2016/01/01(金)21:50
間に合わなかった
昨夜 ご家族の方からお電話を頂き
「もう時間の問題です。」と言われた。
夫が
「家のことは任せろ。
とにかくおまえは○○さんの所に行け!」と言ってくれた。
時計を見ると午後10時前。
最寄りの駅の時刻を確認し
とるものもとりあえず電車に飛び乗る。
あまりにあわてていたので部屋着のまま。
手に持っていたのは小さなバッグだけ。
その中には辛うじてお財布と家のカギ。
髪もとかず、上着も羽織っていないことに気付いたのは
電車に乗って1時間経った頃だった。
電車の中で
このまま病院に行くことは可能だけれど、
今度は、折り返し、病院から我家に帰る電車がないことに気付く。
順調にいけば 夜中の12時までには病院に到着できるだろう。
けれど、それから我が家に帰る電車はおそらくない。
ええままよ、と思った。
いざとなれば
病院近くのビジネスでも何でも飛び込める。
明日の始発で我が家に帰って
何とか娘を学校に送り出せばいい。
今はとにかく間に合ってくれ、と
祈るような気持ちだった。
電車を降り、タクシーに。
「○○病院」と近場の病院名を告げると露骨にいやな顔をされ、
その運転手に質問を2,3するけれども一切無視される。
病院にたどり着いたが夜間入口がどこにあるのか分からない。
半泣き状態になりながら建物の周りをぐるぐる回り
やっとの事で入口を見つけた。
入口に入ると警備の方が「何階?」と訊いてくださる。
思わず大声で「ホスピスです!」と答えると
何もかも察してくださり
エレベーターへの道順を丁寧に教えてくださった。
教えて頂いたときには分かったつもりだったのだけれど
やはり動転していたのだろう。
何回も通ったことのある廊下だったのに
エレベーターへの道順がまたもや全く分からなくなってしまった。
迷っている私に 今度は看護婦さんが
「こちらです!」といって連れて行って下さった。
本当に有り難く、涙が出てきた。
ホスピス病棟に入り、廊下を進んでいく。
廊下や病室が
静まりかえっているのが気になった。
廊下に立っておられた方に
「・・・○○さんは?」とお訊きすると
その方はうなだれて首を横に振る。
病室のドアを開けると同時に
・・・先生の「ご臨終です。」の声がきこえた。
間に合わなかった・・・!と
その場に立ちつくした。
・・・その前の日、友人を見舞い
「じゃ、そろそろ失礼しますね。」と言ったときに
友人が
「今度は葬式で会おう!」と明るく手を振った。
・・・その言葉にどう答えればよかったのだろう。
私はそれには頷かずに
「また、逢いに来ますから。
必ず来ますからね。」と 笑顔で答えた。
それでも友人は再度
「次は葬式な!」と 笑顔で大きく手を振る。
今にして思えば
それが友人の声を聴いた最後だった。
照れ屋の友人だったからこそ
そういう言葉で、この世での最後の挨拶をしてくれたのだろうか・・と
今なら思い当たるのだが。
最後に交わした会話が
「また必ず来ます。」だったからこそ
どうしても約束を果たしたく駆けつけたけれど 間に合わなかった。
・・・ご家族や身内の方々がベッドを取り囲む中、
他人の私がいては皆様にご迷惑をおかけすると判断し
すぐに病室を失礼する。
帰りのタクシーの中ではたまらず泣き出し
事情を察してくださった運転手の方が
「間に合わなかったとしても
お友達、きっと喜んでくれてますよ。」と言って下さった。
駅に着き、最終に近い電車に乗ったまではよいのだけれど
この電車、我が家まで行き着く電車ではない。
途中で電車が終わってしまうのだ。
そこから先は、翌日の朝5時過ぎまで待たなければ
電車は一切ない。
・・・途方に暮れていたときに携帯がなり
パパが
「西明石で電車終わってまうやろ?
そこまで迎えに行ったるから改札口で待っとき。」と
言ってくれた。
パパも仕事で疲れているだろうに 私を送り出してくれ、
「○○さんに「また来る」って言ったんやろ?
約束は絶対に守らなあかん!はよ病院に行ってこい!」と言ってくれ
そして今、こうやって
夜中の改札口にまで迎えに来てくれる。
本当に有り難い・・・と心から感謝した。
パパも、土曜日の午後に病院にお見舞いに行くつもりでいたので
友人の亡くなったことを聞き、落胆していた。
帰りの車の中で 2人、ずっと無言のままだった。
間に合わなかったのは本当に悔しく、後悔として私の中に残る。
そしてひとつひとつ、
あのとき、病院の夜間入り口をうまいこと見つけられなかったから・・・とか、
駅の構内をもっと速く走れば良かったとか
切符を買うときに手間取ったからとか
病院の中でエレベーターを早くみつけられなかったから・・・とか
どれかひとつでもスムーズにできていれば間に合ったかもしれないと
思い起こすたびに、胸が痛くなる。
・・・友人は本当に穏やかな、優しいお顔で眠っておられた。
間に合わなかったけれど
生きておられるうちに せめてもう一度だけでも
言葉を交わしたかったけれど
タクシーの運転手さんが仰って下さったように
もしかしたら
今、私がこんな気持ちでいることを分かって下さっているかもしれない、と。
生きておられた頃と同じ あの優しい笑顔で
「そんなに慌てて走ってきて・・・。
まあ、おかけやし。」 と言って下さっているのかもしれない、と
友人の安らかなお顔を拝見しながら そう思った。
あなたは
信じ難いほど優しい人だった。
2年半前、毎日メールで励まして下さった。
どんなに嬉しく、心強かったことだろう。
今でも 楽天のログイン画面を見れば
あなたからのメッセージがたくさん遺されている。
「どんな時でも いつでも ぼくは味方だよ。」
その言葉の向こうで
あなたが笑っている。
文字を眺めていると、何だか今でも元気に過ごしているようで。
メールを読み返すと、今にもその声が聞こえてきそうで。
言葉や文字は今も変わらず生きているのに
今も私を励まし続けてくれるのに
改めて思い知らされる。
亡くなってしまうと言うことは
何と 取り返しのつかないことなのだろう、と。