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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.10.02
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カテゴリ:国内旅行
『寒霞橋(かんかきょう)』が前方に。



『寒霞橋』



寒霞橋を渡るとすぐに現れた建物が『横笛庵(よこぶえあん)』。



横笛は、高倉天皇の中宮 建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に
終わった女性です。 横笛が、他の人々の恋が実ることを願って、時頼から寄せられた
千束の恋文で作った己の像は、 「縁結びの像」として知られていました。
(2人の悲恋話については、高山樗牛による"滝口入道"という小説が有名です。)



『三溪園 昔むかし 16 安置されていた横笛の像』
「横笛は今から800年程前、平 清盛の娘・建礼門院徳子(高倉天皇の中宮)に仕えた女官で、
平家物語には平 重盛の従者・斉藤時頼(滝口入道)との悲恋が語られている。
この像はその横笛が滝口入道から送られた恋文をもって作ったと伝えられたが、現存しない。
なお、横笛が出家後に住んだといわれる奈良・法華寺にも同様の像が伝わっているが、
関わりなどは不明である。」



『三溪園 昔むかし 17 寒霞橋と横笛庵』。
「奥に見える茅葺きの建物は、今ではもう失われた待春軒。手前の風景は現在もほぼ変わって
いないが、横笛庵の屋根の頭頂部には植物を植え付けた”芝棟”と呼ばれるしゃれた演出が
施されている。芝棟は、山梨県から関東・東北地方にかけてみられるもので、三溪園では
アヤメ科のイチハツなどを植えていたようである。
横笛庵は、落飾した(尼姿の)横笛像を安置した詫びた草庵風の建物だが、芝棟にイチハツの花が
咲く初夏の一時期、あたかも髪飾りをつけた清楚な女性を思わせる装いとなった。」



『三溪園 昔むかし 18 松風閣の別景』。
「松風閣は当初、原家初代・善三郎が別荘として建て、三溪の代となってさらに増築が
重ねられた。
その規模は、本邸・鶴翔閣をしのぐものであったといわれるが、惜しくも関東大震災で倒壊、
現存しない。ここから見上げるその姿は、和風木造建築が大部分で、No.12のレンガ造の
玄関邸とはだいぶ異なっている。
この一部に三溪の支援を受けた日本画家・下村観山の障壁画「四季草花図」の描かれた
”観山の間”があった。
その名のとおり、まさに松林の中にたたずむ建物である。」



『旧東慶寺仏殿(きゅうとうけいじぶつでん、重要文化財)』。
禅宗様で棟札に1634年(寛永11年)の銘がある建物で、徳川二代将軍秀忠の娘・
千姫の寄進と伝えられている。



別の角度から。



鎌倉の東慶寺にあった仏殿で1907年(明治40年)に移築されました。
明治に入って寺領を失った東慶寺が維持することが困難となって手放したものと考えられている。
禅宗様(ぜんしゅうよう)の特色を色濃く残す数少ない建物です。



『三溪園 昔むかし 20 田舎家』。
「石置き屋根の古民家で、由緒は不明。障子に古い証文や暦、子どもの手習いの反故紙を用い、
入口には箕笠や鍬などを掛けるなど建物自体に趣向が凝らされていたばかりでなく、
周辺にも季節の野菜を植えた畑や竹林、鶏を入れた籠や井戸などを配し、田舎の生活を
疑似体験できるような演出が随所に盛り込まれていた。
こうした田舎家の鄙びた風情は、三溪が最も好んだものの一つで、来客があった場合などに
その接待に使われ喜ばれた。」



『三溪園 昔むかし 19 六角堂』。
「正式には”望仙亭”と称されたあずまやで、海や庭園内が見渡せるよう、この付近の高台に
建てられた。その形状と崖上に立つ姿は、中国の山水画を思わせる風情である。当時園内には、
このほか2ヵ所に同様の建物があったが、いずれも現存していない。」



『合掌造・旧矢箆原(やのはら)家住宅』。
1750年頃(宝暦年間)の建物。
大きな茅葺屋根が印象的な合掌(がっしょう)造という屋根に特徴がある構造の民家。
岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありましたが、ダム建設により三溪園に寄贈される
ことになり、1960年(昭和35年)に移築された。 屋根の妻側にある火灯窓や扇が彫られた
欄間は要注目。内部では、古い民具の展示もおこなっていた。



屋根の妻部に禅宗寺院によく見受けられる火灯窓が開けられており、格式の高さをよく
表しています。さらに同じく格式の高さは軒にも見受けられ、軒の出桁を高い柱で受けて
深い庇を造るいわゆる「せがい造り」が施されています。



『合掌造・旧矢箆原家住宅(重要文化財)』
岩瀬(矢箆原)佐助は、飛騨三長者のひとりで、飛騨地方の民謡に
「宮で角助、平湯で与茂作、岩瀬佐助のまねならぬ」 (普通の農民は3人の真似ができない)と
歌われるほどでした。



『国指定 重要文化財 旧矢箆原家住宅』。



建物に向かって右手の、農家出入口から中に入った。
右手に土間があって、農作業や運搬に使う馬が体調管理するため、ここで飼われていたと。



表側の広い囲炉裏のある部屋「おいえ」は家族のだんらんの部屋で、村の寄り合いも行われました。
家族の団欒スペースの囲炉裏。



『機織り機』であろうか?



旧矢箆原(やのはら)家住宅 間取り図。



ズームで。



式台玄関
上り口に板の間を設けた6畳敷きの玄関です。代官など身分の高い人を送迎するための出入口で、
普段は使われませんでした。
この奥にある間が広間になり、その広さは12.5畳あります。



『ざしき(座敷)』
左側の座敷は、広間、中の間、奥座敷が直列に並び、広間と奥座敷は書院造の優雅な空間。
また、座敷の境の欄間には、櫂や錨、扇の透かし彫りが見られ、釘隠しにも凝った意匠の彫刻が
施されていた。



『おくざしき(奥座敷)』の床の間の横。
広さ10畳あり、床・付書院・違い棚を置き、数奇屋風の瀟洒な空間としており、
代官が泊まるという格式を備えています。
右端にある上部が火灯型をした数奇屋風の障子は、付書院のものです。
床柱は、正面に意図的に節を出しています。これは元禄時代、幕府が飛騨地方に檜の使用を
禁じていたため、禁令を逃れるために傷材を敢えて用いたものと考えられています。



『おくざしき(奥座敷)』の床の間の違い棚。



扇面散らしの欄間。



『櫂の欄間』
山奥に建てられた建物ですが、水に所縁のあるモチーフが彫られた欄間。



『錨の欄間』であろうか。



『中の間』
涼やかな出格子造りの窓が設けられ、柔らかな陽光が室内に充満する雅な佇まいです。
広さは10畳あり、このように文机と脇息を置き、書き物をしたり本を読んだりした場所。
仏間の前堂も兼ねており、中の間の正面(写真の背面)には大きな仏壇を置いています。



仏壇は、1800(寛政12)年に鷲見治郎右衛門によって作られたことが判っています。
浄土真宗の仏壇、お彼岸とお盆に特別公開するのだと。



『ざしき』の書棚。



縁側から外を見る。



「だいどころ」囲炉裏 こちらには火が入ってました。



『うすなわ』では味噌醤油樽、臼、石臼、農具などを保管し、冬は「むしろ」を編んだり
縄をなったりしていたと。樽の大きさでその家の裕福さが分かったようです。



様々な樽が。



『ちょうだ』は長男夫婦の部屋でタンスや大きな長持ちが置いてあった。
次男・三男の部屋はこの上の天井の低い中二階であったと。



水屋 の『水舟(みずふね)』。



説明書きによると、これらの展示物はこの家の生活事情に合致する道具類を飛騨地方から
物色し、持ち込んだものだそうです。
水舟は、明治~大正時代にブナの大木を2つ割にしてくり抜き、わらび粉を取るための
沈殿槽として使っていたものです。



そして2階への急な階段を恐る恐る上る。



2階の大きな茅葺屋根を見上げる。
梁や柱は真っ黒に煤光していた。典型的な合掌造りの光景。



2階から1階からの階段付近を覗き見る。



2階は昔の日用品の展示コーナーにもなっていた。



『たてばた』
たて糸を垂直状態に張って織る織機で、現在は「じゅうたん」など、ごく一部のみ使用と。



いろいろな部品や道具も。



酒樽、盆、皿も。




                              ・・・​もどる​・・・

                  ・・・​​​つづく​​・・・





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Last updated  2019.10.02 20:01:51
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