久しぶりに「ファラン」という単語を聞いた。
何だったかな、何か頽廃的な香りのする言葉。記憶を探り出してみると、南国の微温い空気、甘い花の香りがする。湿った森の中、記憶の中で低い唸りを纏って羽虫が飛んでいる。そっちへ行ったらだめだよ、その花は食虫植物だ。捕らえられて、身が溶かされる。「ファラン」この言葉を聞いたのは20年以上前だ。
今日、Xでもっさんという人が呟いていた。
お前さん。パタヤって知ってるかい?タイの南国の楽園だよ。ビーチがあって、酒があって、夜の女がいての歓楽街だ。そこに集まるのが、「ファラン」、欧米の白人連中だ。特に男どもが多いんだが、どうにもこうにも、自殺する奴が後を絶たねえって話だ。なんでだと思う?ちょっと耳を貸してみな。
まずな、パタヤってのはヤツらには夢の国なんだよ。ヨーロッパやアメリカでブルシットな仕事して、寒い冬に震えてたジジイどもが「もういい加減、南国で楽に暮らそうぜ」とばかりにやってくる。家売って、年金握り締めて、ビザ取って、コンドミニアム借りて、若い女とイチャついてさ。最初は天国だよ。
「こんな暮らしができるなんて!」ってね。ところがだ、人間ってのは慣れる生き物だ。楽園も毎日続くと、飽きちまうんだよ。で、そこからが問題だ。金は減る一方だろ。年金だって無限じゃねえ。ネエちゃんに貢いで、酒飲んで、パーティーしてたら、あっという間にスッカラカンだ。
しかも、パタヤに沈没しちまったファランは、母国に帰るって選択肢がねえんだよ。家は売っちまったか、もう縁も切れてる。友達も家族も遠く、彼岸の向こうだ。孤立無援ってやつだな。それだけじゃねえ。健康もガタがくる。歳取ってりゃなおさらだ。
暑い気候、酒の飲みすぎ、女遊びのしすぎでドーピングの薬も飲み過ぎ、心臓はボロボロ、肝臓は悲鳴を上げてる。病院行っても金はかかるし保険も高ぇ、先天性の病気抱えてる奴も少なくねえ。そこに精神的な疲れが重なるわけだ。夢見てきた楽園が、だんだん牢獄に見えてくるんだよ。
でさ、有り体に言やあ、こういう連中は「生きてる意味を見失っちまう」んだよ。母国じゃ仕事や家族でなんとか自分を保ってたのが、パタヤじゃただの浮浪者同然だ。誰も褒めてくれねえし、誰も頼ってこねえ。寂しさと絶望がじわじわ首を絞めてくる。それで、ある日ふっと、「もういいか」ってなる。
バルコニーから飛び降りたり、首吊ったり、銃で頭撃ったりさ。統計なんざねえけど、新聞じゃしょっちゅう「ファラン男性がまた自殺」って見出しが出るんだ。さらにだ、パタヤってのは刺激が強すぎる街だぜ。昼夜問わず騒がしくて、ネオンがギラギラしてて、感覚がおかしくなる。
あの喧騒の中で孤独に飲み込まれるんだから、なおさらだ。享楽の果てに虚無が待ってるってわけ。お前さん、享楽ってのはな、ほどほどにしとかねえと命取りなんだぜ。結論言うと、パタヤでファランが自殺するのは、「夢の崩壊」と「孤立」と「現実逃避の限界」が合わさった結果だよ。
楽園に逃げてきたつもりが、結局自分からは逃げられねえんだ。人間、どこ行っても自分背負ってんだから、逃げ場なんざねえよ。笑えねえ話だな、おい。
って昨日アイリッシュバーで隣に座ったおじいちゃんが言っていました。
大沢たかおの『深夜特急 番外編』で出して欲しい話。
サラリーマンになった大沢たかおが、
かつての旅を思い出し、急にもらった休暇でパタヤを訪れ…。
人は自分自身から逃れられない。
みんな毎日いろいろあるけど、どうにかして自分の形を保って生きてるんだ。
そう書き込んで、私はなぜこの言葉を知っているのか考えた。思い出そうとしても思い出せない。ただ、この言葉を知らない人生を歩む人物の方が幸せな気がした。同居人にファランを知っているか尋ねたが知らないという。「それは何」と聞くのでXの投稿を読み上げた。まったく心を動かされていないように見える。そう、こんな言葉を知らない方がいい。この言葉を知らない人の人生のほうが順道だろう。
昔聞いたことがある。パタヤはファランとタイの幼女が出会う場所、エイズ蔓延の盛り場。
パタヤはベトナム戦争で戦うアメリカ兵の保養地R &R「休養と回復 (rest and recuperation)」として発展した土地、アメリカ海軍が去年は6,000人静養し、今年2025年は1月27日から31日まで5,400人が駐留した。彼らがいなくなると、中年以上の白人男性と若い幼い女性のカップルが街に戻ってくるのだろうか。
ノスタルジックなバー、店内で緩く空気をかき回すシーリングファン、向こうのビーチで明らかにティーンエイジの少女の背中にオイルを塗る白いブヨブヨとした老いぼれの姿が目にとまる。私はすでに、その風景の中にいる。今夜は何を食べようか、どこへ繰り出そうか。一人旅だと食べられるものが限られて不便だ。
人生の終わりに、若い命を弄びたい気持ちは全く分からない。分からないが、また一人で何処かへ行ってしまいたい気持ちがひりつく。此処ではない、どこか。もう若くないのに、若くないからこそ、生きている僅かな時間を惜しみたい。
一人旅はいい。毎日移動して、生きていくだけ。前後の安全を確認し、薄汚れ現地に溶け込む身なりになっていく。ただ、神経は研ぎ澄まされ、魂は少しずつ磨かれる。自分の核に近づいていく感覚。人生は選択でできているのを思い知らされる。あのマーケットの先に行ってはダメだ。売人がたくさんいるエリアに出る。引き返せ。
どの道をいくのか、正しい道を選択しないと、その先に死が待っているかもしれない。しかし、これが生きている感覚だ。すべてが自分の選択に委ねられる緊張感が欲しい。
タイマーが鳴って、ふいに現実に引き戻される。米の炊ける匂いがする、少し焦げているかもしれない。今夜は鱈の鍋。白菜の凹凸に油虫、もうすぐに暖かい季節。
みんな毎日いろいろあるけど、どうにか形を保って生きている。
時々思う、私は今、人の形をしているだろうか。