JINさんの陽蜂農遠日記
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jinsan0716
『JINさんの陽蜂農遠日記』にアクセスありがとう ございます。 このブログは、 陽:太陽光発電、 蜂:趣味の養蜂、 農:菜園、花、スロー&アクティブシニアライフ、 遠:旅行、 を中心とした備忘録を兼ねた17年間にわたる毎日のブログ(雑記帳)です。 書き込んでいただける方は、写真下の『コメントを書く』から 気楽に、ご感想、ご意見ご質問等を書き込んでいただきたく。
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次 『おんやど白須賀』を出ると直後の左手に「多数の石碑」が並んでいた。 『県営圃場整備の碑』 湖西市立白須賀小学校近くのプール前の緑地の石碑群であった。 宿場の有名の顕彰碑等であると。 『白須賀宿マップ』。 白須賀宿は、元来、汐見坂下の海岸沿いに町並みがあったが、宝永4年(1707)の 地震・津波により大きな被害を受け、この後汐見坂上の台地へ宿場の移転がおこなわれた。 移転後の町並みは、十四町十九間の長さがあり、道幅は2間であった。 東から東町・橋町・伝馬町(東・中・西)・高見町・西町があり、この中に本陣1・脇本陣1・ 旅籠屋27軒、人口は天保14年(1843)の調査では、加宿(かしゅく)境宿新田を含めて 2704人、総家数は613軒が軒を連ねていた。宝永5年(1708)に移転したことにより、 汐見坂から境宿新田までの限られた地域に宿割をしたためか、間口は平均3.7間であり、 元町の4.3間より狭くなっていると。 湖西市立白須賀中学校正門前を通過。 左手に『潮見坂公園』石碑。 夢街道東海道道標『白須賀宿 潮見公園跡』 二川宿まであと7.6Kmだ。 正面に『白須賀宿石碑群』。 大正時代に公園として整備されたが現在は学校が建ち碑だけが残されてしまったようだ。 『潮見坂公園跡と石碑群』 織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰るとき、徳川家康が信長をもてなした場所だそうだ。 ここ潮見坂上には、明治天皇が明治元年10月1日にこの地で休憩されたのを記念に、建てられた 明治天皇御聖跡碑をはじめ、白須賀出身の国学者夏目甕麿と、息子加納諸平、正直者の藤屋五平、 義僕平八郎らの顕彰碑や忠魂碑が建てられていた。 また、ここから旧道を東へ百メートルほどいった所に、元白須賀町長の山本庄次郎、医師で地域の 文化振興に尽くした石川榮五郎らの石碑も建てられていた。 『明治天皇御遺跡地記念碑』。 明治元年9月20日、明治天皇東幸のため京都を出発。木戸孝允も供奉。道中の10月1日、 三河国の白須賀にて天皇が初めて海を見られたことを受け、木戸は日記に 「今日 輦輿元白須賀に被爲至始て 至尊大洋を 叡覽被爲遊暫御途中に 輦輿を被爲止れ從是 皇威の洋外相輝ん始なりと感泣に不堪也」と碑の下に。 『遠江八景「潮見晴嵐」』 遠江八景は、浜名湖の見事な風光や景観の中でも特に秀でた八景を選び抜いている。 「舘山秋月」は舘山寺と内浦、「弁天夕照」は舞阪、「浜名暮雪」は新居の今切口、 「潮見晴嵐」は白須賀の潮見坂、「瀬戸夜雨」は猪鼻湖の瀬戸、「五山晩鐘」は大福寺、 摩訶耶寺、方広寺、龍潭寺、初山宝林寺の名刹五山、「寸座落雁」は寸座と佐久米、 「細江帰帆」は引佐細江、というようにそれぞれに特長的な景勝の地や水面に光を当てており、 古代から今に流れている時間の妙も重なっているのだと。 『忠魂碑』。 他にも白須賀出身の国学者夏目甕麿と息子の加納諸平、正直者の藤屋五平、 義僕平八郎らの顕彰碑も建てられているのであった。 『潮見晴嵐』。見事な駿河湾の光景。 『明治天皇御偉跡』碑。 遷都の時立ち寄られた時の様子が木戸孝允によって記述されていると。 湖西市立白須賀小学校 正門。 道路の右手に小さな神社が。 そして白須賀の街並みに入る。 天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によれば、白須賀宿は、江戸日本橋から70里22町 (約275キロメートル)の距離で、町並みの長さは東西 で14町19間(約1.5キロメートル)、 宿内の人数及び家数は、加宿境宿村を含めて2,704人、613軒でした。 本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋が27 軒あり、宿場としては中くらいの規模でした。 現在でも、格子戸のある古い民家や、間口の狭い家並みなど、江戸時代の面影を残していた。 十数分歩くといよいよ「格子戸のある古民家」(左)が並ぶ、かつての宿場街に入って行く。 ここでは当たり前に格子戸の家が並んでおり、たっぷり堪能することができるので、 ゆっくり、のんびり歩きたかったが・・・・。 曲尺手(かねんて)の東側から鷲津停車場往還が分かれる。 分岐点に明治四十五年(1912)建立の鷲津停車場往還道標が。 その先に『曲尺手(かねんて)』が現れる。 所謂『クランク』。 『曲尺手』は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、 道中かち合わないようにする役割も持っていた。 江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が駕籠から降りて 挨拶するしきたりであった。 しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭にとっては一番の失態である。 そこで、斥候(前衛武士)を行列が見えない曲尺手の先に出して、行列がかち合いそうなら 休憩を装い、最寄りのお寺に緊急非難をしたのだと。 『白須賀郵便局』。 更に旧東海道を進む。 右手が旧東海道 白須賀宿 『大村本陣跡』。 『本陣跡』石碑。 『大村本陣跡』。 「前略、ここは、本陣の大村庄左衛門家跡で、元治元年(1864)の記録には建坪百八十三坪 畳敷ニ百三十一畳、板敷五十一畳とあります。 大村家は、江戸時代を通じて白須賀宿の本陣として栄え、その主人は代々庄左衛門を襲名し、 白須賀の名主のほとんどの期間を務めた家です。 この本陣は、明治元年(1868)の行幸と還幸、翌ニ年(1869)の再幸のときに明治天皇が 休憩された所でもあります。」 伊能忠敬の測量隊も泊まったそうだ。 4~50m先・民家の前にあったのが『脇本陣跡』碑。 「桐屋」と称した三浦惣次郎脇本陣だった。 そして夢舞台東海道道標『白須賀宿 問屋場跡』。 二川宿まであと6.7Km。 『酒屋 沢瀉屋(おもだかや)』がこの場所にあったと。 脇本陣跡碑先の交差点向こう側に『夏目甕麿(みかまろ)邸跡・加納諸平誕生地碑』が 塀の一角に立っていた。 聞いたことが無い名前だが、国学者・歌人として国学の普及に努めた人物と。 白須賀生まれの国学者 夏目甕麿 は通称嘉右エ門、萩園と号した。酒造を業とし、 国学を内山真龍 に学び、のちに本居宣長 の門に名を連ねた賀茂真淵 の「万葉集遠江歌考」 「鈴の屋大人都日記」等を上梓出版して国学の普及につとめた。著書に「古野の若菜」等 数編がある。文政五年(一八ニニ)没。 子供の加納諸平 は甕麿の長子、柿園と号した。若くして紀州和歌山の本居大平のもとに寄寓。 乞われて加納家の養子となり、のちに紀州候に召されて国学を講じ、国学所総裁となる。 諸平には「当代類題和歌選集」のほかに柿園詠草拾遺等の家集をはじめ、数多くの著作がある。 安政三年(一八五九)没。 『夏目甕麿(みかまろ)邸跡・加納諸平誕生地』の全景。 右手に『神明宮』入口。 階段を上って行く。 『拝殿』。 不漁で困った漁師に集めた上納金を融資し期限過ぎても漁がなく、困惑する漁師一同に代わって 自害し住民を救った代官の話が残されていると。 斜めから。 『火防の槇』。 「東海道白須賀の宿は、津波の難を恐れ、宝永五年(1708年)潮見坂の下から、 坂上へ宿替えをした。それまでの坂下の白須賀を、元宿と呼ぶのはこの為である。 宿場の移転以来、津波の心配は無くなったが、今度は冬期に西風が強く、たびたび火災が発生し、 しかも大火となることが多かった。これは当時、殆どの家の屋根が、わら葺きであった ことにもよる。 そこでこの火事をくい止める為に、生活の知恵として工夫せられたのが火防で、人々は 「火除け」とか「火除け地」とか呼んで大切にしていた。 火防の広さは、間口二間(3.6M)奥行四間半(8.2M)で、常緑樹で火に強い槙が十本くらい 植えられ、元は宿内に三地点・六場所の火防があった。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.14
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.13
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