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Nov 8, 2010
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カテゴリ:格闘技
元レフェリー、プロレスリング・ノア監査役、GHCタイトル管理委員長として、最後までプロレス界を支え続けたジョー樋口さんが、癌で永眠されました。

81歳、最近は、表舞台には、あまり姿を出されませんでしたし、たまにテレビで見ると、かなり痩せ細って、立っているのもやっとなイメージがありました

本当に、長い間、プロレス界を支え続けていただき、ありがとうございました。
お疲れ様でした。。。

御冥福をお祈りいたします。

名レフェリーのジョー樋口さん、癌で死去

 全日本プロレスの名レフェリーとして活躍したジョー樋口さん(本名・樋口寛治)が8日午前5時38分、肺腺癌のため死去した。81歳。監査役を務めていたプロレスリング・ノアが発表した。

 樋口さんは、1972年にジャイアント馬場とともに全日本プロレスを立ち上げ、スキンヘッドに青い衣装、ギリギリまでスリーカウントを叩かない絶妙な判定で試合を盛り上げた。

 通夜、告別式は、遺族の意向により親族のみで行う。ノアでは一般向けの告別の会を検討しているという。

名レフェリー ジョー樋口氏死去

ジョー 樋口氏(じょー・ひぐち=元全日本プロレスレフェリー、本名樋口寛治=ひぐち・かんじ)8日午前5時38分、肺腺がんのため死去、81歳。横浜市出身。葬儀・告別式は親族のみで行う。

 1972年に故ジャイアント馬場が旗揚げした全日本プロレスに参加。小気味よいレフェリングでファンの人気を集めた。引退後は「プロレスリング・ノア」の監査役などを務めていた。

ジョー樋口さんが死去 名レフェリー、81歳で

 日本プロレス界の名レフェリーとして知られるジョー樋口(本名・樋口寛治)さんが8日午前5時38分、肺腺がんのため死去した。81歳だった。樋口さんが監査役兼GHCタイトル管理委員長を務めていた団体「ノア」が発表した。通夜、告別式は遺族の意向により、親族のみで行われる。

 樋口さんは横浜市出身。1960年に選手を引退後、日本プロレスで通訳などを経て、72年にジャイアント馬場が旗揚げした全日本プロレスにレフェリーとして参加し、機敏な動きと失神シーンで存在感を発揮した。近年もノアの試合会場でタイトル戦の認定証を読み上げる際に、ファンの大声援を受けていた。




ジョー樋口(ジョーひぐち、1929年1月18日 - 2010年11月8日)は、日本の元プロレスラー、元レフェリー。本名は樋口 寛治(ひぐち かんじ)。愛称は「ジョー」。神奈川県横浜市出身。法政大学卒業。俳優の菊池隆則は息子。

生前は日本プロレス、全日本プロレスでレフェリーを務め、死去するまでプロレスリング・ノア監査役、GHCタイトル管理委員長などを務めた。

日本プロレス時代
少年時代から柔道の道に進み、終戦後は進駐軍に柔道を教えていた。後に外国人係(外国人選手の世話を担当する)になったのは、この時期に身に着けた英語力が元となった。

1954年よりプロレスに転向し、山口利夫らが立ち上げた全日本プロレス協会で活動する。そして吉村道明の誘いで日本プロレスに移り選手として活躍、1960年に引退。

その後はいったんプロレスから離れるが、1963年から外国人係兼通訳として日プロに復帰する。当時は外食産業の洋食店がまだ普及していなかった頃で、料理好きを生かして遠征中に選手が滞在する旅館では無理を言って厨房を借り、ステーキやサラダ、スープなど洋食を作っては外国人選手に喜ばれた(家業が卸問屋で海外とも取引していたため、幼い頃から当時としては珍しい西洋文化に接していた)。その評判は力道山の耳にも入り「わしにも食わせろ」と言わしめたほどで、興行中にもかかわらず会場を出て準備を始めていたという。また、大食漢のバロン・ガトニに「腹が減った、なんとかしてくれ」と深夜にたたき起こされ、コンビニエンスストアもファミリーレストランもない1960年代の頃のこと、食事が出来る場所を探して2人で夜の街をさまよい歩いたこともあったという。

1965年より沖識名らの後釜を期待されてレフェリーも兼務する。沖がトラブルに巻き込まれて、代打として上がったのがきっかけだった。

日本プロレス当時には、海外遠征する所属日本人選手に世話役として同道することもあった。アントニオ猪木が1971年にロサンゼルスでジョン・トロスに勝利してユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座を獲得した試合で猪木のセコンドを務めたのもジョー樋口であった[1]。

全日本プロレス時代
日本プロレスを離脱したジャイアント馬場が1972年に旗揚げした全日本プロレスに、旗揚げと共に参加。以降、馬場の試合に欠かせないレフェリーとして一躍有名になる。スキンヘッドと青のコスチュームがトレードマークで、日本人のNWAオフィシャルレフェリーの代表・大御所的存在でもあった(アメリカセントルイスのキール・オーディトリアムでのジャック・ブリスコ vs. ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界戦を裁いたこともある)。

それまでのレフェリーのイメージはどちらかと言えば地味であったが、よく足を使い、試合がストップした状態でも観客を飽きさせないそのレフェリングは、後の和田京平や西永秀一らにも大きな影響を与えている。試合がグラウンド状態になった際に叫ぶ言葉「ワッチャギブアップ(Watch out give-up)」も、実は観客を飽きさせないための工夫であった。また試合中に選手の乱闘に巻き込まれて失神したり、悪役レスラーの反則に気付かないのもお馴染みであった。そのためファンから絶大な支持を得て、リングアナが選手をコールしたあと「レフェリー・ジョー樋口」と宣言すると、観客が「ジョー!」と大歓声を上げるという流れができるほどであった。

とりわけ1980年代前半には、乱闘に巻き込まれて失神して決着になだれこむ「ジョー樋口失神ギミック」がビッグマッチを中心に多発した。この時期に馬場から「ジョーさん、現役の頃よりいい受け身取っているんじゃない」と言われたことがあるという。このギミックは1980年代後半からあまり用いられなくなったが、興味深いことに樋口の体力が衰え試合のテンポが速くなった四天王プロレスの時代には、樋口が試合に巻き込まれて失神することはほとんどなかった。

しかし、レフェリングは厳格であり、2003年の力道山追悼興行で特別レフェリーを務めた際には、カウントしないことがほぼ不文律となっている小橋建太のマシンガンチョップに対して反則カウントを取った。また、カウントが遅いこともよく取り沙汰された(ダグ・ファーナスが試合中に指摘したこともある)が、ストップウォッチでジョーのカウントを計測したところ、実時間の3秒とほぼ一致していたという話もある。

1990年代以降は高齢のためチーフレフェリーの座を和田に譲り、1997年にレフェリーを引退、外国人係に専念することになる。

晩年
1999年のジャイアント馬場の死去を受け、「ジャイアント馬場引退記念興行」となった同年の全日本プロレスの東京ドーム興行を終えた後、後進に道を譲りケジメをつけるべく全日本プロレスを退社したが、2000年、三沢光晴らの全日本プロレス大量離脱⇒プロレスリング・ノア旗揚げの一連の動きを受け、仲田龍の要請に応えてNOAHの監査役に就任した。

翌年に発足したノアのタイトル・GHCのタイトル管理委員長にも就任し、タイトルマッチ前に認定証を読み上げ終わると会場は「ジョー!」の大コールに包まれる。その他、タイトル調印式で鈴木みのるやSUWAらの暴走に厳しく諭す姿が見られた。

2010年11月8日、肺腺癌のために死去[2][3]。81歳没。






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Last updated  Nov 8, 2010 11:18:05 PM
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