JINさんの陽蜂農遠日記

2022/07/22(金)18:24

寒川町の寺社旧蹟を巡る(その19) ・                              宮山駅~宮山橋~地蔵堂~参集殿~寒川神社三の鳥居~目久尻川水道管~端午橋石碑群

寒川町歴史散歩(27)

【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次 この日は6月20日(月)、早朝に鵠沼の「はす池」を訪ねた後、茅ヶ崎駅からJR相模線で 「宮山駅」で下車し、「寒川町の寺社旧蹟を巡る」の最終回に向けてスタートする。 ホームから階段を降りた所に木造の駅舎が置かれていた。駅舎には自動券売機が1台設置。2014年12月26日まで営業していた出札窓口では、長距離乗 車券なども発売していた。2016年2月21日より茅ケ崎駅の遠隔管理の下で無人化。無人化前は茅ケ崎駅が管理する業務委託駅(JR東日本ステーションサービス委託)であった。 簡易Suica改札機が設置されている。 「宮山駅」前の道路を南・「寒川神社」方向に向かって進む。 右側の道を進む。 ピンクのアジサイが迎えてくれた。 右手にJR相模線の「台畑第一踏切」。 この先の一軒の大きな民家のみの為?の踏切か。 次に「台畑第二踏切」。 そして前方に「目久尻川」に架かる「宮山橋」。 「みややまばし(宮山橋)」。 「めくじりがわ(目久尻川)」。 この川の名の由来はいくつかの説がある。 一説には、この川が座間市栗原にあった寒川神社の御厨(みくりや)のあたりから流れてくる ために下流で「御厨尻川」と呼び、それが転じて「目久尻川」となったという。一方、海老名の伝承によると、昔この川に河童が住み着いて悪さをしていたため、地元の人々は この河童を捕らえて目を穿り(くじり=抉り)取ってしまった、という出来事から、この川は 「目穿川」と呼ばれるようになり、それが転じて「目久尻川」となったという。 この伝承にちなんで、海老名市内の目久尻川に架かる「​伊勢下村橋​」👈リンク には河童の像が あしらわれている。 「目久尻川」の下流側。 この先、平塚市内の相模川に合流する。 上流側。 先に見えるのが「寒川大橋」。 歴史を感じさせる「宮山橋」碑。 「宮山橋」を渡り終えると右手にあったのが「地蔵堂」。 神奈川県高座郡寒川町宮山3812−2。 社殿の前、右側にあったのが「道祖神」。 社殿の前、左側にあったのが「庚申塔」。 「双体道祖神」。 左側の二基の石碑。左の石碑には「安政」の文字が確認できた。 「縁起 地蔵 堂内にニ体の地蔵立像がある。地蔵は一般的に安産、育児、信仰の願いをきいて下さるという。 この地蔵も「子育て地蔵」として広く崇敬されており、年ニ回の地蔵講には講中が集まり、 町内の子供たちもお詣りをする。道祖神道祖神は、村内に疫病なとが入らないように祀ったもので、他に、交通の神、夫婦和合の神とも いわれる。ここにあるのは文政十一年(一ハニ九)に建てられたもので、一月十四日には団子焼きを 行っている。庚申塔庚申の日に徹夜をする習俗を庚申講、庚申待などというが、この講中で建てる石塔が庚申塔である。 この塔は嘉永元年(一ハ四ハ)に雷の人々が建てたものである。「右なんご 左あっ木・ハ王子」と 刻まれ、道標も兼ねている。馬頭観世音人のために働いた牛馬の供養や、無病思災を願って造立するもの。これは天保十三年(一ハ四ニ)に建てられた。雷の歴史宮山は七つの町内で構成されており、雷はその一つである。南湖よりハ王子へ向かう道が町内を 抜けている。寒川神社の社人のうち数軒がここにあり、その家系は天正年間以来、四百年余り 続いているといわれ、他の家も同社を崇敬してきた。明治ニ十年頃までは祭礼の時に山車を曳いた といい、その頃の戸数はニ十一戸ほとであったという。大正年間には十三戸に減ったが、平五年一月現在、六十戸を数えるようになった。(昭和五十ニ年三月ニ十四日、寒川町老人文化教室雷グルーフ・皆川起司・金子潔之氏作成の文章を もとに作成した。)」 堂内のニ体の「地蔵立像」。 「宮山橋」、「寒川大橋」を振り返る。 さらに南下すると右手に見えたのが「寒川神社」の「参集殿」。 「八重紅枝垂」桜も花を終え新緑豊かに。 前回、訪ねた時には満開だった「八重紅枝垂」。 そして「寒川神社」の太鼓橋「神池橋」、「三の鳥居」の前から。 「神池」の噴水の先には「石橋(しゃっきょう)」が。 「​寒川神社​」👈リンク 内の散策は前回に済ませたのであった。 南下すると右手にあったのが巨大な「目久尻川水道管」。 横浜・横須賀水道局連名の標語。 「限りある水を大切に! 横浜市水道局 横須賀市上下水道局」と。 横須賀水道共同施設「寒川取水事務所」で取り入れた水道原水を「小雀浄水場」へ送る導水管。 支間長38.5m、口径200cm。 銘板が貼ってあった。 「目久尻川水管橋 横浜市水道局 昭和39年1月竣工 三菱日本重工業 横浜造船所製作」。 共同施設ですが設計施工は横浜市水道局が担当した と。 昭和39年と言えば前々回の東京オリンピックの年。 その横にあったのが「たんごばし(端午橋)」。 橋の袂・東側にあった石碑群4基。 一番右の石碑には「◯明橋」と。昔の名前なのであろうか? それとも移設されたもの? 庚申塔であろうか?下部に三猿の姿?が。 享保7年(1722)の銘。 石祠。 道祖神碑。 「寒川神社参道」バス停近くにあった巨大な「石灯籠」。                                                                                       ・・・​もどる​・・・                   ・・・​つづく​・・・

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