JINさんの陽蜂農遠日記

2022/05/18(水)19:14

海老名市の寺社旧蹟を巡る(その49):                              居合坂・柏尾通り大山道~居合の道祖神~下原橋天満宮~正覺寺

海老名市歴史散歩(50)

【海老名市歴史散歩】 目次 次に訪ねたのが「居合坂」・「「柏尾通り大山道」坂標識」。 海老名市本郷1218。 「柏尾通り大山道 この道は、江戸時代の「大山道」です。庶民の信仰を集める大山へ、あ参りに行く旅人などは、戸塚下柏尾から東海道を難れ、 この道を通り相模川を渡り大山へと向かっていきました。今も昔の「大山道」とほほ同じ道筋をなしています。」 「柏尾通り大山道」は東海道保土ヶ谷宿と戸塚宿の間、といっても戸塚宿江戸方見附より 1km弱江戸寄り、現在の横浜市戸塚区柏尾町、不動坂が起点となり、そこからほぼ西へ、 途中ここ海老名を通過し相模川を戸田の渡しで越え、現在の伊勢原市下糟屋で江戸青山からの 青山通り大山道に合流して大山へと向かう道であったのだ。。 ここが以前「旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢)」で歩いた「柏尾追分・柏尾の大山道入口」。 「柏尾通り大山道」を歩く旅人の姿。 「居合坂 坂を上がりきったところの地名が「居合」であったことから、この名が付いたといわれています。 「居合」は村共有の入会地が転訛したものといわれていますが、由来ははっきりとして いません。」 ここから東に向かって200m余りのだらだら坂が「居合坂」。 「柏尾通り大山道」坂標識を振り返る。 「居合坂」を上りきった近くにあった「居合の道祖神」。 海老名市本郷1212付近。 既に10月31日の衆議院選挙のポスター掲示板が設置されていた。 この後に海老名市から寒川町にある寺社を歩いたが、これらは次回の「寒川町編」で アップする事とし、その後再び海老名市に戻ったのでここから再スタートとします。 西の空の色が刻々と変わる中で、JR相模線の「門沢橋」駅方面に北上したのであった。 前方に橋が現れた。 「世継橋(よつぎばし)」。 橋の名称の由来は、左岸にあった代継宮から。発音は「よつぎはし」ともいうが、橋には 「よつきばし」と書かれていた。なお、代継宮は 熊本県熊本市北区龍田3丁目25-1 に移動した と。 下を流れる川は「永池川」。 国分尼寺の近くの浅井の泉が水源といわれ、寒川町で相模川に合流する川。 「ながいけがわ(永池川)」。 「世継橋」を渡って直ぐ右側にあったのが「下原橋天満宮」。 海老名市門沢橋4丁目3 社号標石「下原橋天満宮」。 朱い鳥居と立派な一間社流造の社殿が目を引いたのであった。 そして社殿裏手には、右から「関東大震災の碑(大正12年10月建立)」・「庚申供養搭」・ 「道祖神(弘化4年 西暦1817年1月奉納)」・石搭2基などが祀られていたのであった。 日没が迫って来ていた。 そして案内に従い海老名市門沢橋4丁目の住宅街を進み、この先を左手に。 「真言宗高野山 正覺寺」に向かって進む。 そして「正覺寺」山門前に到着。時間は16:40過ぎ。 海老名市門沢橋4-13-13。 山門前には 「郷土かるた 「ひ」」 「左手に 蓮の花もつ 観世音」。 寺号標石「真言宗 橋澤山 正覺寺」。 「橋澤山 延命院」。 「真言宗 正覺寺」。 剣と如意宝珠を持つ石仏。 見事な「宝篋印塔」。 「弘法大師御入定千五百五十年御遠忌記念 生かせいのち」碑。 「弘法大師」像。 「南無大師遍照金剛」の文字が。 近寄って。 「寺務所」。 「本堂」 「正覺寺」は、橋澤山延命院と号す。 「新編相模国風土記稿」では、山号を橋沢山延命院、安楽寺(寒川町岡田)の末寺とされている。十一面観音坐像を本尊とし、桃山時代に作られ元禄5年(1692)に補修された木造弘法大師坐像、 延享4年(1747)に小田原の仏師・蓮池佐内が造立した木造不動明王坐像、宝永6年(1709)に 仏師・松村理左衛門(あるいは村松右衛門)が造立した愛染明王坐像などが安置されています。 創建時代は不明ですが、本尊を初めとする仏像の製作年代から、室町時代に創建されたと 考えられている。江戸期には神壽稲荷社(渋谷神社)の別当寺を勤めていた と。 扁額「正覺寺」。 「海老名市指定重要文化財 十一面観世音菩薩像 正覚寺 正覚寺本尊の木造十一面観音菩薩坐像は、像高四八・五センチ。寄木造りで玉眼嵌入。 表面は肉身部を金泥塗り、着衣部を黒漆塗りで仕上げていますが昭和五十四年の修理の際に 補われたものです。 江戸時代の終わりに編纂された「新編相模国風土記稿」の正覚寺の項には、本尊を運慶作と 記していますが、仏像の作者を鎌倉時代の有名な仏師運慶になぞらえるのはよくあることです。 本尊は江戸時代に造られたものでしよう。修理の際には、像内から木造十一面観世音菩薩坐像が発見されました。仏像の像内に小さな像を 納めるのも、ときおりみられることです。像内に納められた像を胎内仏、その容れ物になった 本体を鞘仏といいます。胎内仏は一木造りの小像ですが、その作風は、鞘仏よりも遡る室町時代ごろの特徴を 示しています。」 「十一面観世音菩薩像」。 「胎内仏納入状況」。 「胎内仏」。 境内には「南無十一面観世音菩薩」、「南無不動明王」の幟が並んでいた。 こちらは「六地蔵尊」。 「南無大師遍照金剛」碑。                               ・・・​もどる​・・・                   ・・・​つづく​・・・

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