2022/02/05(土)07:48
彦根藩・井伊家の菩提寺:豪徳寺へ(4/4)~世田谷城阯
正面に「法堂(本堂)」。
豪徳寺の敷地内の建物は禅宗伽藍配置の基本通りに、手前から山門、仏殿、法堂(本堂)と
一直線上に建てられていた。
木製で古い山門や仏殿に対して法堂は昭和42年に鉄筋コンクリート造りに改築されたので、
観光客にはあまり面白味がないようで素通りしていく人が多いのかもしれない。
ただ近年では仏殿と法堂が分かれている寺が少なくなってきているので、世田谷区内でこういった
贅沢な配置になっていること自体が貴重。
扁額「豪徳禅寺」。
昭和42 (1967)年に建て替えられた法堂。聖観世音菩薩立像、文殊菩薩坐像、普賢菩薩座像、
地蔵菩薩立像が安置され、寺宝の井伊直安作「井伊直弼肖像」が飾られている。
「法堂(本堂)」前から「仏殿」を見る。
「開祖堂」。
「法堂(本堂)」の左手にあり、白く漆喰壁の「納骨堂」。
六角形の「納骨堂」。
見事な「相輪」。
上から順に
宝珠:仏舎利(釈迦の骨)が納められる。竜車:奈良時代から平安時代の高貴な者の乗り物水煙:火炎の透し彫り。火は、木造の建築物が火災に繋がるため嫌われ、水煙と呼ばれる。
お釈迦様が火葬されたことをあらわす。九輪(宝輪):五智如来と四菩薩を表す。9つの輪からなる。受花(請花):飾り台。蓮華の花。伏鉢(覆鉢):鉢を伏せた形をした盛り土形の墓、ストゥーパ形。お墓を表している。露盤:伏鉢の土台。
「納骨堂」近くの石庭。
「法堂(本堂)」と「仏殿」の間の境内を見る。
「法堂(本堂)」と「納骨堂」。
「招福猫奉納所」の「招福猫」の数に圧倒されたのであった。
奉納する決まりは特にないが、招福猫児にこめた願いごとが叶った後に
奉納する方が多いようだ。
豪徳寺では、大きさの違う招き猫が9種類販売されていると。
この写真にも7種類?
再び「仏殿」を横から。
扁額「選佛場」。
「選佛場」は禅宗寺院内にある僧の坐禅する禅堂。僧堂のこと。
「鐘楼」を見る。
「三重塔」と手前は枝垂れ桜か。
そして「東門」は閉ざされていた。
「東門」から引き返し、「三重塔」、「仏殿」を見る。
「山門」を「仏殿」側から見る。
そして「豪徳寺」を後にして、城山通りを南東に進むと左手にあったのが
「世田谷区立世田谷城阯公園」。
東京都世田谷区豪徳寺2丁目14−1。
昭和15年に開園した世田谷区内唯一の「歴史公園」で「東京都指定文化財」にもなっている。
公園内には、昔のおもかげを残す土塁や丘、谷があり、樹木に覆われた自然豊かな公園で、
世田谷百景にも選ばれている。さぎ草の伝説の主人公「常盤姫」もここに住んでいたと。
なお、世田谷城は、初代吉良氏が南北朝の頃、関東管領・足利基氏から、戦の手柄により、
武蔵国世田谷領をもらいうけて築城したのが始まりであると言われている。
以後、吉良氏八代、二百数十年の間、居城として栄え、吉良御所、世田谷御所と呼ばれた。
1590年(天正18年)豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼしたとき、北条氏と親戚関係にあった
吉良氏も運命を共にしたため、廃城となったと。
「世田谷区立世田谷城阯公園」案内板。
「世田谷城阯公園(現在地:豪徳寺ニ丁目)世田谷城の南東端の郭を中心とした一帯を占める公園で、南北方向に延びる細長い土塁とその間を隔てる堀をはじめ、一段高くそびえる郭が現在も残されています。
「周辺史跡等案内」
①国史跡 彦根藩主 井伊家墓所(豪徳寺ニ丁目 豪徳寺内)
豪徳寺の前身は弘徳院と称し、万治2年(1659 )に没した彦根藩主 井伊直孝(なおたか)の菩提を
弔うため建てられたもので、寺名は直孝の法号にちなんでいます。その一角にある井伊家墓所は、広大な敷地に大型の墓石が並ぶ都内でも屈指の大名墓所で、2代藩主
直孝をはじめとして、13代藩主直弼(なおすけ)など6人の藩主に加え、江戸で暮らした正室や側室、
子息、子女らが埋葬されています。北側の一角にある藩士の墓石も含め、総数は303基を数えます。②区史跡 吉良氏墓所(桜一丁目 勝光院内)
勝光院は、天正元年(1573)、吉良氏朝(うじとも)が父頼康の菩提のため、吉良治家(はるいえ)
が開基となって創建した龍鳳寺を再興し、頼康の法号である勝光院を寺名としたことに始まると
され、以後代々の菩提寺となっています。
墓所には、明暦3年(1657)に没した吉良義祇(よしまさ)以降、代々の墓が置かれています。③世田谷八幡宮(宮坂一丁目)天文15年(1546)、吉良頼康によって創建された神社で、吉良氏領内第一の格式を誇っています。
また、世田谷城西方の守りを固めるための「出城」としての機能を合わせもっていたとも
いわれています。④国重要文化財 大場家住宅主屋及び表門 (都史跡 世田谷代官屋敷) (世田谷一丁目)江戸時代、彦根藩世田谷領20カ村の代官職を務めた大場家の住宅で、敷地には世田谷区立郷土
資料館があります。」
世田谷城は経堂台地から南に突き出た舌状台地上に占地し、城域の三方を取り囲む様に麓を
烏山川が流れ天然の堀を成していた。
開発が進み旧態は詳らかでないが、豪徳寺付近に本丸を置き、現在の世田谷城阯公園付近まで
城域が拡がっていたものと考えられている。
石段を上がって行った。
下方には世田谷城阯公園内から北に向けて延びる、空堀及び土塁の姿が確認できた。
空堀及び土塁の姿。
堀にかかる木橋を渡る。
空堀が至る所に張り巡らされているようであった。
東側に廻り込み、下に降りる。
「世田谷城跡 都指定旧跡
世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状の先端部に立地し、西・南・東の三面に
鳥山川が蛇行し、北には小支谷が入る。十四世紀後半に吉良治家が居住したのに始まると伝える。吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。はじめ鎌倉公方に仕え、
十五世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・太田道灌に与力し、十六世紀には
北条氏と結んだ。北条氏と上杉氏との勢力争いで、亨禄三年(一五三〇)には世田谷城は攻略された
と伝えるが、のち吉良氏の手に復した。この間、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、ぞの庇護下にあったが、天正十八年(一五九〇)、
豊臣氏の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。世田谷城の濠・土塁の構造は天文六年(一五三七)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており十六世紀前半に防御の為、大改築がなされたことが窺える。」
再び「世田谷区立世田谷城阯公園」案内板。
「世田谷城阯」案内図。
「世田谷城跡」案内板。
「吉良氏と世田谷城世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。貞治5年(1366)、吉良治家(はるいえ)によって築城されたといわれていますが、定かでは
ありません。永和2年(1376)に吉良治家が鎌倉八幡宮にあてた文書から、おそくとも14世紀後半
にはこの地に吉良氏が領地をもっていたことがわかっています。
応永33年(1426)には「世田谷吉良殿」などと称され、足利将軍家の御一家として諸侯から一目
置かれる存在でした。また、15世紀後半には江戸城の太田道灌(どうかん)と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄します。
その後、吉良頼康の代には、小田原北条氏と縁威関係をもつようになりますが、天正18年(1590)、
豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の没落に伴い、吉良氏は上総国生実(現千葉市)に逃れ、
世田谷城は廃城になりました。その後しばらくして、当地は彦根藩井伊家の所領となりますが、城内にあったとされる吉良氏の
小庵、弘徳院は豪徳寺の前身といわれています。」
「江戸名所図会にみえる世田谷城跡」。
「世田谷城跡周辺」の航空写真(平成19年(2007)撮影)
「城郭構造
世田谷城は目黒川の支流、烏山川が大きく蛇行する地点の北側、三方を川に囲まれ、南側に
突き出した台地上に築かれています。また、城北方をとおる滝坂道と東方の鎌倉道が交差する
交通の要衝にあたっています。城郭の構造としては中央に位置する郭(A)は南北約120m東西約60mほどの広さで、本来は南北に開口していたと考えられる台形の土塁に囲まれています。
世田谷城阯公園には、土塁と堀の一部が残されています。世田谷城の範囲については諸説あり、規模は判然としませんが、現時点では、この郭(A を中心と
して複雑に展開する8カ所以上の郭や土塁・堀で構成され、郭(A) ~ (G )周辺を非常時の「詰城」、
北側の豪徳寺部分を「吉良氏館」と推定し、このふたつが一体となって「世田谷城」を構成して
いると考えられています。」
「世田谷城の城郭構造(推定)」。
そして西の隅には井戸もあったがこの奥には入ることは出来なかった。
吉良氏と言えば、まず忠臣蔵の吉良上野介義央が有名。
そのことから、吉良氏の領地は、三河の吉良であるということも良く知られている。
忠臣蔵の吉良上野介義央は三河吉良氏と言われているのだ。
一方、ここ世田谷の領主の吉良氏は奥州(武蔵)吉良氏といわれ、系統が異なるのだ。
もともと、吉良氏は、足利氏の一門。鎌倉時代に、足利義氏の長男の長氏が三河国碧海郡
吉良荘を本拠としたのを契機に、「吉良」を名乗りとしたことに始まりであると。
また、足利義氏の四男の義継が、兄の長氏と同じく三河国吉良荘を本拠とし、「吉良」を
名乗った。兄の長氏の家系は『三河吉良氏』となり、弟の義継の家系を『奥州(武蔵)吉良氏』
というのだと。
・・・もどる・・・
・・・つづく・・・