生きていくこと 1
今さらではありますが ふと気づけば、53歳 。我が身を振り返り、そうか、自分も50代中盤に差し掛かるのだと(柄にもなく) 感慨深くなりました。20代前半は、ただただ仕事で精一杯。27歳になる直前で結婚、そして29歳で出産。この出産が、自分という人間を本当に大きく変えてくれた、と感謝しています。1人の命を預かるということがこんなに大きく、重いことだとは…恥ずかしながら実際に出産するまで知らずにいたのでした。身体もそう強くはなく、出産を諦めかけてもいましたが夫と結婚し、ともに暮らしていく中で彼の血を引く人にどうしても会いたくなったのです。彼のような人がもう1人この世にいたらどんなに嬉しいだろう、と思いました。それを思いましたら 怖ろしい出産さえも乗り越えていけるのではないか、と。・・・・今では夫にそっくりな娘が傍にいてくれその有難さをしみじみと噛みしめています。50代になり、いえ、もっと言えば 病を得て気付かされたことが多くあります。自分自身、子どもの頃からおとなしくいるかいないか分からぬタイプでしたからバレエの舞台で言えば群舞、時代劇で言えばその他大勢の切られ役、・・・そういうタイプでした。今もそうです。だからと言って奮起するかというとそういう気持ちにもなれず偶然ライトが当たったりしますとど、どうしよう、とどぎまぎする・・・そんな人間だったように思います。それは今から48年ほど前、幼稚園の遠足での出来事でした。お弁当のあとの自由時間、私は虫取り網を手に蝶々を追いかけたのですね。あともうちょっとで捕まえられる…!と思い、一生懸命走り続けるのですが走れど走れど蝶に追い付けないのです。「 頑張れ、頑張れ 」と自分に言い聞かせながら蝶を追いかける最中それまでの1年間にわたる幼稚園生活が次々に思い起こされるのでした。入園式……たくさんのお友達に囲まれ、右も左もわからぬ状況で先生が「お名前を呼ばれた人は○○組さんに行ってください。」と仰るのですがまずもってその「○○組さん」という概念が理解できていませんでした(笑)。隣に座っていたMちゃんが私の名札を見、「今、名前を呼ばれたよ。○○組さんに行かなきゃ。」と教えてくれ、一緒に教室に入ってくれました。( そのMちゃんとは数か月後のお遊戯会にて 一緒に、絣の着物を着て紅花摘み唄を踊ることに。)給食の準備をするとき、自分も頑張らなきゃ!と思い牛乳瓶を抱えていましたらお友達が悲鳴を上げながら近づいてきて、「○○ちゃんはこれを持って!」と手渡されたのが「ストロー」。軽い、かるぅい「ストロー」。たとえ落としても何の影響もないであろう「ストロー」。 昼休み時間、本当は大きな大きな積み木で遊んでみたかったのですがそれはみんなに大人気で、私はいつも教室の隅で粘土遊びをしていました。粘土でお団子を作りながら、ちらと積み木の様子を見るのですが結局は…卒園するまで一度も積み木で遊ぶことは叶いませんでした。ハサミもうまく使えない、でんぐり返しもできない、身体も1番小さい。そしてクラスで1、2を争うほどのおとなしさ。まさにないない尽くしの1年間、これには弱り果てました。それでも せめて目端の利く性格でしたら良かったのですが忘れもしない、それは秋の避難訓練の時のこと、お昼のお弁当の後、担任の先生が「今日は避難訓練があります。」と仰るのですね。「もうすぐベルが鳴りますから、逃げるときには上履きのままでね。」とも仰るのです。まず私自身、「避難訓練」の意味が分かっていなかった(笑)。そこにもって、いきなりけたたましいベルの音。「逃げますよ!」と仰る先生。慌てる私。上履きのまま園庭に出、ブロック塀をよじ登る。よじ登りながら、子ども心に「先生、すごい‥‥。」と思った。先生が「もうすぐベルが鳴る」と仰ったら、本当にベルが鳴った。先生は預言者なのかもしれない。きっと、今日のこの訓練を何度も受けてきたからだろう。( 違ふ )私も頑張って、預言者になろう。↑ 余談ではありますが、目端の利くどころではないこのような傾向は小学校に入学したのち さらに遺憾なく発揮されることとなります。入学した小学校は城跡に建っていたのですがその敷地内にある石垣から、メリーポピンズよろしく傘を持ってふわりふわり 飛び降りようとしたこともあります。↑ ここです、ここ。普通、ここから飛び降りてみようなどという発想は生まれないはずです。ようこそ 今日まで生き永らえさせていただいたことです。 ( 画像は宮崎観光ナビ!様よりお借りいたしました。 )小学校での算数の授業では、最初、おはじきを使っていたと記憶しておりますが授業中、先生が「おはじきをお皿に出しなさい」と仰るのですね。それで皆ざらざらと自分の小皿の上におはじきを出すのですが、私自身、その雑然と出されたおはじきを眺めつつ、こう思ったのです。こんな雑な出し方では、ぱっと見たときにおはじきがいくつ並んでいるか分からないではないか。これでは問題を解くときに無駄な時間がかかってしまう。‥‥そうだ、おはじきをきちっと並べ、いくつあるかすぐ分かるようにしよう。そう思い、小皿の上のおはじきを整然と並べ始めたのですね。そうしましたら、いきなり先生に頭を叩かれたのです。こ、これにはびっくりしました。先生からすれば、クラスの皆、きちんと前を向いて先生の話を聞いているのに私だけ下を向きおはじきで遊んでいる…おそらくはそんな風にうつったものでしょう。おはじきの並べ方について6歳なりに考えた上記の工夫など先生に伝わろうはずもなく、先生にお叱りを受けながら「自分の考えが、他の人にそのまま正しく伝わるとは限らないんだ」と思ったものでした。・・・話が逸れました。「 頑張れ、頑張れ 」と独り言ちながら 変わらず蝶を追って走り続けていましたがふと「 やっぱり、私には無理だな。」と思うわけです。でんぐり返しもできなかったではないか。お遊戯会の劇「 ヘンゼルとグレーテル 」では赤ちゃん役だった。マーチングではバトンをやってみたかった。でも駄目だった。マーチングでは自分がどんなパートになるかひとりひとりいろんなテストを受けるらしい、とクラスのみんなが話していて自分なりに一念発起、バトンのいくつかの技をひそかに練習、なんとか習得することもでき来たるべきテストに備えていたのだけれど、結局そんなテストなど全然なく、パートについては先生方がさっと決めてしまわれた。案の定、私はリコーダーだった ^_^; その時のちょっと寂しいような、悲しいような気持ち。・・・・そんなことを思い起こしながら追っていた あの時の蝶の羽の色、足元、風に靡いていた草の緑。48年経った今なお鮮やかに覚えています。( 続きます )