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旅行

2019.07.22
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カテゴリ:旅行
『隆恩門』を抜け、方城内に入ると沢山の建物が現れて来た。
この『方城』は1644年に建設され、高さが6.15mの塀に囲まれ広さは、南北方向の長さが
146m、東西方向の長さは120mもあり、その中にこれらの建物が建っているのであった。



正面のこの建物が『隆恩殿』。
この『方城』の中の建物には、『隆恩殿』をはじめ、西配楼、東配楼、西配殿、東配殿と
焚帛亭があった。



ズームで。



入り口中央の階段部には皇帝のシンボルの雲龍の彫刻が。
巨大な丹陛石に「寿山福海」と「龙凤合欢」の姿が刻まれていると。



『隆恩殿』説明板。



『隆恩殿』の中には、皇帝が座っていた玉座が。



『隆恩殿』から『隆恩門』を振り返る。



『西配殿』。



『西配殿』説明板。
日本語が欲しいのであったが。



『西配殿』の『阿底峡』(左)と『蓮花生』(右)。



『大日如来』(左)と右は?。



左は?と『長寿佛』(右)



『四臂观音』(左)と『金剛萨捶』(右)。



『玛尔巴』。



『焚帛亭』。



石灯篭のようなものは、白色大理石でできており、「焚帛亭」と呼ばれると。
この中には丸い火壺が置かれ、大祭の時に儀式に用いられた絹布や紙が燃やされたと。



独自の形をした『角楼』。



『隆恩殿』の階段を下りる。



階段上の龍は蜷局を巻いて、黒光りしていた。



『隆恩殿』の四隅には獅子の形をした雨水の排水口が。



ハクセキレイであろうか?



反対側の『角楼』を見る。



『棂星门』。



『棂星门』・『石祭台』。



2代目皇帝のホンタイジとその妻・孝文端皇后の陵墓の前にある百祭台。
この台には中央から石香炉、石香瓶一対と石燭台一対の石五共が載っていた。



『方城』と『宝城』とを区画する城壁に設けられていた飾り付け。



中央の飾り付けは、焼き物のレリーフで、皇帝のシンボルの龍ではなく、
唐草模様のデザインなのであった。



見事な垂直の城壁が続きその奥に角楼が。



『月牙城』。
「月牙城」とは「The Crescent City」、クレセント、すなわち三日月の事。



三日月の如くに。



再び『城壁』と『角楼』を見る。



現地添乗員王さんのの説明を聞く旅友達。



城壁の頂きの先にある『角桜』。



『角楼』説明板。



そしてこれが『昭陵』:清朝2代目ホンタイジの陵墓。
城壁の上からの眺め。ただ、いまだに墓は一度も開けられたことがなく、
誰が埋葬されているのか、また、本当に埋葬されているかどうかさえ、
誰も確かめた者はいないのだと。なぜか、墓の頂上『宝頂』には木が植えられて?いたのであった。
添乗員から楡(ニレ)の木であると。



『宝城』、『宝頂』、『地宮』説明板。
地下に築かれた墳墓を『地宮』と呼ぶと。



焼き物のレリーフを城壁上から見下ろす。



そして城壁の上を歩きながら帰路に。
『隆恩門』。



『角楼』の全体を見る。



『隆恩殿』、『隆恩門』。



『隆恩門』から『隆恩殿』を振り返る。



皇帝の龍のみが、足に5つの鈎爪を持って描かれたと。



そして正門を振り返る。





  
                              ・・・もどる・・・

                  ・・・つづく・・・









Last updated  2019.07.22 00:00:21
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2019.07.21
カテゴリ:旅行
『中国工业博物館』を後にし、『北陵公園』にバスは向かう。



『崇山東路』を進む。



『新开河』を渡る。



大きな門には『辽宁省(遼寧省)人民政府』の文字が。



辽宁省(遼寧省)の都市配置図。
この沈阳市をはじめ、この後訪ねる本溪市、丹東市、大連市を含む辽宁省(遼寧省)。
北東部を吉林省、北部を内モンゴル自治区、西部を河北省と接す。
また南西部は遼東半島を境に海域が分かれる黄海と渤海に面し、南東部は
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と接する。
人口は4500万人を超えるの巨大な省なのである。



『北陵公園』外南の石碑
北陵は後金の2代目、清の初代皇帝である太宗皇太極ホンタイジとその妻の孝文端皇后のお墓。
敷地面積330万m2あると。。
北陵は瀋陽の中心部から北にあることからつけられた通称で、正式名称は昭陵という。
陵墓、建築物などは現在でも良好な状態を残し、清朝初期の技術・建築文化の一端を
知ることができるのであった。
2004年にユネスコの世界遺産(文化遺産)の明・清王朝の皇帝墓群の一部として追加登録された。
規模は清の関外三陵(他の二陵は東陵と永陵)のうちで最大規模。
また現在、周囲は瀋陽で1番大きな公園「北陵公園」となっており、自由な散策が可能
なのであった。



『北陵公園』入口前の広場は花に包まれていた。



生花と造花でコーディネイトされて。



龍の姿も。



鳳凰の姿も。



『北陵公園』ウォーキングコース案内。



ここが世界遺産『昭陵』のある北陵公園の正門入り口。



獅子像。



『券売所』
現地添乗員が私たちのパスポートを持ってチケットを購入してくれた。
中国は理由はわかりませんが世界遺産の訪問にはチケット購入時に
パスポートが必要なのであった。



入口門の扁額・『昭陵』。



右手の門から入場する。



『北陵公園』案内図。



ホテルの部屋にあったガイドブックの写真です。



同じく『昭陵』上空から正門方向に向けての写真です。



園内は緑と池が。
敷地面積は330万m2。
北陵は瀋陽の中心部から北にあることからつけられた通称で、正式名称は昭陵。



見事な彫刻。



園内の大型電動カートに乗り込み進む。
世界遺産の昭陵へは、この直線の道を1.5Kmも歩かなければならないので、
私達はこのカートで移動した。
もちろん有料で、一人10元とのこと。



『太祖ホンタイジ像』。
中国、清朝の第2代皇帝。在位1626‐43年。廟号は太宗。太祖(ヌルハチ)の第8子。
太祖の下でサルフの戦に抜群の功を立てるなど武将の誉れが高く、国政を処理する
四大ベイレ(貝勒)の一人であった。即位後ただちに八旗制度の改革に着手し,
皇帝の独裁権力の強化に努めた。この改革の完成したのち、1636年改めて皇帝の位につき
国号を大清と称し、改元して崇徳とした。
対外面では、即位後,明とひとまず山海関を境界として和議をすすめ、かたや朝鮮に対しては
1627年朝鮮王仁祖を江華島に追い、これを屈服させて和議を結んだ人物であると。



『世界文化遺産 清昭陵』
ここは2004年にユネスコの世界遺産(文化遺産)の明・清王朝の皇帝墓群の一部として
追加登録された。
墳墓の規模としては、清の関外三陵(他の二陵は東陵と永陵)のうちで最大規模。



石畳を進む。



『神橋』から、柳に囲まれた池に浮かぶ手漕ぎボートを。



昔からの石畳は保護されていた。
中央は死者の通る道と考えられ、翡翠?で出来ていると。



この門が『石碑坊』。
建立は1801年頃で、三楼の入母屋倣木の牌楼の彫刻は立派。
柱の根元には四対の獅子と一対の神獣がいた。



見事な彫刻が施されていた。
順治帝あるいは康煕帝の時代に建てられたと。木製に見せかけて作られた石造建築であると。



薄い門ですので、倒れないように両側からつっかい棒がしてあった。



階段を上がったところにあるのが『正紅門』。
ここからが世界遺産の昭陵で、入場は別料金になっているようであった。



見事な龍の焼き物?
北京の紫禁城にあるような九龍壁の如し。ただここの彫刻された龍は1頭だけ。



それぞれの入口には見事な欄干彫刻の石の階段が。



一番右側の入口が入場口になっていた。



『正紅门』。



『全国重点文物保護単位 昭陵』。
瀋陽市人民委員会が設置した『昭陵』の石碑。
1982年に国務院から全国重点保存単位に指定されたことを受けての石碑。
よって世界遺産の登録される、ずっと前からのもの。



入口から『大碑楼』が見えた。



その『大碑楼』に向かう昭陵神道の両側には動物の石像が並んでいた。



『華表(The Ornamental Pillar)』の表示があった石柱。
『魔天柱』や『万雲柱』の呼び名もあるようです。
頂上には天に向かって吠える獅子像が。







『立馬(The Standing Horses)』の名前が記されていた石像。



ズームで。



『駱駝(The Camel)』の名前が記された石像。座り込んだフタコブラクダの像。『
黒石(Black Stone)』が石材に使われていると。
ホンタイジの戦に何度も従ったラクダがモデルのようです。



『立象(The Standing Elephant)』の名前が記された石像。
材料は、白石(White Stone)』と記されていた。
これらの像が神道の両脇に各1頭ずつ並んで立っていた。



そして『大碑楼』へ。



『大碑楼』の『神功聖徳碑亭』 



『神功聖徳碑』。



神功聖徳碑を背負う亀。



横から。



後ろから。



先ほどの『大碑楼』を抜けると現れるのが昭陵の中心部にある『方城』と『隆恩門』。



『隆恩門』。
この建物は四角の城壁の『方城』の上に立っており、この『方城』の床にはかつては
金箔が敷き詰められていたのだと。



『隆恩門』。



『隆恩門』を横から。




                              ・・・​もどる​・・・

                  ・・・​つづく​・・・






Last updated  2019.07.21 14:34:59
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2019.07.20
カテゴリ:旅行
瀋陽故宮を後にし、瀋陽鋳造博物館にバスで向かう。
『東西快速干道』から瀋陽北駅近くのユニークな形の『方圆大厦』ビルが見えた。



『沈陽壺商会館(しんようつぼしょうかいかん)』
1918年に杜重遠という人が日本へ留学して陶器を学び、1923年の冬にここ
瀋陽(当時は奉天)の瀋陽北駅恵工街に陶器会社を作ったと。
現在は、当時のまま瀋陽市文物保護単位として、2008年10月27日に瀋陽市人民政府が交付。



『金融中心』と書かれたコイン型のモニュメント。



『沈陽壺商会館(しんようつぼしょうかいかん)』前に『恵馨大厦』ビルが。



『缓化东街』。



右手に瀋陽北駅に向かう線路が。



新幹線・和諧号が追い越す。
この「和諧号」という愛称は胡錦濤元総書記(国家主席)の和諧社会に由来しており、
日本語で「調和」「ハーモニー」を意味するのだと。



哈爾浜路に架かる吊り橋型の跨線橋。



跨線橋を進む。



『西江街』ビル群を右手に。



そして『北一西路』を進み『中国・工业博物館』に到着。



中華人民共和国の成立後は、瀋陽鋳造工場と改名された後に瀋陽重型機械集団有限責任公司の
砂型鋳造工場として2005年まで創業していた工場の跡地。
無人となった工場内の施設をそのままに展示する瀋陽鋳造博物館として2007年に開業したが、
2012年になって工業博物館としてグレードアップし2013年9月から対外的に開放したとのこと。
重工業が国力そのものだった時代、日本が満州を手に入れたかった理由がここにあるということが
想像出来る博物館なのであった。



この中国工業博物館は、以前は「瀋陽鋳造博物館」と呼ばれていた。
少し前のガイドブックには「瀋陽鋳造博物館」として書かれている。



入口にあった巨大な獅子像。



『中国工业博物館』の入口ロビー。
ロービーには巨大な銅製のモニュメントが。



『中国工業博物館紹介』
「中国工業博物館は、中国工業の歴史を展示する総合的な博物館であり、瀋陽鋳造工場の
生産現場から拡張することである。延べ床面積が6万m2、展覧面積が4.54万m2、8つの
展覧館があり、2013年9月から対外的に開放した。展示する品物が豊かで、展示する形式が
シンプルで、これは広範囲な市民及び観光客が工業遺産を理解し、認識し、鑑賞し、工業中身を
解明し、工業遺産の保護の結果を享受する重要なプラットフォームである。これは愛国主義の
教育を発展する、工業文化を普及する、大衆の心身を楽しめる精神の故郷である。」



『中国工業博物館』展示案内図。



製鉄の工程の「出鋼」の場面、そして労働者の姿か?



「蒸気機関車」。



巨大な機械が通路脇に。



最初の展示場・『通史館」』に向かう。



入口には歯車が象徴的に。



『工业前奏』。



最初の人物の名は?。



ジェームス・ワット像。
スコットランド出身の発明家、機械技術者。
トーマス・ニューコメンの蒸気機関 へ施した改良を通じて、イギリスのみならず
全世界の産業革命の進展に寄与した人物である。



グラハム・ベル像。
スコットランド生まれの科学者、発明家、工学者。世界初の実用的電話の発明で知られている。



エルウッド・シャノン像。
アメリカ合衆国の電気工学者、数学者。
20世紀科学史における、最も影響を与えた科学者の一人である。



懐かしき「氷削り機」。



「タイプライター」



1900年、ツェッペリン伯爵が、初の硬式飛行船ツェッペリン LZ-1を初飛行させる。



1966年、『红旗二号导弾』。
1960年代半ばに中国によって開発された中高高度の対空ミサイルの一種。



そして近代の『シリコンウェハー』。



現トヨタ自動車㈱社長『豊田章男』氏の姿も。



「鋳造館 Foundry Museum」の展示室を見ていく。



大きな製鉄工場がそのままに。



巨大な鉄骨作りの建屋。



「転炉」であろうか?



労働者の姿も。



そして自動車の歴史コーナー『汽车館』へ。



人力車からスタート。



三輪自動車の原型。



そして四輪自動車へ。



『红旗敞篷试制车』。



『林肯加长车』
1998年のリンカーン社製リムジン車。



大夫、現代風の車に近づいてきた。



米国製『威利斯』・Willis、1942年。
軍用のジープであろう。



工場内には引き込み用線路も保存されていた。



『丰田皇冠豪华型3.0』。
トヨタクラウンなのであろう。



そして日本占領時代の資料展示コーナーへ。



1905年の奉天の機関庫(上)と1906年満鉄奉天ビル(下)の写真。



『日本侵占东北的重要棋子』。



『残酷圧榨鉄西人民』の文字が。
圧榨とは「圧力をかけ搾取する」こと。



様々な日本占領時代の写真が展示されていた。



そして工場を見学する習近平国家主席の姿も。



そして現在の中国の工業地帯の姿が。



百年の歴史が解る写真コーナー。



その他にも「机床館 Machine Tool Museum」の展示室、屋外展示もあったが、時間がなく
見学することは出来なかった。
しかしながら、ここは1933年に建てられた森田鉄工所(建国後は、瀋陽鋳造工場)の
廃墟を改装したものとのことだが、満鉄時代から近年までの工作機械や車両、写真など
ある意味では『負の遺産』を大規模に展示していることに驚きと感動の場所であったのだ。
                             

                             ・・・​もどる​・・・

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Last updated  2019.07.21 14:34:29
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2019.07.19
カテゴリ:旅行
『西配館』
ホンタイジ時期(1627~1643)に創建されたホンタイジの庶妃の寝室である。
乾隆年間、皇帝が東巡して盛京に滞在する際にここで祭祀の供え物を作ったことがあった。
入口には『后妃生活洋品展』と書かれた『扁額』の如き表示板が。
瀋陽故宮は清の初代皇帝ヌルハチ、続くホンタイジ、順治帝が使用した宮殿というだけでなく、
康熙帝、乾隆帝、嘉慶帝、道光帝が東北地方を巡回し祖先を祭る際に滞在した
行宮(あんぐう)で、清の皇室の貴重な宝物が所蔵されている場所。国家文物局に
登録されている同博物館所蔵の文化財は2016年9月末時点で10万5085点に上ると。



『清 红木染牙三多花卉梳枚盒』



『清 黒缎点翠串珠花女帽』



『清 红缎平金双喜活计』



『孝荘文皇后』



『清 珊瑚小朝珠』



様々な宝石。



案内板。



『永福宮』。



『清 太宗・ホンタイジ』。



『永福宮』
次西宮とも呼ばれ、清太宗天聡年間(1627~1635)に創建されたホンタイジの荘宮の寝室である。
崇徳3年(1638)に順治帝はここで生まれた。



若き日の『清 太宋・ホンタイジ』か?



33歳で病死したホンタイジの寵妃、宸妃(海蘭珠)の肖像画。



『永福宮』案内。



『鳳凰楼』前の広場。



『鳳凰楼』扁額。



『祈福』


右は『西所』入口門、左が『西掖門』。



『西掖門』



『西掖門』扁額。



『西掖門』を潜り『西路』に入る。



『戯台』。



『戯台』
乾隆46年~乾隆48年(1781~1783)に創建され、乾隆帝と嘉慶帝はここで芝居見物を
観賞したことがあった。



『嘉蔭堂』。



『嘉蔭堂』。
乾隆46年~乾隆48年(1781~1783)に創建され、皇帝が東巡して盛京に滞在する際に
芝居見物を鑑賞する場所である。皇帝は南を向いて座り、大臣たちも回廊に列席する。



『東直廊』。



『東直廊』。
乾隆46年~乾隆48年(1781~1783)に創建され、皇帝が東巡して盛京に滞在し
芝居見物を鑑賞する際に、大臣たちの席となる場所である。



『扮戏房』手前の脇門に向かって進む。



『清代宮廷钟表展』は『清王朝時計展』。



『鐘』も時を知らせるのだ。



清王朝の鎏金塔式時計が展示されていた。



『清.镀金锒売藍表 瑞士制造』



『清.铜镀金鸟音座仲 法国制造』



『清.鎏金塔式钟 英国制造』。



様々な種類の時計が。



『清.象牙扇扇雕人 中国制造』。
日本のからくり時計に似ていた。



『清.铜鎏金花瓶盆景表 英国制造』。



鎏金塔式時計は並ぶ。



石製時計、上部に太鼓か?



『世界文化遺产 清沈阳故宮』。



『西路』の『扮戏房』を見る。



『沈阳路』沿いに並ぶ土産物屋。



『西大門』に向かう。



『西大門』。



『西路』券売所。



『西路』入口。ここにも『沈阳故宮』の文字が。



東に進むと再び『沈阳故宮博物館』が右手に見えた。



右手に真っ赤な衣装の『シルバー』ダンス集団が演技中であった。



アクティブシニアライフを楽しむ方々は何処も元気そのもの。



『獨一麗茶館』


沉阳路と朝阳街の交差点から。



瀋陽故宮博物院を出て瀋陽路を東へ進むと、復元された撫近門(大東門)がデンと構え、
道路をまたいでいた。
瀋陽は満州族の故地にあり清帝国最初の都・盛京として、清代を通じて重視された。
そのため城壁・城門の規模も雄大であり、門の扁額に満州文字が使われているのも特徴的であった。
内城は方形、外城は円形というのも珍しい。中華の概念である“天圓地方”を実現したものとされる。
例によって新中国成立後、大躍進期に土法炉を作る等の為城壁の煉瓦は利用され、基礎部分を
残して完全に撤去された。
現在は大東門・大西門のみ復元されているが、高さ・容積とも往時の威容を彷彿とさせるものがある。
内城の城壁高3丈5尺(約11.2m)、周囲9里332歩(約4.85km)、8門を開く。
康煕19年(1680)に造られた円形の外城は高さ7尺5寸(約2.5m)、周囲32里48歩(約18.5km)、
同じく8門を開く。



『瀋陽路』を進む。



右手に地下鉄『中街』への入口が。



そしてこの日の昼食会場へ。



この日は焼肉屋でビビンバ料理を楽しむ。



キムチ、野菜サラダ。



ビビンバ。



よくかき混ぜて。



巻きずし、餅菓子も。



                             
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Last updated  2019.07.21 14:33:53
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2019.07.18
カテゴリ:旅行
次に『銮驾库』で開かれていた「100年に及ぶ紫禁城の国宝展」を訪ねた。
展示されている文化遺物は、瀋陽の紫禁城の10万点のコレクションから選ばれた100点の
文化遺物で、磁器、エナメル、漆器、彫刻、絵画、書道、織物、刺繍などがあり、
清朝初期には独特の歴史的文化的特徴があるのだと。皇帝の王室のオブジェには、
中世と後期の清朝の宮殿芸術もあり、豊かな文化的意味合いと芸術的価値があると。
『清 象牙雕兽耳活环盖瓶』は象牙の透かし彫り。



『乾隆款象牙透雕群仙笔筒』。



『書』。



『水墨画』。



これは帽子。
現代でもかぶれるおしゃれな帽子。



刺繍も美しく。



帽子から長い尾?が。



『清 乾隆皇帝大阅明甲』。



『清 大紅缂八团金龙单袍』
長さ137cm、ウエスト幅72cm、袖丈91cmと裾の120cm。
今瀋陽の国立故宮博物院の国立二級文化遺物。 



『清 品月色缎彩绣折枝桃蝶夹袍』
清王朝の女性のガウン、月の色のサテン、刺繍、折りたたみ、桃、蝶、ローブ。



『清 掐丝珐琅匂莲象牙三足盖炉』。



『清 剔紅楼閣山水人物纹座屏』



『清 乾隆款剔紅飞龙纹宴盒』



この後は、暫しの自由時間になり、故宮内を急ぎ足で訪ねたのであった。
故宮の一番奥の『磨房』近くの盆石。



そして階段を上ると見えてきたのが『鳳凰殿』。



瀋陽故宮の中でも最も高い建物で3層から成る。
鳳凰殿の前は、清寧宮で、皇帝と皇后の居室となっていたと。



『鳳凰殿』から『清寧宮』を見る。



『清寧宮』は瀋陽故宮の内廷の中心に位置する宮殿で、皇帝と皇宮の居住空間、
そしてシャーマニズム(薩満教)の才碑が行われる場所。



オリジナルの扁額がそのまま残されていたようです。
『清寧宮』の文字が。籃地だったようですが、すっかり色落ちしていた。



清寧宮の見事な天井の絵画。
太宗ホンタイジの天聡年間(1627~1635)に建てられた、ホンタイジとその妻
端文皇后(1599~1649)が暮らしたのだと。



別の場所から見上げて。
藍色が印象的な天井の装飾光景。絵の中央には、龍と鳳凰の睨み合いの図が。
梁の部分には濃い朱色で龍が向かい合う姿が。



こちらの梁には華やかにピンクや赤の花と唐草文様が。



清寧宮の内部。
部屋にコの字に造られた台の下には、オンドルの温風が通されていたと。
『万字炕』と呼ばれる建築様式とのこと。



西側の壁には、神龕(しんかん、神棚や仏壇のようなもの)と神像(関帝像)が
祀られているのだと。



満州族は西側を上座とするため、神龕や神像西側に祀られているのだと。
1643年ホンタイジはここで亡くなったのだと。



道光帝(在位:1820〜1850年)の時代に記された文字額。
清寧宮敬記の後に、道光巳丑期秋月の日付が。1929年、道光9年。



『清寧宮』案内。



再び『鳳凰殿』を見上げる。



ここにも『奇岩』が。



『颐和殿』。



『颐和殿』内部。
1746~1748年、皇太后が宮中で式典をする時や姫たちに会うために使っていた場所。



そして再び『大政殿』前の広場に戻り、訪ねていなかった『十王亭』を訪ねる。



『鑲白旗亭』
大政殿と同じ時期に創建され、白旗官吏の事務室で、儀式を準備する場所でもある。



『平定鸟什战图』。



『正白旗亭』。



大政殿と同じ時期に創建され、正白官吏の事務室で、儀式を準備する場所でもある。



『乾隆帝及妃威弧鹿图』。



弓矢。



『平定准格尔回部战图』。



『鑲黄旗亭』。



大政殿と同じ時期に創建され、鑲黄旗官吏の事務室で、儀式を準備する場所でもある。



様々な絵画が。



『乾隆十门图』。



『左翼王亭』。



大政殿と同じ時期に創建され、左翼王の事務室である。



漢文と満文の書。
後金を建国し、後に清国初代皇帝と称されたヌルハチ・太祖が記した家臣への心得書と。
『太祖康寅汗傳諭曰』のタイトルがありました。『八固山王設八大臣輔之以観察其心・・』と
続きます。軍事組織を八旗に編成し、『七大恨』を挙げて明朝と戦い、戦場で受けた砲弾の傷が
もとで亡くなったと。



大政殿の東側に並ぶ石碑群。



元時代の石碑
モンゴル系の王朝である元が、支配していた頃の石碑で、瀋陽の名前が
記録されているものとして貴重。



『辽代石经幢、俗称大十面』



『豫王府影壁』
高さ2m、幅4.1m、厚さ0.5mで、遼東省の山岳地帯に広がる無傷の赤い砂岩から
切り抜かれていると。



『安达礼墓碑』。



『安达礼墓碑』
清2代目皇帝ホンタイジが崩御した際に、近衛兵だった「安達礼」が自ら副葬者に
なったのだと。



再び『大政殿』。



ズームして。



皇帝の龍のシンボル、5本指をズームで。
龍は中国神話に登場し、5本指の龍は皇帝にだけ許された。
4本指が寺院、3本指が地方豪族などとされたようです。
日本の龍は3本指で描かれることが多いようですが、中国との関係を示す名残かも知れません。



『大政殿』内部。
内部には玉座(宝座)と屏風が置かれていた。
なお、現在置かれている玉座は,1970年代に北京故宮の皇極殿から移動したものと。
その後ろには、乾隆帝御筆の扁額と対聯が掲げられていた。(乾隆22年(1757)筆)



陶器で造られた壁の装飾。飛翔する二羽の鶴の姿。いくつかに分割された焼物。



集合場所に戻り、ツアー仲間との観光再開。
『盆石』と呼ばれるものであろうか。
中国庭園では不可欠の奇石。江南地方などでは、穴が多く開いた太湖石が有名だが、
それに比べれば少し見劣りする奇石の光景であった。



『廊房』の敷地内に。
『廊房』とは展示品から厨房のようである。
別棟で石臼が置かれた石展房、挽き石が置かれた磨房などがあった。
瀋陽故宮の台所という役目を担っていたのであろう。
『廊房』の前・右手には『碾房』が。



『磨房(製粉所)』
粉挽き機か?



屋根の曲線が美しい建物。
馬の鞍のように、背の部分が丸くなった屋根。満州建築の特徴の1つのようです。



レンガ塀の中ほどにはオンドルの煙突が。



『煙突』
清の太宗天聡年間(1627~1635)に創建され、瀋陽故宮の中で典型的な満州族の特徴を持つ
唯一の煙突である。





                              ・・・​もどる​・・・

                  ・・・​つづく​・・・








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2019.07.17
カテゴリ:旅行
『崇政殿』の左右には、それぞれ『左翊門』、『右翊門』という比較的小さな入口があり
鳳凰殿や後宮へと通じていた。
『崇政殿』の右にあった『左翊門』。



『左翊門』を潜ると左前方には『鳳凰殿』が姿を表した。



『鳳凰殿』は後の自由時間にも訪ねたのであった。



左が『東所』入口門、前方の『東掖門』に向かって進む、
『掖』とは「宮門や宮殿の脇」の意と。



『東所』は乾隆11年~乾隆13年(1746~1748)に創建された建物である。『崇政殿』の東に
位置するため『東所』と呼ばれている。



『東所』入口門から奥を見る。



『東掖門』。



『東掖門』の文字の扁額も。漢字の右横に、同じ読み方をすると思われる満州語が
記されていた。北京の故宮などでも見かけた光景。



ビニデコ(プラデコ)派手な赤い龍飾り 中国飾り(紅龍)も売られていた。



左手奥に『大政殿』(八角殿)。
太祖によって建てられた『大政殿』は、モンゴル族のパオをモデルにした八角二層の建物で、
ここで式典等が執り行われていたと。



『大政殿』の高さは約18m、八角形の建物に八角形の屋根が乗っており、釘を一本も
使用せずに建てられているのだと。
屋根は黄色の瑠璃瓦で、緑の瑠璃瓦で縁取りがなされていた。
屋根の頂点には宝珠があり、そこから放射状に8本の屋脊(隅棟)が伸びていて、その上には
走獣が乗っており、火災や落雷、風水害などから建物を守護する役割を担っていると。
真正面の2つの柱には、それぞれ、頭を高く上げ、爪を振るい、真に迫った金色の竜が
からみついていた。



『大政殿』扁額、左には満文で。



大政殿前には10の小殿が並んでいる『十王亭』があり、ここは大臣達の執務室であり
軍隊の詰め所となっていた。
旗と武器、衣装や壺など当時のものが数多く展示されていた。



大砲の姿も。



『十王亭』配置図。



『十王亭』の一つ『正紅旗亭』を訪ねた。



「大聖殿」と同じ時期に創建され、正紅官吏の事務室で、儀式を準備する場所でもある。」



左が清太祖・ヌルハチ(努爾哈赤)、右が清太宋太极・ホンタイジ(右)。



『清 正藍旗旗帜』。
八旗は、清の始祖であるヌルハチが、満洲人の前身である女真(jušen)を統一する過程で、
女真固有の社会組織を「旗」と呼ばれる軍事集団として編成、掌握したことに始まると。
1601年にヌルハチがこの制度を創始した当初は黄(suwayan)・白(šanggiyan)
・紅(fulgiyan)・藍(lamun)の4旗であったが、ヌルハチの統一事業の進展によって
旗人の数が増えたため、各色に縁取り(「鑲」(金+襄)。「じょう」と読む)のある4旗が
加えられ、1615年には下記の8旗が整備されたと。
右上から左➡右下へ。鑲黄旗、正黄旗、正白旗、正紅旗、白旗、紅旗、正藍旗、藍旗。



『清 镶紅旗旗帜』
展示されていた八旗の一部。正とつうく旗4種で、正藍旗、正八旗、正黄旗、正紅旗。



『八旗甲冑』
「八旗」とは清朝の軍隊システムのこと。
左から三旗は、皇帝直属であり、皇城警護の兵士は左三旗の兵士。
その後の五旗は、諸王(満州語でベイレ(貝勒))が統率していたと。



『八旗甲冑』説明文。



これは『鑲黄旗甲冑』のレプリカの頭部。



『鎖子甲(さしよろい)』。
この時代の甲冑の素材は鉄、皮革、絹布、紙などがあったが,絹布や紙は実用より
彩色を重んじた儀仗兵などの装飾用であった。鉄はくふうが加えられ、『鎖子甲』も
つくられた。鎖子甲は鎖のようにして鎧をつくったもので、柔軟性に富み、防御力も高く、
大型の甲冑より軽量で実用性が高かったのだと。



外に出て再び『大政殿』を見る。



次に隣の『正黃旗亭』に入る。
『清(后金)入关前主要战役』。



『松錦之战作战示意図』
「松錦の戦い」の明軍と后金軍の進路図と清朝の中国平定に協力した洪承疇(こうしょうちゅう)。



『山海关之战作战东門』の写真と進軍ルート図。
このあたりは歴史が不勉強なので????・・・・・。



清朝第八代・道光帝(在位:1820〜1850年)時代の1841年に鋳造した大砲と。



そして『大政殿』前での清代の舞踊劇が10時から始まったのであった。
毎週、土曜、日曜、祝日は、この大政殿の前で午前10:00と午前11:00に
行われているとのこと。
演目は清文化の『海蘭珠歸嫁皇太極』のようであった。
舞踊劇の内容を説明していたのであろうか?



そして『大政殿』に八旗が姿を現す。



『八旗』が整列。



皇帝と皇后の入場。



広場では踊り子が出番を待つ。



皇帝の姿。清太祖ヌルハチであろうか。



踊り子も中央に。



第?夫人か?



こちらは第??夫人か?



一本歯の下駄の如きもの・ポックリを履いて。



こちらは第??夫人か?



大政殿前の舞踊劇を暫し楽しむ。





こちらが皇后であろう。



大政殿に並ぶ夫人?達をズームで追いかける。





そしてフィナーレへ。ヌルハチそして夫人たちが大政殿から広場に進む。





そしてフィナーレ。時間は10:20。



ネットにこの『​舞踊劇​👈リンク』の動画が紹介されていますので、
リンクを貼らせていただきました。


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2019.07.16
カテゴリ:旅行
今日は7月16日、私の69歳の誕生日。
昔で言えば『古希』。昔は『古希』の祝いは、数え年で行うのがしきたりでしたが、最近では
数え年のなじみが薄くなっていることから、満年齢でお祝いする人が増えて来ているのです。
因みに
・『還暦』60  : 数え年 61歳のこと。干支(えと)が60年たつと一回りして、元に帰るから。
・『古希』70  : 人生70歳まで生きることは古来から稀(希)な事であるという意味から。
・『喜寿』77  :「喜」の字の草書体「㐂」が「七十七」と分解できるところから。
・『傘寿』80  :「傘」の略字体の「仐」が「八十」と分解できることから。
・『米寿』88  :「米」の字が八十八に分解できることから。
・『卒寿』90  :「卒」の略字体の「卆」が「九十」と分解できるところから。
・『白寿』99  :「百」の字から「一」をとると「白」の字になるところから。
・『紀寿』100:「紀」の字が一世紀の「紀」に由来するから。「百寿」ともいう。


  【https://www.ringbell.co.jp/giftconcierge/2201】より転載させていただきました。

中国の代表的詩人、杜甫(とほ)の詩「曲江誌」の一節、
『酒債尋常行處有 人生七十古来稀』
「酒債(しゅさい)は尋常 行く処(ところ)に有り 人生七十 古来稀なり」
(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもある。しかし七十年生きる人は古くから
稀(まれ)である)に由来しています。もともとは『希』は『稀』の字だったのです。
現代では、男女ともに平均寿命が伸びており、70歳まで生きることが当たり前になりましたが、
当時は70歳を迎える人が少なかったため、この詩が生まれたのです。
そして「還暦は赤」など、長寿祝いにはそれぞれテーマカラーがあります。
そんな古希のテーマ色は「紫色」なのだと。
今朝も、復習と学習の朝となりました。
そして、長女はサクランボ、礼文島ウニを、長男はケーキ、そしてマレーシア土産の
ホワイトコーヒーを持って、孫を連れて家族で訪ねてくれました。
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そして今日も『中国・東北地方7名所大周遊8日間』の続きです。

『瀋陽故宮博物館』に向かって進む。
故宮と言えば、昨年6月に訪ねた北京の天安門というくらい誰でも知っている北京故宮ですが、
恥ずかしながら、今回この地を旅するまで、瀋陽の故宮についてはほとんど知らなかったのです。
満洲族は、遼寧省東部の女真族が主となって女真族を統一、”文殊”菩薩の満洲語から名を取って
”満洲”を名のった。また、元の後裔から大汗の印璽を受けて蒙古族の大汗も兼ね一大勢力となった。
初代ヌルハチは、(後)金国としたが、二代ホンタイジが大清国に改めた。
この二代の都が盛京(瀋陽)で、宮殿が瀋陽故宮だ。
北京遷都後も盛京は満洲族の故郷として尊崇された為、文化財として今に伝承されているのだと。



沉阳故宮导游全景图(瀋陽故宮導遊(ガイド)全景図)。
瀋陽故宮は、図のように3つの区画に分かれる。右から東路、中路、西路の順に建てられた。
何故か東路は他と中軸線が少し傾いているのだと。
東路は、八角大の政殿と十王亭(左右翼王亭と八騎亭)が整然と並び初代ヌルハチが”大典”を
挙行した。満洲族の八騎制度と漢族の建築技術を反映した独特の広場だ。
中路は、東路の2年後に建て始めたもので、皇帝の政治活動や宴会、后妃の居住空間になる。
南北中軸線に正門となる大清門、崇政殿、鳳凰楼、清寧宮が並ぶが、鳳凰楼からは、
3.8m高くなり、シャーマン祭祀も見られる。
西区はオンドルなどの満洲族の建築様式のある。東南の角には清朝の祖先を祭る太廟がある。
西路は、劇台、嘉蔭堂、文溯閣、仰熙斎からなり、150年後の皇帝東巡の際に、四庫全書を
収める場所として建てられた。入口は、西路からになる。
地下鉄1号線懐遠門駅を降り、東に向かい城門を模した門(懐遠門)をくぐると瀋陽路に出る。
駅から0.5km程で故宮に着く。中路のハズレには武功坊と文徳坊。



入口両脇にあった巨大な石版彫刻。
右側。
何時の時代の、何という戦いの場面なのであろうか?



ラッパを吹く人物。



左側。
甲冑を纏い馬に乗りいざ出陣。



帝王夫妻であろうか?



舞う女性と称える随臣。
これらの巨大な石版彫刻の内容についてご存知の方がいらっしゃいましたら
ご教示賜りたく。



『沈阳故宮』と書かれた扁額のある門の前には『多彩非遣美好沈河(多彩で斬新に?)』と
書かれたボードが。



瀋陽故宮博物院の入り口・瀋陽路の門。
屋根瓦などは葺き替えられたようですが、木製の扁額や飾り板などは年代を感じさせてくれた。



『文徳坊』と書かれた扁額。
漢字の上下には満州語の表記が。



ここにも『沈阳故宮』と書かれた扁額のある門。



結婚するカップルが記念撮影中。



満面の笑顔で。



空には蛸の形の凧が浮かんでいた。



そして同様な門が再び前方に。



『沈阳故宮旅游服务部(瀋陽故宮旅遊服務所)』は瀋陽故宮観光案内所か。



瀋陽故宮のマンホール。



『太廟』正門。
『太廟』は中国皇帝が皇室の祖先祭祀を行う場所。清朝では盛京(瀋陽)と北京の2箇所に
設けられている。瀋陽故宮の『太廟』は乾隆46年(1781)に撫近門(大東門)外から
大清門東横に移築されたもの。現在はバリケードがあり非公開のようであった。



『沈阳故宮博物館』が左手に。



『奏乐亭(奏樂亭)』。日本の舞殿の如し。



添乗員から入場チケットを貰い『大清門』から入る。



南北中軸線に正門となる大清門は故宮への入り口で清代には午門とも呼ばれた。
清の太宗天聡年間(1627~1635)に創建され、崇徳元年(1936)に正式に
大清門と命名。文武百官や外国使節はここでハンタイジの出御を待ち、またホンタイジが
ここで臣下や外国使節に賞賜を与えるなど、多くの典礼がここで行われたと。
『沈阳故宮博物館』の建築様式は崇政殿、清寧宮と同じく五間硬山式。
外側の『沈阳故宮』の扁額は、戦後にかけられたもので、郭沫若の筆であると。
門の左右には二匹の獅子が座っており、門を守護している。



『大清門』と書かれた扁額。
左は満州文字(満文)、右は漢文。



『沈阳故宮博物館』前の広場。



『清沈阳故宮』配置図。



『全景図』。



『沈阳故宮』案内。
瀋陽故宮は、清朝の初代皇帝、太祖ヌルハチ(努爾哈斉)と2代皇帝、
太宗ホンタイジ(皇太極)により建立された皇城。
1625年に着工して1636年に完成しました。
瀋陽故宮の総面積は約6万㎡あります。
北京の「故宮」の12分の1の大きさではありますが、500以上の部屋を持つ70以上の建物が
建ち並び、満州族の威厳と風格が感じられます。
敷地内は大きく東、中、西路の3つに分かれています。
入口を入ってすぐの東路正面に建つ大政殿は、かつて大典が行われていた場所です。
黄色の瑠璃瓦の美しい八角二層のこの建物は、漢、満、蒙の3民族の建築的な特徴を兼ね備えた
傑作といわれています。
中路には故宮の中心となる建物が一直線に並んでいます。
中央には玉座の置かれた崇政殿、その背後には三層の鳳凰楼、さらに奥には皇帝や皇后、
皇族達が生活していた建物があります。
盛大な宴会が催されていた鳳凰楼は故宮で最も高い建物で、楼上からは市内を
一望できたといいます。
皇帝の寝室だった清寧には、太宗ホンタイジが死去したという寝室が保存されています。
西路には嘉陰堂、戯楼、歴代の重要書「四庫全書」を収めていた文溯閣などがあり、
これらは北京遷都後に乾隆帝により建設されたものです。
ヌルハチとホンタイジの宮殿であった故宮は、順治帝が都を北京に移した後も離宮として
使用され、先祖の墓参りや東北地方巡回の際に皇帝が滞在していました。
現在は瀋陽故宮博物館として公開され、建物内には優雅な家具、調度品や食器類が
展示されています。



大清門をくぐると正面に見えて来た『崇政殿』は瀋陽故宮の正殿。



太宗ホンタイジはここで政治を行い、外国使節の朝見の儀式や饗宴もここで行われたと。
天聡年間(1627~35)に完成、崇徳元年(1636)正式に『崇政殿』と命名された。
北京への遷都後も、皇帝の東巡(東北への行幸)時にはここで政務や典礼を行った。



『崇政殿』が現在の姿になったのは、乾隆十一年~十三年(1764~48)頃にかけて行われた
『崇政殿』および宮殿中路の大規模な増改築の後であったと。
『崇政殿』も硬山式と呼ばれる中国北方地区によく見られる建築様式で建てられているのだと。
硬山式は日本建築の切妻造に近いが、左右の側壁が屋根の上端より少し高い位置まで
延び、左右の軒先が外側へ張り出していない点が異なるのだと。
『崇政殿』は間口が五間(柱4本、柱間に5つの空間)の五間硬山式で、大清門と清寧宮と
共通の様式となっていると。
屋根には他の建築物と同じく、黄色い瑠璃瓦を用い、緑の瑠璃瓦で縁取りされ、左右の隅棟には
走獣が置かれていた。



口を開いて水を吐き出している『鴟吻(しふん)』。
大棟(屋頂)の左右両側にには『鴟吻』と呼ばれる神獣の像が置かれていた
『鴟吻』は「龍生九子」、すなわち龍が生んだ九匹の子の一匹で古来、雨や水をもたらす
神として崇拝されており、建物を火災から守る役割を担っていたと。
そして龍の一族である『鴟吻』は、龍の化身たる中国皇帝が利用する建物にのみ置くことが
許される高貴な装飾なのであると。
また、大棟(屋頂)の左右両端は、側壁と屋根の前後の勾配の三面が交わる場所で、非常に
隙間が出来やすいため、『鴟吻』の像を置くことによって密封し、雨漏りを防ぐという実用的な
意味もあるのだと。尚、日本の「しゃちほこ」はこの『鴟吻』が変化したものらしいと。
こちらは右側の『鴟吻』。



左端にも『鴟吻(しふん)』が。



左右の隅棟には走獣が置かれていた。



入口左右の『斗拱(ときょう)』には首をもたげた龍の彫刻が色彩豊かに。



中国皇帝のシンボル、龍のレリーフ像が柱に。
上下2つに分けて焼成されていたが2頭であろうか。



『崇政殿』正面。
建物正面(南側)の軒下の柱は四角形の柱が用いられ、軒には斗栱(ときょう)と呼ばれる
枡形の飾りが取り付けられていたが、これはチベットの仏教寺院によく見られる手法とのこと。
入口左右の斗栱には、首をもたげた龍の彫刻が取り付けられていた。



扁額の『崇政殿』。



中央の『雲龍階石』。
風化が進んで、ほとんど判別が付きませんが、『崇政殿』の石像のレリーフ。



内部には玉座が置かれ、その両側には天空を舞う二匹の龍、後ろ側には金色の屏風があり
威厳のある造り。



玉座真上の天井には、『正大光明』の扁額が。
ひときわ目を引く玉座の上に掲げられた『正大光明』の扁額は、清王朝第5代皇帝の
雍正帝(ようせいてい、在位1722-1735)が考案した「儲位密建(ちょいみっけん)」の法で
有名であると。彼は、後継者となる皇子の名を記した勅書を厳封した上で、この
『正大光明』の扁額の裏に置き、自分の死後に皆で立ち会ってこれを開封し、次帝を
立てるようにと定めた。皇太子が誰かをぎりぎりまで公開しないことにより、皇太子の堕落や、
次帝をめぐるお家騒動を防止することを目的とした、実に巧みな制度であったと。



右側から玉座を。



『崇政殿』への階段を下りながら振り返って。



『嘉量』
貴重な品らしく、周りを鉄柵で囲ってあった。



日本で例えれば、石燈籠の光景ですが、容積の原器とされる『嘉量』と呼ばれるもの。
日時計と並んで中国の国家の統一と皇帝の権威を象徴する品とされます。



こちら『日晷(にっき)』は日時計。
これらは、乾隆十一年~十三年(1746~48)頃行われた、崇政殿と宮殿中路(中央部)の
増改築の際に置かれたものであると。
宮殿正面に容器の原器と日時計が置かれている理由は、繰り返しになるが、これこそがまさに
中華帝国と中国皇帝のシンボルだからであると。
始皇帝が天下統一後に度量衡を統一したように、度量衡は古来から国家統一の象徴。
つまり、国家の統一と皇帝の権威を象徴する重要な意味を持つのだと。



麒麟?も触られて黒光り。




                              
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Last updated  2019.07.21 14:32:09
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2019.07.15
カテゴリ:旅行
4日目(6月22日)のこの日も早朝起床、そして我が部屋の窓からは快晴の街並みが。
眼下に見えたのが『沈阳北站(瀋陽北駅)』そして駅前広場。時間は5:39。
市名・『瀋陽』は、「瀋水ノ陽」の意味で、市内の南部を流れる渾河の
古名・瀋水の北に位置することから由来するのだと。
瀋陽市の常在人口は825万人、従来より東北地方の最大規模の都市であり、
東北地方の経済・文化・交通および商業の中心地。

ところで『瀋陽』がどうして『沈阳』になるのであろうか?
陽➡阳は『勿』に似た部分が省略されていることは理解できるが、『瀋』➡『沈』は???
今回の旅行中に学んだ簡体字の主なものは
「貝」➡「」、「頁」➡「」、「头」➡「頭」、「東」➡「」、「風」➡「
「幾」➡「」、「農」➡「」、「聖」➡「圣」、「亜」➡「」、「華」➡「
「衛」➡「卫」、「車」➡「车」、「園」➡「园」、・・・・・等々枚挙に暇なし。
なぜ簡体字ができたかというと、中国は日本とは違い識字率が低かったから。
中国政府は、より多くの人に文字を普及させるため繁体字を簡単にした簡体字を導入したのだ。
中国内陸部では簡体字のみが主に使われますが、正式文書など公式文ではしばしば繁体字が
使われると。しかし、私はこの簡体字の採用には大いに??なのであるが。
古い漢字には、漢字本来の中身・意味が表現されており、その漢字の成り立ちが解るのです。
日本においても、戦後この「旧字体」が簡略されましたが、現在の中国ほど激しい簡略化
ではないので、日本が「旧字体」の漢字の成り立ち、意味を引き継いで守っていくしか
ないのではと思っているのです。



ホテル前そして東側方面のビル群。



『沈阳北站(瀋陽北駅)』前の広場は、緑も豊かに。
葉の色合いも意識した、植栽であること間違いなし。



駅裏にも高層ビル群が。こちらはマンションなのであろう。



そしてこの日も6時過ぎにホテルを出て『沈阳北站(瀋陽北駅)』周辺の早朝散歩へ。
『沈阳北站(瀋陽北駅)』を正面から。
瀋陽北駅は、1986年11月に建設が始まり、1990年12月22日に完成。
駅主体の面積は6万m2で、駅の部分は3階建てになっており、4個のエレベーターと
7個の高架鉄橋があると。
瀋陽北駅は、中国東北地域で一番大きい鉄道運輸駅で、毎日の列車数が多く、最高時で
230以上の本数が運行していると。その為、瀋陽北駅は中国東北第一の駅と
呼ばれているのだと。
瀋陽北駅から至る都市は、北京、天津、上海、太原、広州、福州、ハルピン、長春、
大連、唐山など様々な地域に運行しているのであった。



駅前に通ずる『友好街』を『惠工广场(恵工広場)』に向かって歩く。
『阳光百货(陽光百貨)』の高層ビル。ショッピングモールであるようだ。



有料駐車場の文字は『一类收费泊位』と。
中国の自動車保有台数は2億台を突破し、毎年の自動車販売台数は3000万台近くになり、
毎年確実に増加していると。しかし、駐車場は大幅に不足しており、控えめに見積もっても
5000万台以上の駐車場が不足していて、この数字はさらに増加する見込みだと。



『惠工广场(恵工広場)』のロータリー・信号のない円形の交差点「ラウンドアバウト」。



『惠工广场(恵工広場)』の『友好街』入口のモニュメント。



多くのビルの前には対の獅子(ライオン)像が。
東アジアから東南アジア、南アジアから中東、さらには西欧に至るまで、
実にユーラシア全域に拡散したシンボルはこのライオンなのである。



『惠工广场(恵工広場)』の南側。



昨夜にビルの下まで訪ねた、中国の古代貨幣をモチーフにした『方圆大厦』ビルが前方右手に。



こちらの獅子(ライオン)像は阿吽像であった。
「阿吽」は仏教の呪文の一つで、その由来としては、インドのサンスクリット語で始まりの文字が
「阿(あ)」、終わりの文字が「吽(うん)」となっており、「宇宙の初めから終わりまで」を
示しているのだと。



駅前のバスターミナル。



『方圆大厦』ビル近くまで行く。



そして駅前の地下道を潜り『沈阳北站(瀋陽北駅)』舎に向かう。



地下道には様々な観光用ポスターが。
『国门名山 丹東鳳凰山』
遼寧省丹東市鳳城市にある名山。「箭眼」(チェンイェン)と呼ばれる最高点の海抜が836m。
遼寧省の四大名山(他は千山、医巫閭山、薬山)のひとつ。
丹東はこの日の翌日に訪ねる都市なのであった。



花崗岩でできた連山の絶壁に張り付く歩道。



巨大な吊橋も。そして吊橋の中にも階段が。
旅友Sさんにもぜひ歩いて欲しい吊橋なのであったが・・・。



そして『沈阳北站(瀋陽北駅)』構内へ。
時刻表と空席状況が表示されていた。



自動券売機。ネット予約のチケットもこの機械で受け取るのであろう。



こちらは有人の日本風・みどりの窓口。
多くの中国人がきちんと列を作っていたが、中国人同士では横入りはないのであろうか?



そしてその隣には直ぐに安全検査のゲートが。
我々切符を持たないものは中には全く入れない仕組み。
『实名验证(実名験証)』の文字も。
中国には「中国大陆火车票实名制」と言われる制度があり、いわゆる和谐号などの鉄道
(G、C、Dの頭文字を持つ便)に乗る際に実名による登記が必要になるという制度であるのだと。
一説には「鉄道事故が起きた時に誰が死んだか分からんから、すぐに分かるように全員登録制に
している」という、まことしやかな噂もあるのだと。



安全検査を通過すると、エスカレーターで待合室(スペース)に上がれるようであった。



X線検査装置に荷物を入れる乗客たち。
新幹線のX線検査は金属類については飛行機の国際便より厳しいと感じたのであった。
やはり飛行機と異なり、新幹線車内でトランクからでも取り出せるからなのであろうか?



瀋陽北駅前の広場のオブジェ。
鳳凰の姿であろうか、ここが人口約 825万人以上の省都の玄関前。



広場一面のタイルが濡れていて雨が降ったが如く。



しかし散水車と洗浄車が朝の清掃の真っ最中であった。
散水車がゆっくりと水を出しながら、動いていた。



回転ブラシが前方に2個ついた洗浄車。



瀋陽北駅前の広場全面が洗浄対象、徹底的な清掃作業なのであった。
日本では、最近散水車は偶に見るが、回転ブラシ洗浄車はほとんど見ないのではとも。
札幌や函館で昔『ササラ電車』は見たことがあるが。



そしてホテルに戻り朝食を取り、8:30にこの日の沈阳(瀋陽)市内観光のスタート。
最初に『張氏帥府』の観光に向かう。車窓には『方圆大厦』ビルが再び見えた。



早朝散歩とは逆ルートで『惠工街』を『惠工广场(恵工広場)』に向かう。



バスの中から高層ビルを。



『惠工广场(恵工広場)』ロータリーを走る。



時間は8:37。



『中国銀监会沈阳干部培訓中心』ビル。



『性の体験』とはどの様な看板???



『広宜街』。



『辽宇煤矿安全監察局』。



『正阳街』を南に進む。



『正阳街』の寺院の如き建物。



道路の渋滞が既に始まっていた。



『沈阳新恒基国际大厦』とその手前に復元された撫近門(大東門)も見えた。
 


『趙一荻故居』。
張学良が夫人の為に建設した住居。



瀋陽の『張氏帥府』の大青楼の外観
ここは張学良旧居張作霖と長男張学良の官邸兼旧邸宅。
張氏帥府はまたの名を「大帥府」もしくは「小帥府」といい、遼寧省瀋陽市で有名な観光スポット。
1914年に張作霖によって建てられた。その後も増築によって、主に大小の青楼と西院の紅楼、
そして張四小姐楼から構成されている。
それぞれの建築デザインは中国伝統建築やヨーロッパの建築など多種多様。
全国優秀近代建築群とされ、1985年には瀋陽市人民政府に市の文物保護に指定された。
張親子ここで政務を執り、諸外国の要人と会談。内部に入ると歴史の波に巻き込まれる親子の姿を
垣間見えることができるのだと。
しかしこの日は外観のみで、中に入ることは出来なかった。



1918年から1922年までに建てたこの建物はローマ様式で、耐火煉瓦となっていると。
張作霖が日本軍に爆殺されて瀕死の重傷を負ったとき、この建物に運ばれたと。



歴史を感じさせる小路。



チケットオフィス。



『張氏師府』入口。
戦時中まで「奉天」と呼ばれていた瀋陽の軍閥、張作霖とその息子で中国統一に
大きな役割を果たした張学良親子が住んでいた邸宅跡。
彼らはここで関東軍の要人や外国からの商人との面会、政務を行っていた。



瀋陽故宮の近くの瀋陽路にある『張氏帥府』の入り口に立つ
『张学良将军』像。



『張学良』は中国の軍人・政治家。海城県(遼寧(りょうねい)省)の人。
(あざな)は漢卿(かんけい)。張作霖の長男。父の爆死後、日本の反対に抗して、
国民政府のもとで全東北の実権を握ったが、満州事変によって下野。
外遊後、内戦の停止、抗日救国を要求して蒋介石を監禁する西安事件を起こしたため、
禁錮刑に処された。



 49年蒋介石の台湾逃亡に伴い張も連行され,90年まで自宅軟禁状態にあった。 
94
年名誉回復,同年ハワイに移住した。



『沈阳故宮博物院』と書かれた門。



張氏師府西院紅楼群 一号楼
九・一八事件(満州事変)後の建築された西院の紅楼群は6棟に及ぶが
瀋陽市文化局が使用しているようで公開はされていなかった。



敷地の右側にあったのが『張氏師府西院紅楼群 六号楼』



この八ッ菊紋に似た紋章は?



美味しそうなブドウが露天で売られていた。




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Last updated  2019.07.21 14:31:33
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2019.07.14
カテゴリ:旅行
バスは长春西站(長春西駅)に到着。
ここから新幹線で沈阳(瀋陽)に向かうのであった。時間は13:11。



バスを降り、トランクを転がして駅舎内に向かう旅友達。



長春西駅構内。



荷物のセキュリティーチェックに向かう。



出発案内板。



エスカレータで待合室に向かう。



新幹線の出発時間は16:00、かなりの時間がありしばし待合室で。
待合室の上にはレストランや喫茶店がありそうなので散策開始。



駅前広場。明かり採りがあるが、地下は駐車場になっているのであろうか?
その奥にはマンション群が拡がっていた。



ここはタクシー等の待合場所。



待合室の中には土産物屋も。
コーヒーを飲める場所が1箇所あったが、専用カード保有者のみの会員制の
喫茶店であったので入場出来なかった。



線路が下に見えた。



待合室の中にあったカラオケボックス。
電話ボックスを大きくしたようなカラオケボックス、しかし2人が限界か。



この日の瀋陽北駅(沉阳北站)までの私の切符。
300kmの距離で約91.5元≒1500円。



利用する便は北京行き16:00発の16両編成。



そして漸く出発10分前の15:50前に改札開始。



5番ホームで新幹線の到着を待つ。
この新幹線の始発駅は『齐齐哈尔南(チチハル南』。
齐齐哈尔南12:53発~ハルビン14:30~長春西16:00~瀋陽北17:27~北京22:22と
約2000kmを約9時間30分で走っているのだ。



新幹線D-30が定刻に入線し10号車の指定席に乗り込む。



『长春绕城高速線』が下に。



田園地帯がひたすら続く。



『京哈高速』料金所。



『四平東駅』を出る。



山の上には風力発電が。



『辽河』を渡る。



『铁岭西站』を出る。



『新开河』を渡る。



そして瀋陽(沈阳)の街並みが見えて来た。



『沈阳北站』に到着。



乗降客の数は比較的少なかった。



改札出口での切符確認はなし。駅の外に向かって進む。



『沈阳北站』前に出る。



2連泊のホテル『沈阳珀丽酒店』が駅前に見えた。



ホテルに向かって徒歩で向かう。



そして5分ほどでホテルに到着。
現地添乗員王さんがチェックイン手続きを。



ロビー。



部屋の前の通路には一面に養生用の布が敷かれていた。
絨毯のメンテ中だったのであろうか?
しかし、もう少し汚れていないものを敷いて欲しかったのであったが。



そして我々の部屋。時間は17:46。



しばし休憩後は、バス似て夕食会場へ。



街並みには高層ビルが林立。



夕食は瀋陽料理の店『興隆軒』。



餃子が人気の店と。



店に入ると魚介類が。



様々な魚も。



この日は、この店の人気の餃子を楽しむ。



焼餃子も。



スープは味が薄かったが。



そして水槽に泳ぐ生魚。



店を出ると漸く暗くなり、時間は19:57。



ホテルに戻り旅友とスーパーマーケットで瀋陽の大手スーパー「家楽福」(カルフール)を
覗きに行く。
瀋陽北駅の近くにある有名なランドマークの建物『方圆大厦』は中国の古代貨幣をモチーフに
した建物




吉野家もあった。



果物売り場を除く。
メロンが山積み。



椰子の実であろうか?



ドラゴンフルーツ。



缶ビールのロング缶を4本そしてアメリカンチェリーを購入しホテルへ。
『方圆大厦』のライトアップを楽しみながら。



別の角度から。
外見がとてもユニークであり、多くの企業に大変好まれている。日系企業も入ってるらしい。



そしてホテルの部屋に戻る。
部屋から窓越しに『沈阳北站』をズームで。時間は21:30前。



そして缶ビールに片手にこの日は隣の部屋の旅友2名も誘って1.5時間ほどの反省会。

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Last updated  2019.07.21 14:30:33
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2019.07.13
カテゴリ:旅行
『偽満州国皇宮博物館』を後にし、『南广场(南広場)』を通過し
『胜利大街(勝利大街)』を進む。



『横浜正金銀行旧址』。 横浜正金銀行は旧東京銀行の前身。
旧横浜正金銀行新京支店は、長春駅にほど近い勝利大街に残っていた。
1920年の建築、正面に配された4本のイオニア式オーダーが目を引くのであった。
旧横浜正金銀行といえば、この後大連にも歴史建築として残っていた。
当時は中国の各地で外国為替業務を担っていたのだ。中国に21か所存在していたと。
この建物の興味深いところは、玄関の「横濱正金銀行」という社名表示が当時のまま
残っているという点。
地上2階、地下1階、延べ床面積約1534㎡(465坪)。構造:煉瓦造。
様式:ルネサンス様式。設計者:中村與資平。施工者:清水組。



交通ルールを守らず、我が物顔で車線を歩く人々の姿。



右手前方に『长春站(長春駅)』南口が見えて来た。
1907年(光緒33年)113日:長春駅が貨物駅として開業。
1907年(光緒33年)121日:旅客駅業務開始。
1913年(民国2年):満鉄が32万円をかけた4,000平米の待合室が完成。
1932年(大同元年)314日:長春市が新京市に改称したのに伴い新京駅と改称。
1945年:第二次世界大戦で日本敗戦、満州国解体の為長春駅と改称。
1992526日:旧駅舎解体。
1995年:新駅舎完成。



少し進んで。



『長春鉄路办事处』、ここは『旧满铁新京支社』。



人民大街を南に進むと前方左手の建物の屋上にはロケットの如き物体が。



『吉林省省直機関第一幼児園』



『胜利公园』の毛沢東像。



『北安路』。



『中国人民銀行』



人民広場の『苏军(ソ軍)烈士纪念塔』。



人民広場横の『長春市公安局・長春市国家安全局』。



そして昼食会場で長春の郷土料理を楽しむ。



そして『神武殿旧址』の見学のためにバスを降りる。



『長春市牡丹園管理所』とも。ここは牡丹の名所でもある。



「旧関東軍司令部、旧東本願寺新京別院とともに長春に残る純日本式建築物の代表的存在。
「神武」という名称から現地では神武天皇を祀った施設という誤解があるが、もとは1940年に
できた日本式武道館である。竣工時内部は柔道場や剣道場、相撲の土俵があったが、現在では
吉林大学の「鳴放宮(講堂)として利用。設計は満州帝国武道会技師宮地二郎、
施工は満州竹中組。」



「紀元二千六百年」を記念して完成した「神武殿」旧址。
神武殿旧址は1990年、長春市の重点文物保護単位(重要文化財)に指定されたものの、
まもなく吉林大学が移転すると建物はひどく荒廃し、屋根には雑草が生い茂るありさまと
なったが、二年前の修復作業によって旧観を取り戻した。
しかし、日本帝国主義を象徴するこの建物をどう「活用」するのか、当局もまだ目処が
立っていないのだと。牡丹園の華やかなにぎわいとは対照的に、訪れる人もまばらな
旧神武殿の正門はこの日もぴったりと閉じられ、重苦しい雰囲気を漂わせていた。



前庭の植栽の中にあった石碑。



『吉林大学 四十周年校庆(創立)紀念』の文字が。



『日本神武殿旧址』。



園内には牡丹(ぼたん)・芍薬(しゃくやく)など約二百六十品種・一万一千株が、
七種の色に大別されて植えられていると。
満開になる5月下旬には一日およそ十万人の観光客が来園すると。
この日は既に花は完全に終わっていた。



長春の雨水マンホール。



『中国农业发展銀行(中国農業開発銀行)』。



そしてこの日も『解放大路』沿い『文化広場』前を通過。
右手には髪をなで上げた女性像が。



三角形のモニュメントとその下に手を広げた男性像が。



『新星字集団』ビル。



『解放橋』を渡る。
下には長春駅に繋がる鉄道線が。



『解放大路を西に進む』。



『吉林民政』ビル。



『長春市工商行政管理局』。



『市場監督管理』ビル。



『長春市緑園区人民检察院』。



景阳第街と和平大街の交差点には前日も見た赤いモニュメントが。



景陽大路沿いにあった『長春市第八十七中学』。



ビル前の歩道部分は駐車場になっていた。
中国民生銀行(右)と融泰村镇银行(左)。



西环城路との交差点を左折。



南阳路を西に進み『長春西駅』を目指す。



白いマスコット人形の如きものが道路の真ん中に。
それともロボットのモニュメント?ハイテク工場がこの先にあるのか?



長春西駅に近づくと路面電車が前方に、そしてその手前にはトラクターが。



長春西駅から出て来た路面電車。
長春有軌電車(长春有轨电车)と呼ぶ路面電車で1940年に新京交通株式会社として設立され、
翌1941年11月に最初の路線を開業させた。
中華人民共和国成立後には長春公交集団電車公司に移管されたと。



長春西駅手前からのマンション群。




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Last updated  2019.07.21 14:29:19
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