HIRO.F's Scrawl

2012/06/30(土)14:13

ザ・ピーナッツ双子の姉、伊藤エミさん死去

ザ・ピーナッツ双子の姉、伊藤エミさんの訃報 私は、もちろん見てませんが、その後名曲は、さまざまなアーティストにカバーされ 昔の映像も何度も流れていました。 モスラへの出演も、何度かみましたね ご冥福をお祈りいたします ザ・ピーナッツ双子の姉、伊藤エミさん死去  1960年代に「恋のバカンス」「恋のフーガ」などのヒットを次々と飛ばし、日本歌謡界の創生期を支えた双子デュオ、ザ・ピーナッツの伊藤エミ(いとう・えみ、本名・沢田日出代)さんが15日に亡くなったことが27日、分かった。71歳だった。関係者によると数年前からがんを患い、療養中だったという。葬儀・告別式は親族の意向で近親者のみで執り行われた。  ♪ため~息の~でるような、あな~たのく~ちづけに…  1963年のヒット曲「恋のバカンス」などで一卵性双生児の妹、伊藤ユミ(本名・月子)さん(71)と魅惑のハーモニーを響かせた姉、エミさんが、ひっそりと天国へ旅立っていた。  関係者によると、エミさんは数年前に腎臓がんを患い、入退院を繰り返すなど療養中だったという。最期は歌手、沢田研二(64)との間に生まれた一人息子の長男(33)やユミさんら親族が看取ったようだ。  エミさんは59年にザ・ピーナッツとしてデビュー。きっかけは、妹とともに伊藤シスターズとして地元・名古屋市のナイトクラブで歌っていたところを、渡辺プロダクションの渡辺美佐相談役(当時副社長=84)にスカウトされた。  2人は1メートル52、B83W62H82、足のサイズも22・5センチと一緒で、唯一の識別方法はエミさんの目の横にあるホクロだった。が、デビュー後はユミさんもつけぼくろをして、うり二つだった。  美しいハーモニーで和製ポップスの第一人者としての地位を確立する一方、61年には映画「モスラ」に出演。61~72年まで人気バラエティー「シャボン玉ホリデー」で司会を務め、同じ渡辺プロ所属のクレイジーキャッツと並び国民的人気を誇った。当時を知る関係者は「大スターにもかかわらず、自慢やおごりは一切なく、気さくでスタッフや後輩から大変尊敬されていた」と振り返る。  人気絶頂だった75年4月、2人は「引退はキレイに、カッコよく」との思いから芸能界を引退。エミさんは同年6月、同じ渡辺プロの沢田と交際7年目で結婚。79年に長男を授かるも87年に離婚した。慰謝料は18億1800万円で当時の芸能人カップル最高額と話題になった。  73年のインタビューでエミさんは恋愛について「私は男にほれても妥協しない。ひとりになっても、なんとかやっていける自信がありますから」と発言。その言葉通り、一人息子を女手一つで育て上げた。離婚後も沢田姓を名乗っており、関係者は「沢田への愛情がまだあったのかも知れないが、それよりも長男のことを考えての判断だったのでは」と語る。  離婚後の生活について関係者は、沢田からもらった東京・世田谷区内の自宅で独身のユミさん、長男(33)と同居し、エミさんは長男の父母参観にも積極的に参加していたという。悲報が流れた27日、自宅には親交の深かった歌手、田辺靖雄(67)、九重佑三子(66)夫妻が弔問に訪れた。  エミさんの最後の“公の場”は75年7月、比叡山山頂で行われた沢田のライブ中、ツーショットで結婚報告した際で、それ以来、姿は見せていない。長年にわたり、ファンや業界関係者からはカムバックを望む声が上がっていたが、かなうことはなかった。 歌手、ペギー葉山(78) 「テレビを観ていて知ってびっくりしました。私自身もおしゃれな独自のファッションが楽しみでカラー時代の草分け的な存在でした。子供さんが生まれたときにはお祝いを持っていったら、『ありがとうございました』と言ってとても喜んでくれました。もう一回カムバックしてほしいとずっと思っていたので、とても残念です」   歌手で俳優、ミッキー・カーチス(73)  「ザ・ピーナッツは、当時名古屋のクラブで歌がうまくて評判の子たちで、(渡辺)美佐さんに一緒に見に行ってくれって言われて見つけた子たちなんだよ。ヒットパレードの時はずっと一緒で、双子だからか、何を聞いてもユニゾンで返事するくらい仲良かったねぇ。またあの歌声を聞きたかったねぇ。寂しいよ」   歌手、園まり(68) 「ザ・ピーナッツはいつも私の憧れでした。特に姉のエミさんのことが大好きで、ステージでの立ち居振る舞いやマナーを見て、自分もエミさんのようになりたいとずっと思っていました。同じ丸顔だったので、化粧も参考にさせていただきました。ステージ衣装をいただくなど、個人的にもとてもかわいがってもらいました。18年ほど前、中尾ミエさんのお母様の葬儀でお会いしたのが最後。ショックで言葉がありません」   歌手、小柳ルミ子(59) 「すごくショックを受けております。新人の時にドレスをくださったり、ザ・ピーナッツの解散コンサートにうかがったとき、『私たちの分まで頑張ってね』と大変かわいがってくれた大先輩です。とても残念です」   音楽評論家、伊藤強さん  「戦後の日本の歌謡曲で、きちっとしたデュエットを歌った最初の人。双子ならではの声質を生かし、素晴らしいハーモニーを聴かせてくれた。その後に同じようなグループが何組も出たが、2人の美しい歌声にはかなわなかった。編曲などを担当した宮川泰さんも、しっかりとトレーニングしたのだろう。日本のポップスの幅を広げた先駆者だった」

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