2022/05/19(木)16:05
古都「鎌倉」を巡る(その101) : 長谷隧道~一向堂公園~北条氏常盤亭跡~タチンダイ~火の見下バス停~大仏切通~旧鎌倉加圧ポンプ所
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「浅間神社」を後にして、市役所通り迄戻り左折すると、直ぐ目の前に「長谷隧道」が
現れた。
「長谷隧道」石彫銘板。
「長谷隧道
昭和48年(1973)3月
延長120M 幅員9.3M
鎌倉市
施工 KK熊谷組」
鎌倉市道にあるトンネルで、一番長いトンネルであると。」
そして120mを通り抜けて長谷地区から常磐地区に入り「長谷隧道」を振り返る。
次に一向堂バス停先を左に入り「一向堂公園公園」を訪ねた。
ここ常盤は、北条泰時の要請によって「一切経」の校合に関わったという浄土真宗の開祖親鸞が
逗留した地と伝えられている。1309年(延慶2年)、親鸞の孫の唯善(ゆいぜん)は、
大谷本廟の親鸞像と遺骨を持ち出して常盤に住み、唯善の庵は一向堂と呼ばれていたのだという
(浄土真宗は一向宗とも呼ばれる。)。
親鸞の像は「常盤の真影」と呼ばれ、浄土真宗が広まっていったのだとか・・・。かつて、鎌倉には浄土真宗の寺が多くあったが、戦国時代に後北条氏の弾圧を受けたため、
ほとんどの寺が鎌倉の外へ移転。現在では、成福寺が唯一の浄土真宗の寺となっている。親鸞が逗留した坊舎や唯善の一向堂があった正確な場所は不明だが、常盤には一向堂という
地名が残されているのであると。
そして元の道まで戻ると、右手に拡がっていたのが「北条氏常盤亭跡」。
第七代執権北条政村をはじめとする北条氏(政村流)は、鎌倉の防衛の要衝であるここ常盤に
別邸を構えたのだと。大仏切通の北に位置し約11万平方メートルが国の指定史跡となっている。史跡内では、「法華堂跡」や「やぐら」が確認さているとのこと。
「常盤」の名は政村の「常盤院覚崇」に由来。現在、「円久寺」👈リンク が建てられている辺りが常盤亭の入口に当たる場所で、
昔から「殿入」と呼ばれていた。また、常盤亭辺りには、『新編相模国風土記稿』にも書かれている親鸞の弟子唯善の草庵
「一向堂」があったといわれ、現在でも地名として残されている。
鎌倉市常盤924−1。
そして案内に従い「タチンダイ」に向かって山道を進む。
タチンダイとはこの広場奥の一段高くなっている平場の事であると。
ネットには「タチンダイ」(館の台)の文字が。
「タチノダイ」が転化して「タチンダイ」と呼称される様になったのであろうか。
狭い山道を進んで行った。
シダの生い茂る場所も。
途中の「タチンダイ」案内板。
この正面が「タチンダイ」。
しかし前方には道が消え、雑草が生い茂っていた。
しばし草を踏み分けて進んだが、ズボンの膝下はビッショリと朝露?前夜の雨?に
濡れてしまった。そして道が全く解らなくなってしまったので前進を諦め、近くの
高い場所に上がる。
何とか「やぐら」の如き姿が見えた。
こちらにも。
「国指定史跡 北条氏常磐亭跡
「タチンダイ」
北条氏常磐亭は、鎌倉幕府の第7代執権・北村正村を始めとする、
北条一族の有力者の別邸があた所てす。「タチンダイ」というこの平場付近の地名は、
中世居館と関わりがあることを示しています。この平場は細長いV字型の谷を造成したものて、東西北を人工的な崖(切岸)で囲まれています。
周辺で実施された発掘調査では、建物跡などが良好な状態で残っていることも確認されました。
また、この平場の北西隅には鎌倉時代ごろの墓所で、鎌倉周辺に多く見られる「やぐら」と
よばれる岩窟も残されています。「タチンダイ」の周辺の谷戸には切岸や、土地造成が行われる前の地形なども良好に残るなど。北条氏常磐亭跡は、鎌倉時代に政権を担当した武家の屋敷跡と、これを取り巻く中世からの
地形をよく伝えています.」
引き返して、下を見ると、こちらにも人が歩いた道の如き場所が。
そして「長谷隧道」からの道に出て西に進むとここにも案内板があった。
「国指定史跡 北条氏常磐亭跡
北条氏常盤亭跡は、鎌倉切通の一つである大仏切通の北に接する要所として、鎌倉時代に
第七代執権北条政村などの北条一族の有力者が別邸をかまえていたことが、吾妻鏡などの
文献によリ知られています。昭和52年の発掘調査によて建物跡が確認されてその存在が証明されたため、鎌倉時代の
武家屋敷跡をとどめる貴重な遺跡として国の史跡に指定されています。史跡内は、山や谷を切リ開いてつくった平地に門柱跡や「やぐら」、法華堂跡と伝えられている
場所が有リ、歴史的にもきわめて貴重な史跡です。」
そして「仲ノ坂」交差点を左折する。
そして、直後に斜めに折れ住宅街の道を進む。
県道32号線・藤沢鎌倉線に合流しここを左折すると「火の見下」バス停があった。
その先にあったのが「大仏切通」への案内板。
民家の塀の脇の小路を左手に入って行った。
道なりに進むと現れる分岐点。ここは左へ。なんの表示もなかったが。
すると山の入口には足場パイプで仕切られた入口が設置されていた。
「ここは、国指定史跡 大仏切通 です。
史跡の毀損(きそん)・占有をしないように注意してご利用ください。」と。
坂の小路を進んで行く。
道の両脇には「ヤブミョウガ」の花が咲いていた。
家の裏を抜けて100mほど東に進むと、「大仏切通」案内板があった。
「国指定史跡 大仏切通
大仏切通はいわゆる鎌倉七ロの一つに数えられ、梶原・山崎を経て武蔵・京都方面へ通じる
道路です。記録がないため正確な開削時期は不明ですが、北側にある北条氏常磐亭峯の存在や、
朝比切通や巨福呂坂の整備時期との関係から、仁治2年(1241)から建長2年(1250)ごろに整備されたと考えられています。元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでは、上野国(現在の群馬県)から南下した軍勢が洲崎
(現在の深沢・山崎)方面から攻め寄せ、激戦となったことが『太平記』に見えていることから、
この地も戦場になった可能性があります。大仏切通は、江戸時代に経路が変更され、現在の県道鎌倉藤沢線ができたため大規模な破壊を
免れ、付近に造られた平場や、ここに開口する「やぐら」と呼ばれる岩窟、そして切岸などと
共に、かっての鎌倉の幹線道路のあり方を、今によく伝えています。」
そして一段高い場所に上がっていく階段があった。
岩崖には四角形の「やぐら群」が。
しかし「やぐら」の中には何も安置されていないようであった。
こちらの「やぐら」にも。
そして案内板の前を右に向かって進む。
この先から急に勾配がキツくなって行った。
そしてこれぞ「切通」の場所が前方に。
幅は1~1.5mの切通し。
路面には岩が露出して凸凹と。
豪雨の時には、この「切通し」が川のごとくになるのであろうか。
「大仏の切通」を独り占め。
そしてその先には平坦な坂道が上り、下りに。
途中の道路標識。高徳院(大仏)の文字が。
歩いて来た道を振り返る。
更に進む。
「大仏切通」の全行程で一人の姿にも出くわさなかったのであった。
書き忘れたが、「大仏切通」に入った直後に持参した虫除けパーカーを着たのであった。
更に進むと、倒木した木々が道の正面に。
さらに右に左にと。この辺がトンネルに一番近い場所か。
赤線---が「大仏切通」のルート。
このルートを歩いていたのであった。
そしてこの先は、比較的整備された階段が始まった。
下り階段が始まる。
山の斜面に張り付く民家の姿が。
「葛原岡・大仏ハイキングコース」の源氏山公園・銭洗弁財天方面への分岐点を通過。
道案内板。
高徳院(大仏)まで400mと。
「葛原岡・大仏ハイキングコース」地図がここにも。
そして眼下に「鎌倉藤沢線」の道路が見えて来た。
最後の石段を下って、「大仏トンネル・大仏隧道」を振り返る。
「葛原岡・大仏ハイキングコース」案内板。
鎌倉のシンボルである長谷の鎌倉大仏から源氏山公園・葛原岡神社を縦断して
北鎌倉の浄智寺とをつなぐみどころ満載のハイキングコース。
2019年9月の大雨や台風の影響により、「葛原岡・大仏ハイキングコース」は倒木等により
通行できない箇所があり通行禁止でしあったが、2020年6月30日から通行可能となったと。
【https://airisu745.info/kamakura-hiking/】より
右の石段が「大仏切通」そして「葛原岡・大仏ハイキングコース」への入口階段なのであった。
この日で、鎌倉へ入る七つの入口・鎌倉七切通しの内、6箇所を制覇したのであった。
すなわち名越(なごえ)・朝比奈・巨福呂(こぶくろ)坂・亀ヶ谷(かめがやつ)坂・化粧(けわい)坂・
大仏坂・極楽寺坂の七つの切通しをいうのだ。
この時点で未制覇は「朝比奈切通し」だけなのであった。
そしてトンネルに続く遊歩道を振り返ると、入口に銘板が確認できたので、ズームして。
「大仏トンネル The Daibutu Tunnel
2009年3月 神奈川県県土整備部
延長L=129.5m 巾W=7.0m 高さH=4.5m
施行:大成・都特定建設工事共同企業体
「解説
鎌倉切通しの一つである大仏坂切通しに代わる新道として、明治40年頃には素掘りの隧道が
掘られ、大正10年に、煉瓦積み覆工が行なわれました。
昭和32年には、藤沢方面の通行に供するため、コンクリート張りの新大仏隧道が
(南側)が開通しました。
平成4年には、坑門を坑火石にするなどの修景工事が行われ、平成21年には隧道拡幅工事を
行い、築造当初の煉瓦覆工からコンクリート覆工に改めています。
(煉瓦について)
坑口両脇にピラスターを配した標準的な大正期の煉瓦隧道でした。工事に使用された煉瓦は、
小菅集治監(現東京拘置所)で造られた煉瓦で、桜の刻印が押されています。」と。
そしてその先、左側にあったタイル張りの建物。
「旧神奈川県営湘南水道鎌倉加圧ポンプ所」。
神奈川県営の水道事業の最初の遺構であり、戦前の鎌倉の水道施設の希少な遺構。
また、全面スクラッチタイル張り外観は、大仏坂トンネル近辺の景観の大きなポイント的
要素となっている。ポンプの機械設備そのものは残っていませんが、建物内には、クレーンも
残されており、大仏坂トンネルとあいまって、鎌倉の戦前の産業遺構群を形成しているのだと。
鎌倉市長谷4丁目6−12。
1965(昭和40)年でポンプ場の役目を終えて後、鎌倉市が神奈川県から借りて、体育館に
改装した。その際、外観はなるべくいじらないような配慮をしたのであろう。
その体育館も2002年3月で閉館になり、建物は県に返還されたとのこと。
構造規模 鉄筋コンクリート造平屋、一部2階建て 延べ床面積/348.44平方メートル 屋根/陸屋根 外壁/スクラッチタイル張り、腰部モルタル塗り擬石仕上げ
玄関入り口にはポンプ場時代の「清泉霑萬戸」と刻まれた石板がそのままに。
「全ての家(萬戸)をきれいな水(清泉)でうるお(霑)す」の意であろうか。
そしてこの建物は、神奈川県企業庁が、旧鎌倉加圧ポンプ所の土地・建物を一般競争入札で
売却し、これを「熊澤酒造株式会社」が落札したとのこと。
レストラン兼販売所兼ビール醸造所として令和5年にスタートするための改築工事が行われる
とのこと。
・・・もどる・・・
・・・つづく・・・