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カテゴリ:格闘技
そんな。。。。
あの三沢が。。。 私はきっと、三沢が今のプロレス界では、一番強いと思っていました。。。 タイトルは、ないけど、社長職とかけもちで、それでも、あのエルボーだけでも、いつでもタイトルを取れると のらりくらりと、やってるときもあるけど、ここ一番、怒らせると、本当に強いと 絶対王者小橋と、調子がお互いベストで戦って、唯一勝てるのは三沢と思っていました。 武藤との勝負が実現したときは、本当に涙が出ました。 後輩の育成や、ビジネスのことも真剣にやって、プロレスを誰よりも愛した男 なんで。。。。。 心よりご冥福をお祈りいたします ノア・三沢さん死す…プロレス試合中頭部強打 三沢、壮絶マット死!! 13日午後8時40分ごろ、広島市中区基町の広島県立総合体育館グリーンアリーナで開催された「プロレスリング・ノア広島大会」で、同団体の社長、三沢光晴選手(46)が試合中に相手の技を受け頭部を強打。救急車で市内の病院に運ばれたが、同10時10分に死亡が確認された。ジャイアント馬場が大腸がんに倒れ、アントニオ猪木が引退した後の日本マット界をけん引したエースが、衝撃の“殉職”となった。 マット上で大の字となった三沢がピクリとも動かない。2300人、満員の観衆による「ミサワコール」にも立ち上がることはできなかった。 「社長!!」「社長!!」 選手、関係者が呼び掛けたが、三沢に反応はない。専属トレーナーが心臓マッサージを繰り返す。さらに、「観客の方でお医者さんはいませんか!?」というリングアナウンサーの要請でマットに上がった医師が、自動体外式除細動器(AED)で蘇生を試みた。 すぐに救急車が手配され、広島大学病院(広島市内)に搬送。県警広島中央署は「病院から三沢選手が心肺停止状態と連絡があり、署員が向かった」と説明したが、午後10時10分、死亡が確認された。死因は不明。6月18日、47歳の誕生日を目前にしての悲劇だった。 三沢は13日夜、メーン・イベントのGHCタッグ選手権(60分1本勝負)に潮崎豪とのタッグで出場。第17代王者の斎藤彰俊、バイソン・スミス組に挑戦した。リングサイドで観戦していたという会社員男性(35)=広島市=によると「この日の三沢は精彩を欠いているように見えた」という。 そんな中で、アクシデントは起きた。ゴングから25分過ぎ、斎藤の打撃技を顔面などに受けていた三沢は、さらにバックドロップを同じ斎藤から食らう。本来、後頭部をマットに打ち付ける技だが、この一撃はかなりの急角度で落下。ほぼ脳天から落ちた。 ダウンした三沢に、レフェリーが「動けるか」と聞くと、三沢は「動けない」と答えたが、すぐに意識を失った。 試合は27分03秒、レフェリー・ストップ。斎藤、バイソン組が3度目の王座防衛となったが、ただならぬ状況に会場の熱気は次第に冷気となり、ショックで泣き出す女性ファンの姿もあった。 三沢は全日本プロレス時代、2代目タイガーマスクとしてデビュー。捨て身のファイトで多くのファンを魅了した。本名の「三沢光晴」となって、幾度となく名勝負を演じた川田利明(フリー、足利工大付高の1年後輩)との「3冠ヘビー級選手権」では、テレビ解説を務めていたジャイアント馬場(故人)が、熱過ぎるファイトに泣いてしまった逸話もある。 「受け身の天才」と称される一方で、試合中のけがも多く、首や腰にいつも爆弾を抱えていた。13日午後11時過ぎ、「三沢死亡」の衝撃的ニュースに、病院前は報道陣でごった返した。また、県警広島中央署が団体幹部や対戦選手から詳しい事情を聴いている。 三沢さんと親交が深く、今月4日の東京・後楽園ホール大会も観戦していたプロ野球横浜の仁志敏久内野手(37) の話 「ノアの試合が終わると携帯にノアメールが入るようになっているんですが、そこに三沢社長が倒れたことが書いてありました。少し気にしていたら、関係者から詳しい電話が入って…。ショックが大きくて、言葉がみつかりません」 仁志とともに後楽園ホール大会を観戦した横浜の同僚、内川聖一内野手(26)の話 「言葉を失いました。ついこの前、三沢さんが元気で試合をしている姿をみて、元気をいただいたばかりだったのに。けがからそこ(他界)にいきついてしまったという現実が、今はまだ信じられません」 三沢さん急死に他団体レスラーがブログで哀悼の意 プロレスラー、三沢光晴さん(46)死去の報を受け、他団体に所属するレスラーも続々とブログで哀悼の意を表した。 2002年5月に新日本・東京ドーム大会で初対戦し、後にタッグチームも組んだ蝶野正洋(新日本)は、突然の訃報に「驚きと悲しみにたえません」と心境を綴った。 2004年、三沢さんの古巣である全日本のリングで一騎討ちを果たした小島聡(全日本)は「何から話していいのか分かりません。何を話していいのか分かりません」と戸惑いを見せながらも、「同じ職業に就いているけど憧れの人」と故人に敬意を表した。 2001年以来、数度の対戦がある永田裕志(新日本)は、「最後にお会いしたのが今年の1月3日東京ドームホテルでの記者会見前に挨拶した時でした。体調はかなり悪そうだったがどんな試合でも相手の技を正面から受け止めるファイトは翌日のドーム大会でも健在だった」と在りし日の三沢さんのタフネスとプロ意識の高さを称えた。 同じ社長レスラーである大谷晋二郎(ZERO1-MAX)、スペル・デルフィン(大阪プロレス)らもブログ上で冥福を祈った。 プロレスラーの三沢光晴が死亡 試合中に頭強打 試合中に倒れて意識不明となったプロレスラーの三沢光晴が13日、搬送先の病院で死亡した。46歳。試合中にバックドロップを受けて頭を強打、意識不明となり、心配停止の状態だったが、13日午後10時10分、死亡が確認された。 三沢は13日午後8時半すぎ、広島市中区の広島県立総合体育館で試合中に相手の技をかけられて頭を強打。病院に運ばれたが、間もなく死亡が確認された。 広島県警は試合関係者らから事情を聴き、当時の状況を調べている。 県警や主催したプロレス団体「ノア」によると、三沢は同8時10分ごろ、メーンイベントのタッグマッチに出場。約25分後、背後から抱え上げ、後ろに倒れ込むバックドロップをかけられ、リングに倒れた。 試合はレフェリーストップで相手方が勝った。 目の前で観戦していた市内の会社員の男性(32)によると、倒れてから救急車で運ばれるまで10分以上、仲間のレスラーや救急隊員が心臓マッサージや自動体外式除細動器(AED)を使い蘇生(そせい)措置を施したが、三沢は全く動かなかった。 この間、リングサイドのファンから「ミサワ、ミサワ」とコールが上がり、搬送後も約2300人の観客で埋まった会場は騒然とした状態が続いたという。 男性は「僕らにとって中学時代からの永遠のスター。間違いなく日本ナンバーワンレスラーで、超ショックです」とうなだれた。 三沢は埼玉県越谷市出身。1981年にデビューし、2代目タイガーマスクとして活躍。90年代に全日本プロレスの中心選手となり、その後、ノアを立ち上げた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jun 14, 2009 10:57:32 AM
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