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2011/08/03(水)00:58

日米球界に衝撃…伊良部さん首つり自殺

野球(998)

鈴鹿に向かっている途中、ALTOの中でやっていたニュースで知りました 本当に悲しいです。。。 2003年は、下さんといっしょに、本当にセリーグ制覇に活躍してくれました 力強かったなぁ その豪快な姿、言動とは違い、当時から、深い技術論で、若手投手に、良い影響を与えてました。 そして、とても繊細な性格ということも、ファンの中でも知られていました 引退後は、うどん屋経営などもテレビで特集されたり、その当事に、このブログでも紹介していました。 うどん屋も倒産したとか、また離婚もあったようです。 しかし、現役復活を目指したこともありました 東日本大震災の時には、チャリティ試合も計画していたことがあったそうです。 本当に、心優しい永遠のガキ大将 心より、御冥福を、お祈りいたします。 日米球界に衝撃…伊良部さん首つり自殺 米大リーグのヤンキース、阪神などで活躍した伊良部秀輝元投手が、同市近郊の自宅で死去しているのが見つかった。42歳だった。ロサンゼルス郡保安官事務所では自殺とみており、詳しい死因を調べている。日米通算106勝を挙げた実力の一方、破天荒な行動でも話題となった波瀾(はらん)万丈の人生。突然の死に、関係者らには衝撃が広がった。 あまりに衝撃的で、悲しい最期だった。  関係者によると27日(日本時間28日)、伊良部さんの連絡が取れないことを心配した友人らの通報を受け、同事務所が自宅を調べ遺体を発見。首をつった状態で、遺書などはなかった。  近所の人の話では、約2カ月前から夫人と2人の子どもとは別居しており、最近は1人暮らしだったという。  豪快な投球と破天荒な言動で知られた伊良部さんは、1988年にドラフト1位でロッテに入団。94年には15勝を挙げて最多勝、95、96年に最優秀防御率のタイトルを獲得した。  96年に大リーグへの移籍を希望、移籍先などをめぐって日米の球界を巻き込んだ騒動となった末、97年にヤンキースに入団。この騒動が、ポスティングシステム(入札制度)が生まれるきっかけとなった。大リーグの6年間で通算34勝35敗16セーブ。03年に阪神で日本球界に復帰すると、13勝を挙げリーグ優勝に貢献した。  引退後に拠点としたロサンゼルスでうどん店を経営するなどした後、09年に現役復帰。米国や日本の独立リーグでプレーしたが、10年初めに再び引退を表明していた。  その後も永住権を持つ米国に渡り、最近では友人らと草野球チームに所属。野球への思いは断ち切れなかったようだ。8月末にも自宅近くの日本人学校で野球教室を行う予定で、多くの参加希望者が集まっていた。  ただ、近所の人は「最近、歩いている姿を見たが落ち込んでいるようだった」と証言。野球教室などのイベントも、伊良部さんを元気づけるため周囲が企画したという。  豪邸が立ち並び、サンペドロ港を見下ろす閑静な住宅街。突然の訃報を聞いて集まった知人らが自宅前に献花し、非凡な才能で日米球界をわかせた伊良部さんに手を合わせていた。 伊良部さん死去、仙さん「本当は繊細なやつ」  繊細なやつだった-。楽天・星野仙一監督(64)は29日、伊良部秀輝さん(享年42)の突然の死に悲しみを募らせた。阪神監督時代の2003年に日本球界に復帰させ、同年にリーグ優勝。その早すぎる死に、闘将も肩を落とした。 かつての教え子の訃報は、遠征先の福岡の宿舎で早朝に知らされた。  「打者に向かってガンガン攻める投手だった。かわす投球なんか見せたことがなかったよ。それが野球の基本なんや」  だからこそ、信じられなかった。「本当に自殺なのか?」  この日のロッテ戦前、かつて伊良部さんが活躍したマウンドを見つめながらポツリと漏らした。  02年オフに獲得。03年には13勝を挙げ、阪神を18年ぶりのリーグ優勝に導いた。今でも記憶にあるのは、日本シリーズだ。第2戦でダイエー打線に3回5失点でKOされたが、第6戦も先発させた。「あの年は伊良部がいなかったら優勝はできなかった。功労者を使うのは当たり前やないか」。批判を受けたが今も後悔していない。  「オレもそうだったけど、投手は虚勢を張って生きている。本当は繊細なやつ。野球の話をしだしたら止まらなかった」  09年に四国・九州アイランドリーグに挑戦するときも報告があったが、最後に電話で話したのは昨年夏だという。  「指導者をやりたかったんだろうな。日米で学んだ自分の財産をどこかに伝えたい、というのがあったんじゃないか」  世間の豪快なイメージとは違う、教え子の心を理解していた星野監督。その早すぎる死を悼んだ。 阪神・片岡篤史打撃コーチ 「同級生で、高校でもプロでもよく対戦した。野球が本当に好きな人だった」 阪神・藤川 「野球に対する思いが強い人だった。縁があってファイティングドッグス(独立リーグの高知)に入ったりとか、タイガースでの関係が終わってからの方がつながりが強かった」 阪神・久保田 「阪神にいなくなってからも食事をしていた。本当に野球が好きで細かいところまで考えていたし、一生懸命な方だった」 元阪神捕手の矢野燿大氏 「伊良部の頑張りがあって優勝できた。体のケアや投球フォームなどすごくこだわりがあって、投手としてすごく繊細だった」 西武時代に対戦した楽天・松井稼 「ほとんど、打っていないんじゃないかな。僕も若いころで、ちょいちょいと遊ばれていましたね」 2001年にエクスポズ(現ナショナルズ)でチームメートだった日本ハム・吉井投手コーチ 「引退してから元気がなかった。寂しがりやで自分を強く見せたい投手。すごくいいやつで、野球に真剣に取り組んでいた」 日本ハム・梨田監督 「残念。信じられない。豪快なタイプだと思っていた。くよくよしているところは見たことがなかった」 オリックス・岡田監督 「野球の話をしたら止まらなかった。投球フォームとか、こだわりがものすごくあった」 ソフトバンク・秋山監督 「残念。いい投手だった。投げるとき、がっと向かってくる感じ。躍動感もあった」 ロッテ・西村監督 「気持ちの優しい人間だった。彼がロッテにいたころはチーム状態がよくなかったけど、一緒に優勝したかった」 ロッテ・上川内野守備走塁コーチ 「清原との勝負は、後ろで守っていても速かった。癖で球種が(直球と)相手に分かられても、打たれなかった。豪快に見えて、内面は繊細だった」   ロッテ・小野  「見た目とは全然違って、僕らにも優しく接してくださったし、アドバイスももらった。本当に優しい先輩でした」 ロッテ・薮田 「偉大な先輩だったけど、向こうからアドバイスをしていただいた。優しくて、後輩思いの方だった」 ロッテ時代の同僚の小宮山悟氏 「メジャーに行ってから連絡を取ることは少なかったが、電話があるとひたすら野球の話をする男だった。とても繊細なのに、やや誤解されたイメージで伝えられたのは残念」 ロッテ時代の同僚の黒木知宏氏 「いろいろなことを教えていただいた。僕はまだ、信じていないところもある。プロのすごさ、プロとはこういうところというのを見させていただいた」 阪神コーチらが死去惜しむ、繊細な一面も  剛球投手として活躍した伊良部秀輝氏の死去に29日、阪神時代のチームメートらが死を惜しんだ。  兵庫県西宮市の鳴尾浜球場では、伊良部氏とともに2003年の阪神のリーグ優勝に貢献したメンバーが驚きの表情を見せた。藪恵壹2軍投手コーチは「びっくりした。原因は分からないようだが、本当に残念の一言。超一流。本当に素晴らしい投手だった」と話し、八木裕2軍打撃コーチは「すごく繊細なところがあった」と振り返った。  米大リーグ、ロイヤルズなどでプレーし、関西独立リーグの神戸で投手兼任として活躍するマック鈴木監督も、ショックを隠せなかった。大リーグ時代は、よく食事をともにした仲。「先発する前の日は緊張して眠れないと言っていた。それで酒を飲むんだって」と豪快なイメージの裏に隠された繊細な一面が思い出されるという。「何でなんですかね」と話した。(共同) 阪神・久慈照嘉内野守備走塁コーチの話 「同級生で(2003年の)優勝メンバー。何でこんなことになるんだろう。ショックだし、残念。ものすごく繊細なところがあった。何かあったんだろう」 阪神・片岡篤史打撃コーチの話 「同級生で、高校でもプロでもよく対戦した。同じチームでやってた選手がこんな形になって残念。野球が本当に好きな人だった」 阪神・沼沢正二球団本部長の話 「2003年のリーグ優勝の功労者。悲しい。繊細な神経の持ち主で真剣に野球に取り組んでいた。ご冥福をお祈りします」 阪神・藤川球児投手の話 「野球に対する思いが強い人だった。縁があって、ファイティングドッグス(独立リーグの高知)に入ったりとか、タイガースでの関係が終わってからの方がつながりが強かった。野球界として残念」 阪神・久保田智之投手の話 「阪神をいなくなってからも食事をしていた。本当に野球が好きで細かいところまで考えていたし、一生懸命な方だった。野球に対する姿勢を学ばせてもらった」

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