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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.10.18
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​​先日、10月14日(火)早朝に、我がブログアクセス数も300万回を超えました。
皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。
200万回通過時から延べ450日になります。
200万回通過時と同様ですが、これからも毎日の出来事を
つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、
そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 
の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを
書き続けて行きたいと思っています。
文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、
我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』として
日々のブログを書き続けて行きたいと思っているのです。
​​本日の我がブログへのアクセスありがとうございます。



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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

『旧東海道を歩く』の白須賀宿の散策を続ける。
『郷社 内宮神明神社』



石鳥居下から、階段、拝殿を。



民家前に『高札場跡碑』と『一里塚跡碑』(右)が並んでいた。 
『高札建場跡』(左)
幕府・大名が、法令や禁令・通達を板札に墨書した高札を掲示した場所を高札建場または、
単に建場といい、宿場・渡船場・問屋場など人の目につきやすい場所に設置されました。
白須賀宿にはここ元宿と東長谷に一箇所ずつ設置されていたほか、加宿である境宿村にも
一箇所設置されていました。
『一里塚跡』(右)
一里塚は徳川家康が最初に手掛けた東海道の整備事業のときに設けられたものです。
慶長9年(1604)から江戸日本橋を基点に一里(約4km)ごとにつくられました。
塚は旅人の目印のためにつくられたもので、街道の両側に高さ2mほどの盛土をし、
榎・しい・松などが植えられました。この辺りでは一里塚のことを一里山と呼んでおり、
石碑にも「一里山旧址」と彫られています。

この一里塚は江戸から70番目の「白須賀一里塚」。70里ということは日本橋から275km。



旧街道を先に進むと右手の筋角に 「潮見観音 蔵法寺」 の立て看板があり、入って行くと突当りに
曹洞宗の龍谷山蔵法寺があった。
蔵法寺には「潮見観音」という有りがたい観音様が祀られているのだ。
遠州灘を行き交う船は必ず帆を下げ観音様の名前を念じて通り過ぎることになっていたのだと。



蔵法寺『山門』



扁額には『龍谷山』と。



『本堂』。
蔵法寺は、西暦790年頃(奈良時代末から平安時代)に、真言宗の寺として開基されたが、
江戸開幕前の慶長3年(1598)に曹洞宗の寺として開基され、その後、慶長8年(1603)には
家康公から23石を賜り、寺勢は盛んとなりなんと寺領は街道を跨って遠州灘の海岸まで
達していたといいます。江戸時代を通じて、将軍代替わりに際しては、寺の住職は
朱印状書き換えのため江戸に参府したといいます。本堂には、本尊の地蔵菩薩とともに、
10年に1度の御開帳となる潮見観音が安置され、境内には三十三観音が祀られている。



『潮見観音』。



『潮見観音像』。
山上から遠州灘の大海の潮を見るということから、『潮見観音像』と呼ばれています。
また海上安全を願う漁民の習わしとして、遠州灘を行きかう船は必ず帆を下げ観音様の名前を
念じて通り過ぎることとされていました。そのためまたの名を「帆下げ観音」とも呼ばれています。
本尊は明治の末頃まで潮見坂の途中にあった観音堂にありましたが、今は蔵法寺の本堂に
安置されています。境内には銅製の潮見観音像が建立されていた。



『潮見観音縁起』
「承応3年(1654)3月10日当蔵法寺前の、遠州灘の海中より漁師の網にかかって
御出現された観音様で、お丈は1尺9寸(57.6cm)でその後堂内に安置され、毎年供養されて
居りました。 
宝永4年(1707)10月4日遠州灘一円に大地震があり、その時起きた大津波に一瞬にして
元町宿は悉く浪に呑まれ大被害を受けました。そのとき坂の上に逃れて、その地に現在も
住んでいる子孫も多く居ります。その前夜徳川幕府参勤交代で岡山藩城主池田綱政公当地本陣に
宿泊中で、夜半観音様が夢枕にお立ちになり、「この地に大地震あり、早々に立ち去れ」と
お告げがあったので、夜半急ぎ一行は本陣を出立し危うく難を免れることが出来ました。
綱政公は観音様のご加護に感謝し邸内に潮見観音の御分身を祀り、子々孫々現在の池田牧場まで
続いて居ります。又、同地の長泉寺にも白須賀観音として、御分身が祀られて居ります。」



『宝篋印塔』。



『水子地蔵尊』。



『水子地蔵尊』。
「六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)で苦しむ衆生を教化、救済されたり
流産または堕胎した胎児や、幼くして亡くなった子供が、賽の河原で苦しんでいるのを
救われる子供を守る菩薩さまで、慈悲の相をされた阿弥陀如来の分身であられる。」



『安産 子安地蔵尊&子育て 三十三観音』。



境内の『稲荷神社』。



『正一位稲荷大明神』。



夢舞台東海道道標『白須賀宿 潮見坂下』。



蔵法寺の先の右手の山道が『潮見坂』の入口となる



かなりの急坂を必死に登って行った。
それにしても、人通りもない急坂の山道。
坂を登りきった先に小・中学校があったが、この坂道を子供達は毎朝登っているのであろうか?
それともこちら側は別学区?



そして太平洋・駿河湾・遠州灘が眼下に現れた。
潮見坂よりの景色は昔と変わっていないようだ。
西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や富士山が見ることが出来る場所として、
古くから旅人の詩情をくすぐった地であり、今でもその眺望は変わらず、訪れる人を
楽しませてくれる。
浮世絵で有名な安藤広重もこの絶景には、関心を抱いたようで、遠州灘を背景に
その一帯の風景を忠実に描いている。



潮見坂は、汐見坂・塩見坂・観潮坂とも書き、東海道屈指の景勝地として数々の紀行文などに
その風景が記されています。西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や富士山を
みることができる場所として古くから旅人の詩情をくすぐった地でした。
永享四年(1432)には、富士遊覧に出かけた室町幕府六代将軍足利義教がこの地で休息をとり
公卿の飛鳥井雅世らとともに歌会を開きました。
江戸時代には、浮世絵師の歌川広重も遠州灘を背景にその一帯風景を鮮やかに描いています。」



息急き切って坂を登り切ると左側に『おんやど白須賀』の休憩所があった。
冷たいお茶の接待があったので上り坂の疲れをとることが出来たのであった。
ここは、東海道宿駅開設400年記念として建設され白須賀宿の歴史文化や旅人の
交流休憩施設となっているのだと。



白須賀宿の歴史文化に関する知識を広めるとともに、散策する人々の交流休憩ホールとして、
新たな文化、交流の発信拠点として活用されています。
展示概要

1.宝永4年に宿を襲った津波の記録
2.白須賀宿の文化人
3.和紙人形による潮見坂風景の再現
4.白須賀宿昔語り
5.企画展示 他

10月6日(日)に開催される新居関所の特別見学会・講演会のポスター。



『歌川広重作 東海道五拾三次 白須賀』。
白須賀という地名の由来は、「白い砂州の上に開けた集落」であるといいます。
峠の上から遠州灘を一望できる潮見坂は、富士山が見える西方の限界といわれた
景勝地でもあります。この宿場は渥美半島の村々へ通ずる道の出発点でもあり、
賑わっていました。
大名行列の一行が黙々と坂を下って来る様子が道の勾配を感じさせ立体感を出しています。



資料館の中は『ジオラマ』があり和紙人形の潮見坂風景が楽しめた。



入り口から中庭を抜け、展示室に入ると正面一面に、津波の記録コーナーが。
1498年の明応地震(めいおうじしん)の津波の跡も確認できると。
『東栄鑑』には「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ波シトナル、
是ヲ今切ト号ス」、『遠江国風土記伝』には「湖水変為潮海矣」とあり、
かつて淡水湖であった浜名湖が、津波により太平洋とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、
湖が拡大したと伝えられている。



宝永4年(1707)に白須賀宿を襲った津波は、宿場を全滅させる深刻な被害をもたらした。
翌年には津波の被害を避けるため、幕府の助成金を得て、汐見坂下の元町から台地上の
現在地へと宿場を移転した。宿場だけでなく、渥美半島の遠州灘に面した海浜沿いの村々も
台地上に移転している。宝永4年の津波は、それまでにない大きな被害をもたらした。



そして展示室内をしばし散策。
『関札』。
関札とは、大名や旗本、公家などが宿泊・休憩する際に、利用月日、名前・官職名、
休泊の別を墨書きし、本陣門前や宿場の出入口などに掲げた木製の札のこと。
左:閏三月四日 尾張中納言休
右:三月廿六日 松平出羽守休



『白須賀宿の文化人』。



『甲冑(かっちゅう)』。



潮見坂付近からの『発掘品』と『浮世絵』。
白須賀宿は元々、汐見坂下の海岸沿いにありましたが、宝永4年(1707)の津波被害により
翌年に今日の汐見坂上の台地へ移転してきました。
近年、大津波以前の宿場や村々の様子が海浜にある遺跡の発掘調査でわかってきたそうです。



そして挿絵入りのいろいろな地元『​白須賀の昔話』👈リンクが紹介されていた。

『​​潮見観音​』👈リンク。
承応三年(1654)3月のことでした。白須賀の蔵法寺前の海が突然明るく輝きだしました。
村人は、舟をこぎだして海中の光るところを探ってみましたが、何もありません。
それからしばらくしたある日、信心深い漁師の網に60cmぐらいの木像の聖観音様が
あがってきました。喜んだ村人たちは、蔵法寺境内に観音堂をつくってお祭りし、
「潮見観音」と申し上げました。海中から出現された観音様というので、遠州灘を通る舟は
帆を下げてご加護を祈願しました。別名、「帆さげ観音」とも言いました。
50年後の大津 波のあった宝永四年(1707)、10月4日の前日に、
備前 岡山の池田綱政公が参勤を終えての帰り、白須賀宿に泊まっておりました。
その夜、観音様が綱政の夢枕に立って、「 潮見観音である 。いま、御身に災害が迫っている。
早くこの地を去られよ。」とのお告げがあり ました。綱政は早朝出立して坂上にたどり着くと、
大津波が押し寄せ白須賀 宿は全滅してしまいました。綱政とそ のお供衆は潮見観音のおかげで
一命が助かったそうです。



『​袈裟切り地蔵​』👈リンク
戦国時代の終わりのころのことでした。白須賀の潮見坂の石地蔵が夜な夜な化けて出るそうなと
いう噂が立ち、日が暮れると通る者はありませんでした。ある年の秋の日暮れどき、
潮見坂の宿(ある本には二軒茶屋とある)に泊まった若い浪人が、旅籠の主人からこの話を聞いて、
「その化け物の正体を見てやろう」と、人々がとめるのも聞かずに出て行きました。
やがて、浪人は潮見坂の上の地蔵の前に立って、しばらく地蔵をにらみつけていました。
6体並んだ地蔵さまは、いつまでも見つめていても身じろぎひとつせず、静かなものでした。
「今宵は、化け物はお休みかな」と、ひとりごとを言いながら、大胆にも浪人はそこの石を枕に
して、道ばたに寝ころんでしまいました。およそ、30~40分間も眠ったかなと思われたころ、
「アハ、アハ、ハア」と大声で笑う声に、浪人はハッと目をさましました。浪人がとび起きて
身構えると、真ん中の石地蔵が一丈余もある一つ目入道になり、真っ赤な舌を出して笑っている
ではありませんか。
「おのれ!ついに現れたか!」と叫んで浪人は抜き手も見せず、化け物のすぐ横ざまの石地蔵に
ハッシと斬りつけました。
「アアーッ」という悲鳴を残して、化け物は消え去り、やがてあたりは元の静けさに戻りました。
夜更けて旅籠に帰った浪人から、この様子を聞いた宿の主人が、翌朝早くに、下男や近所の人々と
一緒に潮見坂に行ってみると、六地蔵のうちの1体が、ものの見事に肩から胸にかけて袈裟切りに
なって倒れていました。
それからは、こんな化け物の話はなくなりました。人々は倒れた地蔵さまをおこして祭りました。
いつのころから「袈裟切り地蔵」と呼ばれるようになり、災難除けの地蔵として信仰を集める
ようになりました。



『​猿ヶ番場の勝和餅​』👈リンク
「勝和乃由来」という古記録(白須賀宿三桝屋文書・跡見家所蔵)に、勝和餅の由来譚
が掲載されています。ここに読み易い表現に書きかえて誌しておきます。
そもそも、この猿のばばの柏餅と申すのは、天正18年(1590)秀吉卿が小田原へ
御進発の時に、ここに馬を留められて、御床几(折りたたみ式の簡単な掛け)をお立てに
なられました。当時、この辺は椎の木山で、家はこの茶屋が一軒だけでした。家には93歳の
老爺と82歳の老婆夫婦が住んでいました。生業らしい仕事もなかったので団子にそてつの飴を
入れて餅にして、木の葉に包んで売っていました。この餅を秀吉卿に差し上げると、
「この餅は何というものか」とお尋ねになられましたので、「これは、せんく開餅と申します。
その昔、後醍醐天皇の御時、赤松円心という御方が この餅を戦場へお持ちなされたと
承っております。そてつの飴が入っておりますから、腹持ちがよいと、先祖が書き誌して
おります。私どもも、これによって生命をつなぎ、長く安楽に暮らしております」
と申し上げました。秀吉卿は、
「めでたい餅であろうぞ。長命のめでたいことはよく判ったが、お前はよくも
猿に似ていることよ」と、しきりにお笑いになりました。その時、津田隼人殿と富田左近将監殿が
婆に向かって、「今度の合戦に御勝利を得られたならば、御褒美が下されよう」
…略…
この年八月秀吉卿は勝ち合戦で御帰国の節、またまたこの所に床几を御立てなされて、
婆に御褒美をくださいました。そして、
「今度は、この餅を『猿がばばの勝和餅』と申せ」と仰せられました。



『​清正公さま​』👈リンク
白須賀の海が荒れ、地引き網の舟が転覆して一人の若者がおぼれてしまいました。
町中が大騒ぎしておったところへ、九州の殿様の行列が通りかかりました。
話を聞いたお殿様が、一人の家来を介抱につかわしました。
家来の侍は、「まだ、助かる。私どもが本陣に着くまでに必ず息を吹き返すから安心しなさい。
息を吹き返したら知らせるように。」と 言って、護符を置いて立ち去りました。
行列が本陣に着いたころ、若者は侍の言うように息を吹き返しました。
家人の一人が侍に知ら せると、侍は自分の手のひらに菜種油を注いで灯芯を立て、
火をつけました。そして、「これが命をとりとめた火でござる。」と言われました。
若者は命が助かったお礼に、九州にある清正公(加藤清正)の神社に参拝して、
その分霊をいただいてお祭りしたということです。



『​​片葉の葦​​』👈リンク
昔、都で恋仲になったお姫様と男がありました。しかし、しばらくして男は事情があって
都を離れてしまいました。お姫様は、男の居所をあれこれ捜しましたがわかりません。
そのうち、風の便りで男が新居の関にいることを知りました。居所がわかれば、じっとして
いられません。御姫様はどうにもいたたまれず、胸をふくらませてその男を訪ねて行きました。
ところが新居に着くと、夢にまで見た愛する男は、すでにこの世の人ではなくなっていました。
亡き骸は、新居の橋本というところにある高師山の紅葉寺に葬られていました。
お姫様は泣き崩れてしまうのを必死にこらえ、丁重に供養して都へ引き返そうとしましたが、
白須賀元町の八幡様の辺りまで来ると、我慢できずにとうとう「帰るのはいや」と
言い出しました。
お姫様は、お供の者がどんなになだめても聞かず、路傍の葦の葉を固くつかんで離しません。
お供の者は、仕方なくお姫様を無理矢理引っ張って連れてきました。そのとき、つかんでいた
葉がとれて、片側だけ葉がなくなりました。お姫様はとれた葉を握ったまま、引きずられる
ように都に帰って行きました。
それからというもの、そのあたりの葦の葉は、お姫様の悲しい思い出が通じたのか、
それとも八幡様が哀れに思われたのか、なかよく並んで片方ばかりに向いて出るように
なったということです。



『​豆石​』👈リンク
昔、東海道での難所の1つといわれた潮見坂に、珍しい豆石というものがありました。
そして、これを拾った人には幸福が訪れると伝えられ、街道を往来する多くの旅人は、
潮見坂にやってくると、この豆石を探し求めたそうです。
ある時、わがままなお姫様が江戸から京への旅に出ました。
しかし、東海道の長い道中のため、旅の疲れから途中で駄々をこねてはお供の者は、
そのつどいろいろとなだめながら連れてまいりましたが、潮見坂にさしかかると、
長くて急な上り坂のため、いよいよ動こうとはしませんでした。
そんなお姫様に、「この潮見坂には豆石というものがあります。そして、これを拾った人は
みんな幸福になれるといわれています。どうかお姫様もよい人に巡り会って幸福になれますように、
豆石をお探しになってみたらいかがでしょうか。」と、お供の者が言うと、お姫様も、
「そうか、これはなかなかおもしろい。それでは、わたしもそれを拾って幸福になりたいものだ。」
と、早速喜々として豆石を求めて坂を登ったと伝えられております。
また、ある時、初老の夫婦連れが京見物のために江戸から上ってきました。二人は長旅の疲れも
出て、新居宿からは駕籠に乗って吉田宿(豊橋)まで行くつもりでした。ちょうど、潮見坂の
のぼり口に来たところで、2つの駕籠が止まり地面に降ろされました。
2人は何事かと思い駕籠かきに尋ねました。すると、
「ここは白須賀宿の潮見坂といって、世にも珍しい豆石というものがあります。
そして、この豆石を拾うとだれにも幸福がやってくるといわれます。そこで、お客さんにも
幸せになっていただくよう、これから歩いて豆石を探していただきたいのです。」
と言い、坂上まで歩くことをすすめました。そこで、2人は、「それなら私たちもそれを拾って
もっと幸せになってみたい」と、手を取り合って坂をのぼっていきました。
潮見坂は当時難所でしたので、駕籠かきもこのように豆石の話を客にすすめては、
この坂で自分たちの疲れをいやしたといわれています。



木戸孝允日記銅板。
明治元年9月20日、明治天皇東幸のため京都を出発。木戸孝允も供奉。道中の10月1日、
三河国の白須賀にて天皇が初めて海を見られたことを受け、木戸は日記に
「今日 輦輿元白須賀に被爲至始て 至尊大洋を 叡覽被爲遊暫御途中に 輦輿を被爲止れ從是
皇威の洋外相輝ん始なりと感泣に不堪也」と記している。



当時の旧東海道の浜名湖、白須賀宿地図。



白須賀凧。



冷たいお茶を何杯も頂き、この『おんやど白須賀』を後にしたのでした。

                              ・・・​もどる​・・・
                  ・・・​つづく​・・・​​






Last updated  2020.05.01 14:43:23
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