2012/01/29(日)17:05
生きるということ
4月から本格的に始まる仕事を前に
現在、その準備に追われている。
英語の添削指導ということで・・・
錆び付いた頭を再度フル回転させつつ
英語の教科書・参考書とにらめっこ。
一体どんなお子さま方との出会いがあるか
楽しみな気持ちでもある。
未来に向かってひたすら進む自分と
今までの整理を始めようとする自分がいる。
再発したとて今すぐどうなるものでもないけれど
いつ何が起こってもよいように、まずは住所録の整理を始めた。
さすがの私でもそれは考えすぎだろうと思うけれど(笑)
パパが喪中葉書を出さなければならなくなった時
もしも住所録がいい加減なものであったなら
その時どんなに困るだろう。
そう思い ちょっとした時間を見つけ
さっと整理をしておいた。
今までの12年分のメールも整理し始めている。
手紙も何もかも。
けれど 大切にとっておくべきものはそのままに。
・・・こんな風に 毎日身辺が騒がしい。
常にがさがさごそごそしている。
他の方から見ればさぞ滑稽にうつることだろう。
けれど、これが自分なりの闘い方でもあると思う。
落ち込もうと思えば、一日中ため息をつき
部屋に閉じこもることだって可能だ。
何でこんなことになったのだろうと泣き暮らすことも出来る。
でも、おそらくは他の方々もそうであるように
私は、しない。
住所録、メールの整理、葬祭会館での打ち合わせ等々
これら一連の(変な)行動は 自分の病気や宿命に対し
「やることきちっとやって、立ち向かったる!」と
半ば腹立ち紛れの挑戦状のようなものである。
何に対して腹を立てているのかよくわからないのだけれど(笑)
そういうエネルギーが残っていることを ひとまずは良しとしたい。
自分がこういう状況になって良かったと思うことは
他の方がご自身の危機に際し、
一見おかしな行動を取るようなことがあったとしても
私自身、それらを「そのまま」受け止めることが出来るようになったということ。
おそらくそれは その人にとってとても大切なことで
やらずにはいられないことで
そしてそれをやることによってご自身が納得したり
前に進む気力を培ったり
おそらくはそういうことなのかもしれない・・・と。
それを思えば
余命を宣告され、とたんに人付き合いをしなくなった人のことも
金銭的なことに執着し始めた人のことも
ものすごく我が儘になってしまった人も
あのとき、私にはどうしても理解できなかった多くの方々の行動ひとつ、ひとつ
全て理由のあることだったのだと・・・・今更ながらに思われる。
執刀医からの説明を聞いて
早くも1ヶ月以上が過ぎてしまった。
正直言って気分は最悪である。
起きていても、眠っていても現実は追いかけてくる。
こころ安らかな夢などしばらく見ていない。
もし、幸運にも再発しなかったとしたら
そして長生きできたとしたら
今、私が感じとっていることが将来どんなに役立つことだろう。
人間にとって「優しい」ということが一番大切だということ。
人生には本当に限りがあるということ。
待った無しだということ。
人に心を寄せることの大切さ。
その人のそのままを 丸ごと受け止めるということ。
この1ヶ月のうちに
本当にたくさんのことを学ばせていただいた。
ただ学ばせていただいただけで
それを生かさぬまま、とっとと向こうに行くことだけは避けたい(笑)。
そんなやったら 一体何のための学びやったんやということになる。
他人様のために生かしてこその学びではないのか。
朝夕、仏前に端座しつつ
自分のためだけでなく人のためにも生きる人生でありたいと
そしてゆっくり闘病している場合ではないのだから
絶対に再発しない、と
深く祈る日々である。