2005/02/17(木)19:58
どこから来ても「わざわざ」です
昔読んだ小説で
黙って少年に会いにきた、学校にいけなくなった少女に対して
なんで黙ってくるんだ、
ちゃんと相手の都合をきいて会いに来いと俺はいっただろう、と
しかりとばす少年の場面があり、
きいていた母親がうろたえて、
わざわざ○○からきてくれたのだからとたしなめるのを、
どこからきてもわざわざだ、
と少年は一蹴するのです。
確かに遠い地域からはたまた外国から?
でかけていくというのは大変で、そのとおりですよね。
でも相手が空間的移動をしてないからといって
楽をしているわけではなくて
相手のひとだってわざわざその人に会う時間や手間をとるわけなのです。
「わざわざ」に経た距離や、費やした金銭の額だけで
その人の気持ちの大事さが測れるわけではないですね。
そんなことをいっていたら
いちばん「わざわざ」ができるのが
遠くに住んでる人やお金持ちになってしまうという
変な話になってしまいますし
ともすれば、おしつけがましいわざわざになってしまうと思います。
どこまで「わざわざ」かどうかを判断するのは
受け取る相手側であって
わざわざの中身の真の誠意を
どれだけ相手が感じられるか、による気がします。
尚、この場面が登場する本というのは
「少女の器」です。
自分が読んだのは大学生のときでしたが
ほんとうのやさしさとは何か?ということについて
ものすごく考えさせられた本でした。
しかしこの本の中にでてくる手作り料理が
すごくおいしそうだったのも印象深かったなあ・・
版画家のお父さんが料理がうまくて
主人公の娘も相当の腕前なんです。