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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.10.17
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

『浜名旧街道』を進むと夢舞台東海道道標『湖西市 紅葉寺跡』が左手に。



橋本宿碑から7~8分、右側の高台に「紅葉寺跡(もみじでらあと)」(左)があった。
紅葉寺はもともとは紅葉山本学寺という曹洞宗の寺で、地蔵菩薩を本尊として祀り、白須賀に
ある蔵法寺の末寺でした。明治期に神社が行った取調べの記録によると、鎌倉幕府四代将軍
源頼経が上洛の際にこの地の長者の家に滞在した際に頼経の世話をした長者の娘が、
後に鎌倉に召し寄せられ、頼経の死後にこの地に戻って出家し、正嘉二年(1258)に頼経の
菩提を弔うために建立した寺が紅葉寺とされています。紅葉寺と本学寺との関係は、
江戸時代に書かれた『浜名橋考』によると、「足利義教公橋本の寺に入らせ給ひて風景を愛し、
紅葉を賞し給ひしより紅葉寺と云う名あり、其後頽廃せしを本学といふ僧再建して今は
本覚寺といふ」と記されています。
紅葉寺の前辺りから「松並木」が続くが松並木の左側には田園風景が広がり、
なかなか良い雰囲気が出ている。
『紅葉寺跡』への階段を上る。



『紅葉寺』と刻まれた石碑。



紅葉寺跡
この寺は紅葉山本学寺といい、室町幕府六代将軍足利義教が永享44(1432)に富士遊覧のときに
立ち寄って紅葉を観賞したので紅葉寺 といわれている。
建久元年(1190)の源頼朝上洛のおり、橋本に宿泊した頼朝の寵愛を受けた長者の娘が
のちに出家して妙相と名のり、 高野山より毘沙門天立像を勧請して建てた寺といわれている。

紅葉寺と本学寺との関係は、江戸時代に書かれた『浜名橋考』によると、
「足利義教公橋本の寺に入らせ給ひて風景を愛し、紅葉を賞し給ひしより紅葉寺と云う名あり、
其後頽廃せしを本学といふ僧再建して今は本覚寺といふ」と記されています。
現在寺の建物は残っていませんが、石段や供養塔などが整備されています。



階段を上がると境内の石仏群、歌碑?が右手に。



正面から。



そして境内には多くの大粒の銀杏が落ちていたので、足で銀杏の実を取り出し
持っていたビニール袋に厳重に密封して持ち帰ったのでした。



そして帰宅の翌日に妻が殻を割り焼いてくれました。



白須賀に続く松並木を進む。



畑にあったこの赤い実は何であろうか?
オクラの花に似た薄いピンクの花が咲いていたが。
ローゼルであろうか。その実はジャムや塩漬けとしても食用となるとのことであるが。



ポーチュラカの花であろうか。和名はハナスベリヒユ(花すべりひゆ)。



浜名旧街道の松並木の途中左側にあった石碑は『藤原為家と阿仏尼の歌碑』。



★風わたる 濱名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟  前大納言為家
★わがためや 浪もたかしの浜ならん 袖の湊の浪はやすまで      阿佛尼

藤原為家(11198~1275)鎌倉中期の歌人で定家の二男、初め朝廷に仕え父の没後家系と
学統を継いだ。承久の乱後「千首和歌」で歌人として認められ「続後撰和歌集」 「続古今和歌集」
の勅撰集を始め多くの私家集を編んだ。 歌風は温和、平淡。この歌は「続古今和歌集」
巻第十九に収められている。

阿佛尼( ? ~1283)朝廷に仕えた後藤原為家の継室となり、夫の没後出家し鎌倉下向の折
「十六夜日記」をなした。この歌は同日記にあり、当時のこの辺りを豊かな感性でとらえている。
よって為家・阿佛尼の比翼の歌碑とした。



田園地帯をひたすら歩き浜名の街並みに入る。



左手にあったのが『立場跡』碑。



『立場跡』
「旅人や人足、駕籠かきなどが休息する茶屋を立場といって、江戸時代、東海道の各所に
設けられていた。この立場は、新居宿と白須賀宿の間に位置し、代々加藤家がつとめてきた。
立場では旅人を見ると湯茶をすすめたので、ある殿様が「立場立場と水飲め飲めと鮒や金魚じゃ
あるまいに」という戯歌(ざれうた)を詠んだという話が残っている。」



次の訪問寺・『東新寺』に向かって旧街道を進む。
両側に民家が立ち並び、往時の街道を偲ばせていた。



『東新寺』入口。



『本堂』。

山 号■松林山

寺 号■東新寺

住 所■静岡県湖西市新居町浜名2660

宗 派■臨済宗方広寺派

本 尊■聖観世音菩薩

札 所■浜名湖岸新四国八十八ヶ所霊場第64番札所
東新寺の創建年代等は不詳であるが、境内には弘法大師・観音菩薩などの石仏がある。



本堂の隣には神社が。



石仏群。



歴史を感じさせる民家。



街道右手の山が迫ったところの段上に新しい秋葉山常夜燈の建つ秋葉神社があった。
秋葉神社の創建年代等は不詳であるが、社殿には金刀比羅宮が合祀されているのだと。



この先に『明治天皇御野立所阯碑
が左側に立っていた。



「明治元年(1868)9月20日、岩倉具視らを従え、東京へ行幸のため京都を出発した
明治天皇が10月1日、豊橋から新居へ向かう際に休憩した所である。
明治天皇は、その後、新居宿の飯田本陣に宿泊し、10月13日に東京に到着した。」



そして右手には巨大ながけ崩れの現場が。
怪我人等はなかったのであろうか?



右手に『火鎮神社(ほづめじんじゃ)』



行信結社の裏山に火鎮神社があり、行信結社の脇から石段の参道がある。

火鎮神社の創建年代等は、火災等による史料焼失により不詳であるが、
徳川家康の崇敬を厚く受けたと伝えられ、宿場町であった白須賀宿の鎮守といわれている。



『山門』。



『本堂』。



『火鎮神社(ほづめじんじゃ)』
  ・鎮座地  湖西市白須賀5942番地
  ・御祭神  火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)
        品陀和気命(ほんだわけのみこと)
        徳川家康公
  ・例祭日  十月十四日
  ・由 緒  本神社は三座を祀り、由緒正しき神社なりしが、応永年間(1394~1428)
        海瀟及安永年間(1772~81)社家火災の為め、古文書散失し、由緒を
        詳に能はざるも、徳川家康の崇敬厚く、除地壱町四方余、丸太船壱双の
        御墨付きを賜り、地方一般の崇敬を蒐めて、御隆盛を極む。大正十四年一月九日
        村社に列せられ同年同月十四日神饌幣帛料供進社に指定せらる。



『白須賀宿マップ』
白須賀の須賀とは砂浜を意味します。その名の通り宿場は潮見坂下の海辺にあった。
宝永4年(1707)の大地震による津波で主馬の大半が流出してしまい、
翌年坂上の現在地に移った。
それから坂上が白須賀になり、坂下の宿場跡を元町というようになった。
本陣1軒、旅籠27軒、人口2704人。



夢舞台東海道道標『白須賀宿 
火鎮神社』。
二川宿まで10.1kmと。



『風力発電』。
街道を進むと右手の山に大きな白い風車が回っていた。
この風車は、浜名湖カントリークラブ(浜名湖CC)の風力発電である。



民家の戸袋も芸術作品。



鯉の滝登りの姿であろうか。



更に『白須賀宿
』を西に進む。





                              ・・・​もどる​・・・

                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2020.05.01 14:52:26
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