宇井陽一さんについて
トラック機材が盗まれてしまい、ニュースやSNSで、拡散されていますが、あまり御存じでない方のために。。。宇井陽一さんは、1990年代、2000年代のレース好きであれば、だれでも知ってる、本当にものすごい人なんです。その方のチームのカウルが、あんなに普通にガレージの裏に置いてあるのが驚きでしたが、本当にすごい方なんです。GP125で世界GPで活躍し、その開発力を買われて日本メーカー以外のバイクを育て、勝利し、250、moto GPでもポイントを挙げた唯一のライダーGPみてると、当たり前のように宇井がいて、当たり前のようにポイントを稼いでいる日本に戻ってからも250でチャンピオンを2度獲得していますそして、いま、アジアでも日本でもライダーを育て、世界に羽ばたかせている世界に日本人がたくさんいた時も、バブルが終わって、日本人が少なくなってもどんな逆境でも、世界で、日本で、活躍してきた方なんです宇井さんの夢をこれからの日本の、アジアの、世界のライダーの為にレースを、諦めないといけないようなことにならないように。。。お願いします神様、仏様、茨城県警様、千葉県警様、警視庁様POP吉村様、本田宗一郎様若井さん!!永井さん!!大ちゃん!!ノリック!!沼田さん!!!助けてあげてください宇井陽一 (2009年 全日本ロードレース選手権 第1戦 GP250レース)国籍 日本の旗 日本生年月日 1972年11月27日(46歳)千葉県レースでの経歴ロードレース世界選手権活動期間 1995年 - 2004年初レース 1995年 日本GP 125cc最終レース 2007年 日本GP 250cc初勝利 2000年 日本GP 125cc最終勝利 2001年 ブラジルGP 125ccチーム ヤマハ, デルビ, ジレラ, ハリスWCM出走回数勝利数表彰台PPFL総ポイント1331122179886宇井陽一1995年全日本ロードレース選手権GP125チャンピオン。マシン開発力があり、1999年よりスペインのモーターサイクルメーカー、デルビのエースライダーを務める。2000年・2001年ロードレース世界選手権(WGP)GP125ランキング2位を獲得。同選手権で22戦連続フロントロー獲得。世界選手権戦績:優勝11回、2位6回、3位6回、ポールポジション17回、ファステストLAP9回(2008年現在)125ccは勿論のこと、MotoGP(2004日本GP)、250cc(2007日本GP)の全クラスでポイントを獲得した唯一の日本人である。ゼッケンナンバーは名前にちなんだ41。略歴千葉県香取郡多古町出身。少年時代よりポケバイやミニバイクを経験する。1995年全日本ロードレース選手権GP125チャンピオンを獲得。翌1996年にヤマハ・クルツよりロードレース世界選手権GP125フル参戦開始。スペインのモーターサイクルメーカーのデルビはWGP復帰に伴い、当時チームクルツに在籍したハラルド・バートルにマシン開発を依頼する。宇井のライダーとしての能力とマシン開発能力を高く評価していたバートルは、宇井と共に移籍という条件でのみ移籍すると答えたという。その結果、1999年に宇井はエースとして、バートルは開発責任者としてデルビに移籍することとなった。全くの白紙の状態からのマシン作りながら、初年度から宇井は表彰台1回を獲得し、2年目の2000年第3戦日本GP(鈴鹿)でデルビの復帰後の初優勝を含む5勝でランキング2位を獲得。2001年は実質的に同マシン、同チームのマニュエル・ポジアーリ(ポジアーリのマシンメーカー名はデルビと同グループのブランドのジレラである)とのチャンピオン争いとなり、宇井は6勝したがノーポイントレースも多く、3勝のポジアーリに次ぐランキング2位となる。2002年もデルビより参戦。2003年はステルガルダ・レーシングチーム(アプリリア)に移籍。しかしシーズン中盤に解雇されてしまう。その直後のレースより実質的な古巣であるジレラより参戦する。2004年にアブルッツォ・レーシング(アプリリア)に移籍するが、ここでもシーズン中盤に解雇されてしまう。2年連続の解雇劇は、日本のモータースポーツ人気の低さからくるスポンサー獲得の難しさと、ヨーロッパのモータースポーツ人気からくるスポンサーのヨーロッパ人志向が影響していると考えられている。シートを失った宇井にWCMよりオファーがあり、日本GP(もてぎ)にMotoGPクラスへの参戦が実現する。上位陣のリタイヤが多かったこともあり、15位入賞する。その後、残り3戦も参戦することとなった(うち1戦は予選落ち)。2005年は全日本選手権に戻り、バーニングブラッドより4ストローク600cc公道用市販車を改造したマシンによるクラスのST600に参戦。しかし、2ストロークのレース専用マシンに乗り続けてきた宇井は乗り換えに手こずり、このシーズンはノーポイントという大不振に終わった。2006年はプロテックに移籍し全日本選手権GP250に参戦。2007年全日本ロードレース選手権GP250チャンピオンを獲得。2008年藤原儀彦のペアライダーとしてTEAM 茶LLENGERより鈴鹿8耐へ参戦。2009年全日本選手権のGP250とGP125のダブルエントリーを敢行。チーム名は41PLANwithSpruce/PT。 Rd.4 SUGOから立花レーシングとのコラボレーションにより仮面ライダーのサイクロン号を模したマシンカラーリングとなる。Rd.5 岡山よりチーム名を立花レーシングwithSpruce/PTへ変更。 全6戦で3勝を挙げ、GP250最後のチャンピオンとなる。戦績1992年 - ロードレース関東選手権S80 ランキング2位1993年 - ロードレース関東選手権125 チャンピオン1994年 - 全日本ロードレース選手権GP125 ランキング4位1995年 - 全日本ロードレース選手権GP125 チャンピオン(ヤマハTZ125)1996年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング18位(ヤマハ・クルツ)1997年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング12位(ヤマハ・クルツ)1998年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング11位(ヤマハ・クルツ)1999年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング11位(デルビ)2000年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング2位(デルビ)2001年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング2位(デルビ)2002年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング13位(デルビ)2003年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング13位(アプリリア、ジレラ)2004年 - ロードレース世界選手権GP125 ランキング22位(アプリリア)ロードレース世界選手権MotoGP ランキング28位(ハリス・WCM)2005年 - 全日本ロードレース選手権ST600 ノーポイント(バーニングブラッド)鈴鹿8時間耐久ロードレース26位(浜口喜博/WMP・レーシング/ホンダCBR1000RR)2006年 - 全日本ロードレース選手権GP250 ランキング3位 (PRO-TEC×weave/ヤマハTZ250)2007年 - 全日本ロードレース選手権GP250 チャンピオン(MALOSSI/spruce&PT/ヤマハTZ250)2008年 - 全日本ロードレース選手権GP250(SEV.spruce/PRO-TEC/ヤマハTZ250)鈴鹿8時間耐久ロードレース39位(藤原儀彦/TEAM 茶LLENGER/YZF-R1)2009年 - 全日本ロードレース選手権GP250 チャンピオン(立花レーシングwithSpruce/PT/ヤマハTZ250)2010年 - 全日本ロードレース選手権J-GP2(41 PLANNING/PRO-TEC/ヤマハYZF-R6)Mar 3, 2019 41Planning のトラックが盗まれたようですMar 3, 2019 宇井陽一さんからのお願い、情報 茨城県方面に向かっているそうですMar 4, 2019 ロードレーサーの宇井陽一さん、レース用機材をトラックごと盗難Mar 4, 2019 高杉奈緒子さんのスペアパーツ、レース機材も被害に遭われてます Mar 5, 2019 宇井さんのトラックのラッピングを剥がすと Mar 5, 2019 FNN PRIME ロードレーサー・宇井陽一さん、レース用バイクなど盗まれる Mar 5, 2019 ANN バイクレーサー レース用機材トラックごと盗難被害