チームシンスケで千石さんを走らすときに、無償で貸し出してくれたポップ
風よ鈴鹿へ ドラマの1シーン、ポップの言葉に感動しました。
そのシーンをみて、GSX-Rに乗って、ヨシムラサイクロンをつけること、鈴鹿8耐に行くことが目標になりバイトに励むようになりました。
その1シーンでポップを尊敬して、その後に、色々な逸話を拝見するたびに、その尊敬は大きなものとなっていきました。
個人の整備屋が、無敵艦隊ホンダワークスに挑んで勝利!
ホンダから嫌がらせをうけ、本田宗一郎への直談判、人間的には分かり合ったものの、メーカーの人間からは余計に嫌がられて。。。
加藤昇平氏らとの悲しい別れ。。。
アメリカでの裏切り。。火事。。。
SUZUKI、横内さんとの出会い、家族の支え
ほんとうに、色々なことがありましたが、何度も立ち直って、そのたびにヨシムラスピリッツを見せてくれました
当時の漫画、バリバリ伝説や、ふたり鷹など、いろんな作品にも実名で出ておられるのをみても、誰からも愛されて、尊敬されていたのが分かります。
吉村秀雄(よしむら ひでお、1922年10月7日 - 1995年3月29日)は、オートバイ部品・用品メーカーヨシムラジャパン創業者。オートバイチューニング技術者。「おやじ」を意味する「POP(ポップ)」あるいは「ポップ吉村」の愛称でも知られる。
車両の製造・販売でなく、性能向上のための加工を行うチューニングをいち早く始め、世界で初めて集合管を開発した。大手メーカーでない事業規模の小さいプライベーターとして活躍し、1970年代の耐久レースで「無敵艦隊」と謳われる程の成績を収めていた本田技研工業を相手に勝利するなど、1960年代から1980年代の日本のモーターサイクル発展期において様々な実績を残し、日本人として本田宗一郎と並びAMA殿堂入りを果たした。
1985年に肺を患い、摘出手術のために北里大学病院に入院することになったが、入院中にもデュプレクスサイクロンの基礎理論を考えるなど、一線を退いてからもオートバイの研究は引き続き行った。
その後もサーキットを度々訪れては後進の指導にあたるなど精力的に活動した。 また、引退したクロスビーに会うために訪れたニュージーランドでは、自らセスナの操縦をおこなった。
1995年3月29日、午前8時11分に入院先の北里大学病院で呼吸不全のため永眠。告別式は4月2日に執り行われた。