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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.10.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

更に白須賀宿を二川宿に向かって歩を進める。



右手に『庚申堂』入口鳥居が。



天和元年(1681)に立山長老に建てられましたが、現在の建物は、天保十二年(1841)に
再建されたものです。この地方にある庚申堂の中では最も大きく、堂々たる鬼瓦が目を引きます。
境内には、見ざる、聞かざる、言わざるの三匹の猿の陶像があります。
須弥壇(しゅみだん)の上には厨子が固く扉を閉ざしています。
この厨子は六十年に一度開帳される秘仏で、地域では今もこれを守っています。
以前は尼僧がいたが、今は無住であると。



この地方最大の庚申堂。



庚申堂前には庚申信仰による「見ざる、言わざる、聞かざる」の三匹がいたが
白須賀の庚申堂には実はもう一匹猿がいるのだと。
論語(孔子)の「礼にあらざるもの視るなかれ、聴くなかれ、言うなかれ、行うことなかれ
(=せざる)」、または、庚申信仰(庚申の夜は身を慎んで徹夜し女性を避ける)の
「同衾せざる」から来ているのだと。
『見ざる』。
庚申信仰とは、60日又は60年ごとに巡ってくる庚申(かのえさる)の日に営まれる、
夜籠もりを中心にする信仰行事。庚申さまといっても、猿と結びついたのは後のこと。



『言わざる、聞かざる』。



右手にあった『火除け地跡』碑。
火除地(ひよけち)とは、火事での延焼防止のために設けられた防火地帯。
江戸幕府は多発する火事に悩んだが、1657年の明暦(めいれき)大火後に設置。
江戸城用の火除明地、一般市街地には広道(ひろみち)・広小路(ひろこうじ)、
広道に土手を築いた火除土手として設置された。



町医者『玄斎堂』跡。
跡見花蹊の遠い親戚にあたる遠江の医師 「跡見玄山」がこの地で開業医した院であると。



民家の美しい『マンビテラ』の花。
キョウチクトウ科の花で花色は赤紫やピンク、白などがポピュラー。
葉は硬めで鈍い光沢があり、特徴的なシワが。



夢舞台東海道道標『境宿』。
ここに一軒の茶屋があり、だんごにそてつの餡を入れた餅を柏の葉で包んで売っていた。
これを「さるが番場の勝和餅」といい、広重や北斎の浮世絵にも名物として登場すると。
売っている店を歩きながら探したが見つからなかった。
二川宿の本陣に出ている店で売っているようであったが。



『白須賀マップ』を再び。
ここが西から来ると『白須賀宿』の入口。



『高札建場跡』碑。



安藤広重の東海道五拾三次之内・二川『猿ケ馬場』 
広重の描いた「猿ケ馬場」は、白須賀宿を西に出たすぐのところ、境川の少し手前にあった。
従って、二川宿まではまだかなりある。
この地は柏餅が名物で、広重の絵にもあるとおり「名物柏餅」の看板を掲げた店が
何軒かあったが、現在は何もない。3人の女性は瞽女(ごぜ)
(三味線を弾き、歌を歌うなどして銭を乞う目の不自由な女性)である。



『成林寺』入口。



『法華宗 久松山 成林寺』の『本堂』。
湖西市境宿にある法華宗陣門流の寺院で、開山当初は久成坊と呼ばれていた。
境宿村の開創もこのころだろうと。



これより『白須賀宿』、二川宿まで5.8km。



県道173号線と旧東海道との合流地点。



県道173号に合流した所左手に『村社 笠子神社』が。



かつては海岸部にあったこの神社も度重なる津波の影響でこの地に移されたと。



国道1号と合流し、この先で「愛知県豊橋市」に入る。
今年になって箱根西坂を下り三島宿を通って白須賀宿まで静岡県内22の宿場を歩いてきたが
静岡は長かった。あと21宿歩くとその先が三条大橋だ。



『境橋』
かっては遠江(静岡県)と三河(愛知県)の境をなした境川に架かる橋。
現在は静岡県と愛知県の県境。



長~~~い静岡県の旧東海道歩きを克服し愛知県に漸く入る。



この先に国道1号線。



畑の中にポツンと一体の仏像が。
この場所で交通事故等があったのであろうか?



国道1号線と合流。



国道1号線を暫く歩くと右側に『一里山の一里塚(東細谷一里塚)』。
右には地蔵菩薩が二体と供養塔が。



一里塚正面には,秋葉社と地蔵尊の祠があった。豊橋では、一里山の一里塚と言っているが、
地名をとって『東細谷一里塚』とも呼ばれている。



「豊橋市指定史跡 一里山の一里塚 昭和五十年十一月八日指定
慶長九年(1604)徳川家康は、江戸日本橋を起点として東海道・東山道・北陸道に主に
榎を植えた一里塚を築かせ、これを全国に普及させた。一里塚は、三十六町を一里とした
里程標で、旅人にとっては里程や乗り賃支払いの場合の目安となり、日ざしの強い時には
木陰の休所ともなった。
江戸時代には、道中奉行の監督下で吉田藩が松並木とともに保護維持にあたったが
明治以降その必要性も次第に失われ荒廃にまかせられた。
この一里塚は、もと道路を挟んで左右に一里塚があったが、南側のものは破壊されて
屋敷の一部となり、僅かに残った痕跡も大正末期頃にはまったく滅失してしまった。
現在、幸に保存されて残るこの塚は東西十一米、南北十四米、高さ三米で、旧東海道の面影を
残す極めて稀な遺跡の一つである。」



『秋葉神社』『津嶋神社』の祠の内部を格子の間から。
この写真撮影前に、足元の石に引っかかり、バランスを崩し転倒。
左足の脛(すね)を擦りむいたが僅かの出血で大事に至らなかったのであった。



まだ小さいがキャベツ畑は拡がっていた。
この付近の小石混じりの赤土は、小石に保温効果がありキャベツ栽培に向いているのだと
二川宿の土産売り場のオバちゃんからこの後に。



畑の中の林の中に『豊清神社』があるのだろう。




豊橋市豊清町茶屋ノ下の歩道橋が前方に。
この近くに昔は茶屋があったのだろう。



歩道が工事中とのことで、一車線規制の車道を歩く。



ファミリーマートでトイレ休憩し、アイスクリームを楽しむ。
そして負傷した脛の手当を自分で。



更に二川宿に向かって進む。



右手の新幹線線路と併行して国道1号線を進む。



旧東海道はこの先『二川南ガード』を右に曲がるのであった。



新幹線ガード下を潜る。



新幹線ガードを振り返り、旅友の姿を確認。



『梅田川』に架かる『筋違(すじかい)橋』を渡る。



『梅田川』。
愛知県豊橋市・静岡県湖西市を流れる本流の二級河川。
そして梅田川の先に見えるのが山頂に岩肌を晒す奇岩・『立岩』が見えた。



再び振り返ると、新幹線の線路が浜名湖に向かて続いていた。



そして更に東海道線の線路を渡る。



踏切を渡り終わり線路沿いに進むと貨物列車が通過。



そして前方に『二川宿』の姿が目に飛び込んで来た。
東海道三十三番目の宿場、『二川宿』。
見付跡など宿場口を示す建造物は残っていないものの、まっすぐに伸びる旧街道と
街道沿いの軒の並びに往時を偲ぶことができるのであった。



交差点の角に『二川宿案内所』の建物・『川口屋』が。時間は14:44。
ここには地域のイベントに関するパンフレットや二川宿についての案内図などが配布されていた。
また、往時の写真なども展示されているので、二川宿に入るとまず立ち寄ってみると良い。



川口屋の角に、『二川一里塚跡』が。
江戸日本橋から数えて72番目の一里塚である。




                              ・・・​もどる​・・・

                   ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2020.05.01 14:45:07
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