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カテゴリ:旧東海道53次を歩く
『旧東海道を歩く』ブログ 目次
長~~~い静岡県の旧東海道歩きを克服し愛知県に漸く入る。 この先に国道1号線。 畑の中にポツンと一体の仏像が。 この場所で交通事故等があったのであろうか? 国道1号線と合流。 国道1号線を暫く歩くと右側に『一里山の一里塚(東細谷一里塚)』。 右には地蔵菩薩が二体と供養塔が。 一里塚正面には,秋葉社と地蔵尊の祠があった。豊橋では、一里山の一里塚と言っているが、 地名をとって『東細谷一里塚』とも呼ばれている。 「豊橋市指定史跡 一里山の一里塚 昭和五十年十一月八日指定 慶長九年(1604)徳川家康は、江戸日本橋を起点として東海道・東山道・北陸道に主に 榎を植えた一里塚を築かせ、これを全国に普及させた。一里塚は、三十六町を一里とした 里程標で、旅人にとっては里程や乗り賃支払いの場合の目安となり、日ざしの強い時には 木陰の休所ともなった。 江戸時代には、道中奉行の監督下で吉田藩が松並木とともに保護維持にあたったが 明治以降その必要性も次第に失われ荒廃にまかせられた。 この一里塚は、もと道路を挟んで左右に一里塚があったが、南側のものは破壊されて 屋敷の一部となり、僅かに残った痕跡も大正末期頃にはまったく滅失してしまった。 現在、幸に保存されて残るこの塚は東西十一米、南北十四米、高さ三米で、旧東海道の面影を 残す極めて稀な遺跡の一つである。」 『秋葉神社』『津嶋神社』の祠の内部を格子の間から。 この写真撮影前に、足元の石に引っかかり、バランスを崩し転倒。 左足の脛(すね)を擦りむいたが僅かの出血で大事に至らなかったのであった。 まだ小さいがキャベツ畑は拡がっていた。 この付近の小石混じりの赤土は、小石に保温効果がありキャベツ栽培に向いているのだと 二川宿の土産売り場のオバちゃんからこの後に。 畑の中の林の中に『豊清神社』があるのだろう。 豊橋市豊清町茶屋ノ下の歩道橋が前方に。 この近くに昔は茶屋があったのだろう。 歩道が工事中とのことで、一車線規制の車道を歩く。 ファミリーマートでトイレ休憩し、アイスクリームを楽しむ。 そして負傷した脛の手当を自分で。 更に二川宿に向かって進む。 右手の新幹線線路と併行して国道1号線を進む。 旧東海道はこの先『二川南ガード』を右に曲がるのであった。 新幹線ガード下を潜る。 新幹線ガードを振り返り、旅友の姿を確認。 『梅田川』に架かる『筋違(すじかい)橋』を渡る。 『梅田川』。 愛知県豊橋市・静岡県湖西市を流れる本流の二級河川。 そして梅田川の先に見えるのが山頂に岩肌を晒す奇岩・『立岩』が見えた。 再び振り返ると、新幹線の線路が浜名湖に向かて続いていた。 そして更に東海道線の線路を渡る。 踏切を渡り終わり線路沿いに進むと貨物列車が通過。 そして前方に『二川宿』の姿が目に飛び込んで来た。 東海道三十三番目の宿場、『二川宿』。 見付跡など宿場口を示す建造物は残っていないものの、まっすぐに伸びる旧街道と 街道沿いの軒の並びに往時を偲ぶことができるのであった。 交差点の角に『二川宿案内所』の建物・『川口屋』が。時間は14:44。 ここには地域のイベントに関するパンフレットや二川宿についての案内図などが配布されていた。 また、往時の写真なども展示されているので、二川宿に入るとまず立ち寄ってみると良い。 川口屋の角に、『二川一里塚跡』が。 江戸日本橋から数えて72番目の一里塚である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.05.01 14:45:07
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