JINさんの陽蜂農遠日記

2020/05/01(金)14:47

旧東海道を歩く(二川宿~御油宿)その2:飯村一里塚跡~豊橋市・龍拈寺

旧東海道53次を歩く(406)

​​『旧東海道を歩く』ブログ 目次​ 岩屋観音堂を後にして、国道1号線を豊橋に向かって北上する。 道路脇には青のアメリカアサガオとピンクの芙蓉の共演が。 岩屋病院前を通過し国道1号線から分岐した旧東海道に入り進む。 旧街道に架かる『殿田橋(とのだはし)』を渡る。 流れる川は『柳生川』。 『飯村一里塚跡(いいむらいちりづかあと)』 現在の東海道とクロスする殿田橋の交差点にたどり着く。 マクドナルドを右手に歩道はないが、道沿いを歩くと、 旧東海道と国道1号線の三角地帯の先端に『飯村一里塚跡』の碑があった。 江戸日本橋から数えて73番目の一里塚となる。 漸く東海道の一里塚123ヶ所の6割まで到達。 『飯村一里塚跡』の碑のあった旧東海道と国道1号線の三角地帯を振り返ると、旅友の姿が。 国道1号線に合流し更に進む。 暫く歩くと右手にあったのが『壽泉寺(臨済宗妙心寺派)』 綺麗なアーチ状で竜宮城のような楼門・『山門』。 『鶴松山壽泉禅師』。 『本堂』 年代は不明だが、桂昌寺の松山和尚が同村の長松山太平寺(現:老津町東高縄204)の末寺として 開山した。延宝8年(1680)現在地に移転し元禄6年(1693)寿千寺となり正徳5年(1715)瓦町の火災で 類焼したのを機に壽泉寺と改めた。 扁額には『鶴松山』と書かれていた。 本堂と正対して『三重塔』が建っていた。 三重塔のたもとには、こんな立看が。 境内の石仏群。 再びひたすら歩くと前方に『豊橋市瓦町通り1丁目』歩道橋が。 『不動院』 『瓦町不動院由来記』 「本尊不動明王 真言宗中興の祖  覚鎫上人  作 宗派 高野山真言宗 江戸時代に入り、時の吉田藩主小笠原候 が仁連木村 に菩提寺臨済寺を建立することとなり、 境内を確保するため二十軒の農民が移転することとなり、吉田宿 の東の隣接する瓦町に 新しい村づくりが始まりました。寛文四年(1664)のことであります。新しい村づくりの中心に、 心の拠り所として不動院が安置され、不動院は仁連木村(豊橋市御園町)から瓦町へ 移ることとなりました。瓦町不動院は小笠原候をはじめ歴代吉田藩主の尊崇を集め、 藩の重要な祈祷を担当する祈願所としてゆるぎない存在を示しておりました。 元禄十二年(1699)、時の吉田藩主久世重之侯 から山号、寺号の免許を受け、 聖休山任養寺不動院 と名乗ることとなりました。元禄十五年(1702)不動院が新築、 この時の鬼瓦は瓦町村で焼成されたもので、寺宝として大切に保存いたしております。」 こちらは不動尊幼稚園。 そして『願成寺』。 『本堂』。 大永2年(1522年)創建と。 切絵仏であろうか? そして『東八町交差点』の歩道橋を歩く。 歩道橋下には、『豊鉄市内線』が。 東田本線(あずまだほんせん)は、愛知県豊橋市の駅前停留場から赤岩口停留場までと、 井原停留場から分岐し運動公園前停留場までを結ぶ豊橋鉄道の軌道路線である。 豊橋鉄道では「豊鉄市内線」と案内している。 『豊鉄市内線』の車両。 『秋葉常夜灯/東新町交差点』 この常夜灯は文化二年(1805)吉田宿東惣門前(現在の東八町交差点付近)に建てられたもの。 以来「新町の大燈籠」として吉田の名物の一つとなり、近隣の町民をはじめ市民に親しまれて 来たが、三河地震(1944)による倒壊とそれに続く戦火にあって放置されてきた。 この状況を憂た常夜灯保存委員会により昭和五十五年豊橋公園内に復元されていたが、 平成十三年が「東海道宿駅制度制定四百周年」の節目の年でもあり江戸時代に建てられていた この付近に再復元したものである。 コの字型の大型歩道橋から東方面を見る。 歩道橋で国道1号を渡り、さらに右に曲がって階段を降りた豊橋市八町通5丁には 『吉田城東惣門跡(ミニ復元)』が。 「東惣門は鍛冶町の東側に位置する下モ町の吉田城惣堀西で、東海道にまたがって南向きに 建てられていました。門の傍らには12畳の上番所、8畳の下番所、勝手があり門外から西側に 駒寄せ場11間がありました。惣門は朝六ッ(午前6時)から夜四ッ(午後10時)まで 開けられており、これ以外の時間は一般の通行は禁止されていました。」 東八町交差点で左折し国道1号線から離れ旧東海道に入る。 東惣門の先が少し複雑であった。 惣門を右に見て50mほど歩いたら右に曲がり、最初の四つ辻を左に曲がり、突き当たったら右へ。 この先は真っ直ぐな道を「バス停・曲尺手(かねんで)」等を見ながら5~6分歩くと植え込みの 有る広い道にぶつかった。 右手、道路の中央の植え込みに『曲尺手門跡碑』が。 「曲尺手門は吉田城内への入口の一つであった。 旧吉田城の巽の方位にあり城門の跡にして曲尺手町発展の礎である。」 豊橋市 マンホール蓋。 豊橋公園内の吉田城と羽田八幡宮の祭りで行われる「手筒花火」を描いたもの。 反対側、左側の植え込みの中に『吉田宿』、『江戸 七十四里』と記された石碑が。 この地の住所は『 愛知県豊橋市曲尺手町(かねんてちょう)』。 曲尺手町76にある交差点を左折して進む。 『龍拈寺(りゅうねんじ)』に立ち寄る。 曹洞宗の仏教寺院。山号は吉田山(きちでんさん)。 本尊は十一面観音。一色時家の被官で牛窪一色城(同県豊川市牛久保町)主および 今橋城(同県豊橋市今橋町)の初代城主であった牧野古白入道(牧野成時)の追善供養のため、 子の信成が創建した寺である。 神宮寺、悟真寺とともに吉田三ヶ寺の一つとされ、曹洞宗の東三河における中核寺院である。 1945年の豊橋空襲で山門を除く全伽藍が炎上し、唯一残った山門が豊橋市の有形文化財に 指定されている。 『龍拈寺』の指定文化財 華陽夫人画像牧野古白母堂画像龍拈寺山門 - 空襲で炎上しなかった唯一の建造物。年元禄年間建立。 『龍拈寺観音堂』。 『龍拈寺観音堂』には真赤な『聖観世音菩薩』の幟が。 『箸塚碑』。 様々な石仏、石碑が境内に。 『観音像』 豊橋工場の女学徒の方々の殉難碑であると。 ここには、「学徒動員令に応じて豊橋市立高等女学 校及愛知實修高等女学校三年生学徒は 中島飛行機半 田製作所に挺身報国の至誠を盡す偶此の震禍に遭い 二十六柱の英霊遂に 護国の礎石となる」と書いてあった。 『山門』 『龍拈寺山門』 「龍拈寺は吉田山(きちでんさん)と号し、大永年間(1521-27)ごろ休屋宗官和尚の代に 吉田城主牧野信成が亡父古白追善のため創立したと伝えられ、吉田三ヶ寺に列せられる当地方 屈指の大寺院として栄えました。江戸時代の伽藍は、本堂・御影堂・大庫裏・小庫裏・鐘楼・ 山門等の堂宇の地に多くの塔頭を擁していました。これらの諸堂宇は宝永4年(1707)の 大地震で倒壊したのち再建・修復されましたが、第2次大戦中の空襲で山門だけを残して 全焼しました。 山門は、元禄6年(1693)住持となった法運義官和尚の代に建立され、その後、宝永の大地震に より傾いていたものを修復したと伝え(吉田山龍拈寺記)、昭和の戦火にも類焼を免れた当寺院 唯一の江戸時代の遺構です。この山門は、単層・切妻造・桟瓦葺の四脚門で、軸組に欅材を 用いた唐様(禅宗様)を主に、随所に配した絵様、軒形の一部には天竺様(大仏様)の手法も 折衷されており構造や意匠の奇抜きに特色が見られる市内でも数少ない江戸時代の建造物 として貴重なものです。 現在、正面虹梁上に月舟宋胡(1618-96)筆の「吉田山」の額が掛けられていますが、 この背後の虹梁上の羽目板にも「吉田山」の刻字があり、月舟筆の額は他の宇堂もしくは 前身山門に掛けられていたものを後世になって現山門に取り付けたものと解するのが 妥当のようです。」 『長養院』。 『長養院』入口。 『悟慶院』。 『吉屋山 悟慶院』と刻まれた石塔。 扁額には『悟慶院』と。 『曹洞禅』と書かれた『豊橋閣日進禅寺(ほうきょうかくにっしんぜんじ)』。 豊橋閣日進禅寺は、愛知県豊橋市新吉町9番地にある禅宗系の寺院。 通称は「日進禅寺」「日進院」とも呼ばれている。 1945年(昭和20年)6月19日夜半の豊橋空襲で、本尊の勢至菩薩像と本堂を消失しており、 現在の伽藍は戦後に再興したもので、本尊仏は釈迦三尊像を祀っていると。 『満願石仏(百拝百体)』 入口付近には、百体の石仏に百拝すること(百拝×百体=万拝=お参りにすることで 願いが叶う=満願)で全ての願いが叶う『満願石仏』が。 交差点角にあったのが『金刀比羅神社』。 愛知県豊橋市大手町34にあり、祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)。 『拝殿』。 文正元年(1466年)3月、四国象頭山、金刀比羅大権現より勧請とのこと。                               ・・・​もどる​・・・                                                       ・・・​つづく​・・・

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