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JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.10.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

豊川放水路を渡った先には、善光寺川に架かる『万石橋』が。
万石橋の下には、昭和28年改築の旧万石橋が残っていた。
昭和40年(1965年)豊川放水路の通水に伴い現『万石橋』を架橋し不要となった
旧橋そのまま残っているのは珍しい。



さらにその先『豊川放水路』から300m近く歩くと右手にあったのが『子だが橋』の碑。
「子断が橋ともいわれ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。およそ一千年前莬足神社には、
人見御供があり春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があったと
伝えられている。ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を若い女性が故郷の祭礼と父母に
逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た、見ればわが子である、
「ああいかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、
遂に生贄にして神に奉った。それからこの橋を、子だか橋と呼ぶようになったということである。
現在、莬足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われている。」



そして『才丿木』交差点の先の右手にあったのが『社式内 莬足神社』。



『社式内 莬足神社(うたりじんじゃ)』と刻まれた社標。



『莬足神社の史跡と伝説』
「①石の鳥居
 第一鳥居は、元禄四年(一六九一)に吉田城主小笠原長重公が寄進したものである。
 高さ四・五m 明神形 銘は次のとおり。
 右側
 奉献石鳥居
 三州宝飯郡小坂井村八幡宮前
 左側
 元禄辛未九月吉旦 吉田城主従四位下侍従兼佐渡守小笠原長重 肅具 額の文字は、東征大総督
 有栖川熾仁親王の御染筆。
 ②宿中島太神楽奉納 石灯籠ニ基
 小坂井町宿字中島は三河万歳で有名で、また伊勢神楽、獅子神楽の流れをくむ太神楽でも
 知られていた。太神楽は江戸時代末期に大流行し、近郷近在の秋祭りはもちろん、遠州方面への
 出稼ぎも盛んに行われていた。鳥居両脇の石灯籠は、中島の太神楽惣連中が文化元年
 (一八〇四)に奉納したもので、当時の太神楽の隆盛を偲ばせる。灯籠に十九名の
 太神楽連中の名が刻まれている。
③弁慶松の伝説と歌枕「しかすがの渡し」
 弁慶が東行のおり、大雨で対岸へ渡れず渡津に逗留した時に植えた松と伝えられてきた。
 奈良時代から平安時代の十世紀頃まで菟足神社前は、大小の洲がある広大な入江であり、
 対岸の飽海、坂津方面へは船で渡っていた。枕草子にも書かれた「しかすがの渡し」が
 どこにあったのかは特定できないが、ある時期にはこの近辺にあったと思われる。
 紀行文「いほぬし」 増基法師(天暦十年頃 九五六)の歌
 しかすがの渡りにて渡し守のいみじうぬれたるに
 旅人のとしも見えねどしかすがにみなれてみゆる渡守哉
 現在の松は、平成十八年に植え替えられた。」



石の第一鳥居は、元禄四年(一六九一)に吉田城主小笠原長重公が寄進したものである。
高さ4.5m。



扁額には『内式 莬足神社』と。



拝殿前の二の鳥居。



『式内 莬足神社』
御祭神 菟上足尼命
創立  白鳳13年(686)
穂の国(東三河の古名)の国造であられた菟上足尼命は、初め平井の柏木浜に祀られたが、
間もなく当地に御遷座になった。
当社の大般若経55巻は国の重要文化財に指定(昭和36年)されている。僧研意智の書
(1176-1179)であるが、長い間弁慶の書と伝えられていた。(弁慶が東下のおり、洪水のため
渡航できず、滞在7日の間に書き上げて神前へ奉納したと信じられていた)
なお応安3年(1370)の銘のある梵鐘(昭和39年県文化財指定)は本社前の水田から発掘された
ものであり、当時は今の手水社の位置に鐘楼があったことが天保時代の三河国名所図絵に出ている。
当時のお田祭りの行事は県の文化財に指定(昭和39年)されている。
風祭り(平成27年市無形文化財指定)として知られている例祭は4月第2土・日曜日(本来は4月
10,11日)に行われ、打上花火、建物花火、手筒花火は特に名高い。 また、祭礼の古面(5面)は
昭和40年に県の文化財に指定されている。



『莬足神社 案内図』。



『莬足神社 拝殿』。



『神楽殿』。



神輿庫であろうか?



『万福招来生木』。



『大切な場所』をズームで。



『別宮 八幡社』



『境内社』は山住神社、金刀比羅宮、津島神社。



『菟足神社貝塚』。



『菟足神社貝塚』
「この貝塚は、神社境内および隣接する川出氏宅の敷地一帯に広がる。故川出直吉氏は
明治三十年代から貝塚を発掘し、遺物の採集に努めていた。このため平井稲荷山貝塚とともに
早くから学界の注目を集め、大正十一年には京郁帝国大学の故清野謙次博士が発掘調査をされた。
また、最近では平成二年に町教育委員会が調査を行っている。
出土遺物はほとんとが縄文時代晩期の土器であるが、弥生土器や古墳時代後期の須恵器も見られる。
しかし、最も注目されるのは、縄文時代早期(今から一万年から六千年前)の押型文土器と
呼ばれる土器の破片である。
この種の土器は豊川右岸下流域では本貝塚でしか発見されていない。人骨は乎井稲荷山貝塚の
ように大量に出土していないが、川出氏の採集品の中には抜歯されたものがあった。
貝殻を形成している貝塚は、ほとんどがハマグリとシジミガイであり、場所によっては厚さ
一メートル近くも推積している所もあり、町内の貝塚の中で最も保存状況が良い。当時は目の前を
流れる川(現在の走川)の水運を利用して浜へ出て貝を採集していたのであろうか。
また、遺跡の所在する周辺は南向きの台地で、斜面には天然の湧き水もあり、生活環境としては
絶好の場所である。
川出氏の収集品は町郷土資料館で見ることができる。」



『菟足神社と徐福伝説』
今から二千百年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、徐福から東方海上に運
薬など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。そこで、
始皇帝はその霊薬を求めて来るよう徐福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者)
を連れ、運薬の島に向かわせた。しかし、出発してからのその後の徐福一行の動向はわか
っていない。
「ところが、わが国には徐福一行の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。しかも、
わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。それは次のような英
足神社に係わることからいわれるようになったと考えられている。
- 熊野に渡来した徐福一行は、この地方にも移り住み、その子孫が秦氏を名乗っている。
豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野へ渡来し、熊野からこの地方に
来だ」との言い伝えがある。
・ 牛窪記(元禄十年(一八九七)頃成立)には、「崇神天皇御宇二紀州手間戸之漠ヨ
リ徐氏古座侍郎乏府(北国渡六本松ト云浜二来ル。 中略 徐福ガ
孫古座侍郎三州二移リ来ル故二本宮山下秦氏者多シ……」とある。
| 英足神社の創設者は、「秦氏」ともいわれている。
菟足神社県社昇格記念碑(大正十一年十二月二十日昇格)に、「菟足神社は延喜式
内の旧社にして祭神菊上足形命は中 昭 雄略天皇の御世、穂の国造
に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して流ひまつりしを天
武の白鳳十五年四月十一日神の御館のまにまに楽石勝をして今の処に移し祀らしめ給
ひしなり………」と記されている。
II 英足神社には、昔から中国的な生贄神事が行われている。
古来困足神社の察事には、活の生贄を供えていた。三河国の国司大江定基が、その
生贄の残忍なありさまを見て出家し、唐に留学し寂照法師となったことが、「今昔物語」
(平安後期)に書かれている。生贄神事には人身御供の伝説もあるが、現在では雀十
二羽を供えている。
以上のほか、三河地方が古来から熊野地方とは海路による往来が行われ、熊野信仰の修
験者により熊野に伝わる徐福伝承が伝えられた。また、小坂井町が交通の要地で、東西を
往来する人達のなかからも徐福の故事が伝えられたとも考えられる。



『奉納 三尺玉』碑。



『収蔵庫』。



国指定重要文化財『大般若経』を収容すると。
 『大般若経』は585巻 で1961年(昭和36年)6月30日指定されたと。



『忠魂碑』。



御朱印を頂きました。



旧東海道・県道496号線を進むとJR飯田線の小坂井踏切が。



そしてその先のカーブの場所の山彦精肉店前にあった小坂井町の『秋葉神社』。
秋葉神社境内の『常夜灯』は文化5年(1808)建立と。
先行した旅友が待っていてくれた。



旅友と合流して更に旧東海道を進む。



『明光寺』山門前の堂も立派な『常夜灯』。



『明光寺山門』。



『明光寺 本堂』
浄土宗の寺院で、山号は諏訪山、本尊は阿弥陀如来。 



『諏訪山』と書かれた扁額。



法然上人であろうか。



『本堂』脇の石仏群。



『地境争いと五輪塔』
境内の一角に、上部の欠けた五輪塔があり、こんな言い伝えが残っていると。



「今から三百年ほど前の古い絵図をみると、現在の豊川市蔵子町と小坂井町宿とが、野川の川筋の
ことについて、地境の争いがたびたびあったことがわかります。 
当時、その地境に五輪塔があり、両方でうばいあったと言われています。
この五輪塔は誰が建てたのか、誰を祀ったものかはっきりわかりません。
現在、塔の上の部分は、豊川市蔵子町の共同墓地にあり、下部は小坂井町宿の明光寺の
境内にあります。」



『畜魂碑』



旧東海道・白鳥豊橋線に戻り進む。



左手にあったのが『伊那村立場茶屋 加藤家跡』碑。



『伊奈村立場茶屋 加藤家跡(俗称 茶屋本陣跡)』

一 茶屋の地名
 東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり、立場茶屋が設けられたので、茶屋の地名ができた。
ニ 加藤家と良香散
 茶屋のうち格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)では、「良香散」という腹薬が売られ、
 この薬は茶屋の地名よりも有名であった。交通の変遷によって今はこの古井戸(南西30M)
 一つ残すのみとなった。
三 明治天皇御旧跡
  東京遷都の時、明治天皇は、この加藤家で御休憩になられた。その時天皇が使用された箸が、
  牧野真一氏宅に保存されている。
四 俳人烏巣
  烏巣は、加藤家の生まれで、謙斎といい芭蕉と親交があり、京都で医者をつとめていた。
五 芭蕉句碑
 「かくさぬぞ 宿は菜汁に 唐が羅し」
六 烏巣句碑
 「ももの花 さかひしまらぬ かきね哉」



その先には『迦貝土神社(かぐつちじんじゃ)』が。



石鳥居の『扁額』。



『本堂』。
延宝8年(1680年)11月17日創建という。 
迦具土神を祭神とし、例祭日は 10月12日。
街中にあり、鬱蒼とした木々に囲まれていないのと、社殿も新しいので、
境内が明るく広々と感じる。



そして『伊奈 一里塚跡』碑。
豊川を渡り、旧東海道を北西に道なりに進むと、山本太鼓店の正面に江戸から数えて
七十五番目の一里塚となる伊奈(伊ノ奈)一里塚の碑があった。
伊奈(伊ノ奈)一里塚は碑が立っているのみで当時の面影は残っていない。



『江戸日本橋から七五里』。



そして慶応年間創業の『山本太鼓店』に立ち寄る。



店内には様々な太鼓が陳列されていた。
江戸時代、幕府の政策により、東海道の街道筋の約十里毎に太鼓店が配置されたという。
東海地区では、浜松、小坂井、知立、名古屋、桑名に太鼓店があったとのこと。
この小坂井町の山本太鼓店は、こうした太鼓店の職人の子孫である山本松平氏が明治年代に
始めたもので、現在でも6代目の正孝氏が昔どおり、すべて手作業で製作していたのであった。



暖簾には『鼓』と。
店主が太鼓について説明してくださいました。



巨大な太鼓の皮。どこの神社の太鼓の皮なのであろうか?




                              ・・・​もどる​・・・


                   ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2020.05.01 14:49:11
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