建立で、関東地方では最古の塔であると同時に、
移築されたものとはいえ、横浜市最古の建築物。



塔の先端までの高さは24mで、全体が安定感のある優美な姿をしていると評価されています。
勿論、国の重要文化財に指定されている。
建築様式としては、典型的な和様と呼ばれる形式で、室町時代の特徴をよく備えていると。
各層に欄干付の廻縁が設けられ、斗供を始め細部も室町のしきたりに添っている。
現在関東地区に所在する木造の塔としては最古のものになるのだと。



三溪園の『大池』が下方に見えた。



『旧燈明寺三重塔』からの本牧の町並みの眺め。
ここ三重塔の丘から大池越しに眺めると、住宅地の先には横浜港のクレーンの先端が
ずらりと揃って見え、さらにベイブリッジの橋塔がかすかに望むことが出来たのであった。



三重塔をズームで見上げる。



ところで、この塔の心柱ですが、一層目の屋根裏から立ちあがっていて、一層目は仏像が
置かれる空間になっているのだと。実はこの心柱ですが、地面に接した心礎から立ちあがって
いる場合と、ここの塔のように一層目の天井から立ちあがっている場合があると。
これは時代の変化によるもので、古くからの塔は前者のように地面から立ちあがっているのだが、
後者の例は、平安末期以降見られるようになった構法であると。


       【https://ameblo.jp/sankei-mietaro/entry-12202404368.html】より


『初音茶屋(はつねぢゃや)』。



その昔『初音茶屋』では、来園する人に麦茶を振る舞う、「麦茶接待」が行われていた。
「ひとはかり浮く香煎や白湯の秋」と、その様子を詠んだのが、芥川龍之介。



『三溪園 昔むかし 15 初音茶屋』
「開園当時、三渓園には誰もが自由に出入りできたばかりでなく、無料の湯茶サービスもあった。
その場所の一つがこの初音茶屋である。中央の炉に煤竹の自在かぎで吊るされた真っ黒な
鉄瓶には絶えず湯がたぎり、白湯に米・小麦粉を煎って香ばしくした香煎を入れたものや
温かい麦茶がふるまわれたという。大正4(1915)年三溪園を訪れた芥川龍之介は、
友人であった三溪の長男への手紙にこの湯茶接待の印象を書き、
”ひとはかり浮く香煎や白湯の秋”という句を詠んで締めくくっている。
また、別の記録では、屋根を葛が一面に這いまわりその蔓の端が六方の軒に垂れ下がっていたと
あるが、写真はまさにその風情である。」



更に進むと梅林・『臥竜梅(がりょうばい)』が拡がっていた。
三溪園は古くから梅の名所としても有名で2月から3月にかけて、約600本ある白梅・紅梅などが
見事な花を咲かせる。



竜が地を這うような枝振りの「臥竜梅」、花弁の根元にある萼が緑の
「緑萼梅(りょくがくばい)」など、珍しい梅も見ることが出来ると。



                              
                              ・・・​もどる​・・・
                   
                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2019.10.01 13:06:32
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