ひよきちわーるど

2012/01/31(火)10:36

指針

生と死(59)

病の怖さは・・・自分自身の場合、3つあると思う。 いくつあるかは人によって様々だろうけれど。 まず、遺される家族について。 家族のことを思えば、怖さというよりも辛さがわき起こる。 まだ独り立ちしていない娘を ぽつんと遺していくのかと思うと・・本当に辛い。 2つめ。これは手術、治療に対する怖さ。 苦痛に対する怖さといった方がよいだろうか。 それらに耐えていけるか?と 絶えず自問自答している。 そして3つめ。死そのものに対する怖さ。 これは生きる者としてほとんど本能に近い。 遺される家族への思い、そして病によって引き起こされる苦痛。 この2つは対処しようと思えば可能である。 家族のために、元気なうちに出来ることを進めておく。 夫と娘が困らぬよう(いや、何をどうしたって困るのだろうけれど) その困惑を最小限にとどめることは出来る。 そして、二度と困らぬための手だてを伝えることも出来る。 苦痛に対しても、痛め止めやその他の方法で 軽減させることも可能だろう。 途中でホスピスへの転院も出来る。 ただ3つめの、死に対する恐怖。 これは如何ともしがたい。 このことは 7歳の時の交通事故で身にしみている。 身体の上にダンプが乗り「死ぬかも知れない」と思ったとき 「治療がどんなに痛くてもかまわないから死にたくない」と思った。 この世にとどまりたかった。 独りになりたくなかった。 死が免れないものとなったとき 人間が(精神的に)どんなに足掻くものか  その時に初めて痛感した。 ・・・・こういうときに、信仰のありがたさを思う。 信仰とはこころの安らぎを得るためのものではない。 不幸のシナリオを劇的に変えてゆくためのものであると思う。 ある程度、人間の宿命というものは決まっていると思う。 それを生まれてくるたびに繰り返しているのではないか。 そしてその決まっているはずの宿命を 変えゆくのが信仰ではないかと。 逆に言えば 宿命を変えることの出来ないものは それだけの力のないものは宗教ではないと思う。 自分の置かれている状況をどう捉え生かしていくのか そのための指針がこの信仰の中に含まれていると思う。 それを思えば この信仰に導いてくれた両親に そして周りの先輩方に深く、深く感謝である。 「設ひ業病なりとも法華経の御力たのもし  尼ごぜん又法華経の行者なり    御信心月のまさるがごとく・潮のみつがごとし  いかでか病も失せ寿(いのち)ものびざるべきと    強盛にをぼしめし身を持し心に物をなげかざれ」                    富木尼御前御返事

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