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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.10.05
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カテゴリ:東海道53次を歩く
途中、国道1号線・静清バイパスの丸子藁科トンネルを過ぎて静岡市駿河区丸子にある
『誓願寺』に立ち寄る。
『丸子城跡~歓昌院坂 ハイキングコース』」になっている誓願寺。



『戦国時代「今川」「武田」の山城、『丸子城跡(まりこじょうし)。』
「この丸子城は今川・武田戦国大名によって標高一三六米の三角山を中心に尾根沿に
南北五〇〇米にわたって多くの曲輪を階段状に築いてあります。
今川氏の時代に築いた山城を活用し、武田氏の国家的事業をもとに武田流山城を導入し
現在の丸子城を完成させたと言われています。
東海道の大動脈を抑え駿府方面が見通し駿府の防衛拠点としての要城でした。
自然を巧みに利用して築城された丸子城は当時の遺構がそのまま現存することでも有名です。
その存度は県内中の山城随一で全国的にもあまり例を見ない貴重な歴史的文化遺産です。
国の文化財に価する遺跡であると注目されています。
お城といえば天守閣を想像しますが、この城は中世の山城で「砦」としての防衛拠点でした。
遺構 本丸跡・木戸口・掘割・竪堀・曲輪・土塁」



丸子川に流れ込む小川に架かる木橋の先に誓願寺の山門が見えた。



大鑪山 誓願寺』。
山門前の白線は、決してここに車を停駐車させないためか?



延命地蔵尊(右端)と太鼓坊地蔵堂(中央)。



小さな祠の中の太鼓坊地蔵は、高さ約75cm。
当時、誓願寺に太鼓を叩くのが得意な禅粛という修行僧がいた。だが、病弱で若くして
亡くなったため、不憫に思った師匠の同寺一三世達源和尚が、世の人々の無病息災と長寿を
願って祀ったのがこの地蔵である。
以前は村の入り口の丘の上に、この僧の故郷である尾張国(愛知県)の方向を向けて
置かれていたという。



「此の地蔵尊は天明8(1788)の建立なり。
誓願寺第十三世達源和尚の徒弟禅粛首厘は太鼓坊と云われる太鼓打ちの名主然し病弱で
若くして此の世を去った。
達源和尚は首厘を不憫に思い世の人々が三悪趣を離れ百病根を断ち長壽であるようにと
願いをこめて首厘の故郷の方向に向かって建立せしものなり」




誓願寺山門。



創建は建久三年(一一九二)。源頼朝が両親の追善菩提のために建立したと伝えられており、
祖師堂には「武皇嘯源大禅定門」と記された頼朝の位牌が祀られている。当初は浄土宗の寺
だったといい、本尊は今も阿弥陀如来である。ちなみに、現在の本尊仏は元和九年(一六二三)に
寄進されたものだと思われる。
天文二三年(一五五四)、今川家と武田家による丸子城の争奪戦の飛び火で誓願寺は全焼した。
しかし、丸子城を押さえた武田信玄が、甲斐国(山梨県)恵林寺の快川紹喜和尚の進言によって
同寺を再興し、宗旨を臨済宗に改めた。中興開山は文益瑞奎和尚。
慶長一九年(一六一四)、京都方広寺の梵鐘の銘文をめぐって、豊臣家と徳川家康との間に
不和が生じた。この時、申し開きのために駿府を訪れたのが、豊臣家の重臣片桐且元である。
だが、家康は且元がすぐに駿府にはいることを許さなかったため、且元はしばらく同寺に
滞在したという。結局、豊臣家は且元の努力もむなしく、慶長二〇年(一六一五)五月八日に
大阪夏の陣で滅亡した。その二〇日後、且元も自害し、誓願寺に葬られた。
現在も誓願寺に残る片桐且元夫妻の墓は、且元の甥の片桐貞昌(石州)によって立てられた。
貞昌は四代将軍徳川家綱の茶華道の指南役をつとめた人物で、石州流茶華道の流祖。
誓願寺の本堂裏にある回遊式庭園の作者でもある。同寺は、武田家関連の古文書や片桐且元の遺品、
石州流の茶華道具などを所蔵しているほか、天然記念物のモリアオガエルの生息地としても
知られている。



扁額には『大鑪山(おおだたらさん、だいろざん)』と書かれていた。



参道には『だるま大師の像』が。



『だるま大師の像』を奉納された方の熱い思いが書かれていた。
「元気に喝ッ 平和祈願頑張るぞ!!」



『七転八起 だるま大師 摩訶般若波羅蜜多心経』。



階段の先にあったのが『本堂』。



階段上の可愛らしい像。



『本堂』。



本堂の正面左側の建物には花頭窓が。



本堂の扁額には『誓願禅寺』と。



ガラス戸の隙間から本堂内部を。



本堂右の建物。



寺務所内部。



御朱印を頂きました。
「無量寿佛」と書かれているのであろうか?



本堂の先代の大きな鬼瓦。
笹竜胆(ささりんどう)の紋が。
竜胆は源頼朝の紋とされ、清和源氏のシンボルともされている紋。



そして本堂裏の片桐且元(かたぎりかつもと)公の墓』を訪ねた。



方広寺大仏鐘銘事件弁明のため、誓願寺に滞在した豊臣家重臣 片桐且元公の墓。
豊臣家寄進の方広寺梵鐘に彫られた「国家安康」の文字が家康の名を二つに分断したものであり、
「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願ったものだ、けしからん!
と徳川方が難癖をつけたあの「方広寺大仏鐘銘」事件。



片桐旦元公の墓石(左)。



こちらは(右)は夫人の墓石であろう。



徳川家康に申し開きするため駿府を訪れ、1ヶ月近くこの誓願寺に滞在。
しかし家康には会わせてもらえず、そうこうしているうちに大阪から淀君の使者として
大蔵卿がやって来た。家康は大蔵卿とは面会し、安心するよう言って帰すのであった。
結局、片桐は「臣下の礼」「大阪城退去」「秀頼か淀を江戸に人質」と徳川側から
無茶難題を出されて大阪に帰るのであったが、大蔵卿の話と真逆の話すぎて裏切り者扱いされ、
大阪城から追放されてしまったのであった。豊臣のために頑張ったのに気の毒すぎ。



誓願寺の墓地。



『近藤 勇之墓』と刻まれた墓石。
故海軍・・・の文字があり勿論別人。



本堂横から『丸子城跡』のある山を見る。
誓願寺から道を隔てて前の遊歩道(東海道自然歩道)を登っていくと約15分で城の南端に出ると。
稲荷神社の奥を登っていくと、 城の北東部に出る。
丸子城は北部が今川氏時代、南部が武田氏時代に築城された城で、通称「北城」「南城」と
呼ばれている。 それぞれの特徴がでている興味深い城であるとのことであったが・・・。



境内の観音像。



この赤い実の植物は何であろうか?
ハマナスの実に似ているが?



巨岩も境内に。



美しい老松。




                              ・・・​もどる​・・・​

                  ・・・​つづく​・・・






Last updated  2019.11.02 13:37:23
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Re:旧東海道を歩く(新居宿~御油宿)その2:豊橋への移動 丸子:誓願寺(10/05)   オジン0523 さん
赤い実は?
ハマナスのの場合は葉が違いますね
幹もとげとげしている (2019.10.05 19:34:20)


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