2015/03/23(月)13:14
うつつをぬかすな
実家の母は、私にとって
母親であると同時に信仰の大先輩でもある。
信仰のことについては、常に母から軌道修正してもらっているとさえ思う。
母によれば 生活の中で最も基本に据えるべきは信仰であり
その他のことについては枝葉である、と。
・・・正直に言えば、母の、信仰に対するこのような姿勢を
私自身窮屈に思ってしまう時期もあった。
けれど、自分が家庭を持ち母となり
今度は自分の娘を育ててゆく立場となり
・・ふと気がつけば、母と同じことをしているのである。
ある時には厳しく、そしてある時には諄々と諭すように
この信仰に導いてくれた両親に対し 今は感謝の思いで一杯である。
今年の5月から6月にかけて我が家を襲った大きな出来事。
その出来事を前に「どうしよう」と不安になる自分と
「とうとう来るべきものが来てしまった・・」と力の抜けてゆく自分。
そして、それでも負けてなるものかと身構える自分がいた。
・・我が家の親族は この2、3代遡るだけでも
必ずどちらかの親が幼い子ども達を遺し亡くなっている。
以前は70~80パーセントほどの割合だと思っていたのだけれど
このたび、このことを母と話し合ってみたところ
何と90%以上の確率でどちらかの親が亡くなっているのだった。
その事実を確認した上で私は思った。
親族となり家族となるということは互いに宿縁が深いということであり
背負っている宿命も同じであるということ。
であるならば、我が親族の中において
親が幼い子どもを遺し早くに亡くなるケースが何代にもわたり続いているということは
・・・当然の事ながらそれらのことは我が家においても十分起こり得ることなのだと。
もしも今世において 私たち夫婦のうちどちらかが早くに亡くなった場合
おそらくは過去世においても、そしてまた更に前の世においても
私たち夫婦は同じ事を繰り返してきたのではないだろうかと。
(ここからはあくまで想像でしかないのだけれども)
ある時は夫が先に逝き、そしてある時は私が先に逝ったかもしれない。
若くして配偶者を亡くすという運命をお互いに持っているが故に
生まれてくるそのたび毎に悲しみにうちひしがれる。
・・・そんなことをつらつら思いつつ
もう、そんな繰り返しは止めようではないかと思った。
何のための繰り返しなのだと。
生まれてくるそのたびに同じ事を繰り返していいのかと。
自分の持つ運命を劇的に変えゆくための信仰ではないのか、と。
・・・信仰とは、およそ心の平安とか、癒しとか
そういうもののためにあるわけではないと思っている。
祈りを叶え、宿命を転換し
自分もそして他人をも幸せにしていくためのものである。
極楽浄土の存在も全く信じてはいない。
何処か西の方角にある・・?馬鹿な。
浄土も穢土も全て、自身の内奥に在る。
社寺に対しても、歴史的建造物として見ることはあっても
信仰のための参詣場所として見ることはない。
私自身、染色やお茶、お着物など
美しいもの、殊に日本的なものが好きである。
これは幼い頃から変わっていない。
しかし、母はことある毎に
「そのことだけに没頭しないように」と言い続けてきた。
そういう母に対し、多少反発したいときもあったのだけれど
それでも、今年5月から6月にかけ我が家が大変な状態に陥ったときに
日頃慣れ親しんでいたはずのお茶やお着物など
美しく、心惹かれていたものは心の支えとはなってくれなかった。
自身を奮い立たせてもくれなかった。これは事実である。
その時になって初めて
母の「美に没頭してはいけない」という言葉が胸に響いた。
改めて、自身の生の根本に据えるべきは信仰であると気付かされたのである。
・・・私自身、とにかく可愛いもの、愛らしい小物が大好きで
自分で手作りしては少しずつ販売していた。
ランチマット、コースターなどのテーブルウェアから
バスマットやキッチンマット等に至るまで
自分の好みの品で生活空間を彩ってもいた。
・・・しかし、和洋に関わらず
自身の好む美しいもので暮らしを豊かに彩ったとしても
それは自身の外側に何かをくっつけたに過ぎず
時間の経過と共に、少しずつ色褪せてゆくのだった。
人生の先輩である母は「美に没頭するな」と言う。
そう、美しいものを暮らしの中に取り入れることは決して悪いことではない。
むしろ女性として当然のことと思う。
けれど、それだけではいけないのだと母は教えてくれたのだった。
つまりは (厳しい言葉ではあるけれども)
「うつつをぬかすな」ということである。
この5月から6月にかけて 家族ともども深く悩み続けたことは
まことに有り難いことであった。
このことがあったが故に
普段の自分たちの在りよう、これからの心構えについて
改めて考え直すことが出来た。
・・・おそらくは私自身、
これからも美しいもの、愛らしいものに心惹かれることと思う。
そしてお茶やお着物など、殊に日本的なものに関しては
我が家の暮らしの中に更に深く入り込んでくることだろう。
しかし、そのことだけに心奪われるのではなく
自身の中に確固としたものを据えた上でのことでありたい。
このたびのことで痛感したように 「生老病死」のうち
「病や死」の前では、日常の美しいものなどさほど役には立たなかった。
・・・あれほど、母が繰り返し忠告してくれていたにもかかわらず
この年になって初めて痛感したことではある。
現在42歳。
この年齢で、今更ながら上記のことについて痛感したことは
もう手遅れなのか、それともまだ間に合うのか定かではないけれども
これらのことについて考え直すことの出来るまたとない機会を与えられたことに対し
深く感謝していきたいと思う。