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また、いい加減なことを。。。。
これがあてにならないってことは、熊本の地震で証明されただろうに。。。 島根は、活断層も、ほとんどなくて、大昔の建物や遺跡も残っているので、直接の被害は、なかなかでないはず。。。 安心だ!安心だ!って言ってて、大地震が起こったら、また嘘だったって言われるから、予防線のために、宣言してるだけの様な気がする。。。 だって、中国地方なんて、大きな範囲でざっくりとした説明しかないし。。。 穂区太、西部と、東部、全域のパーセンテージ。。。この差に何の意味があるんでしょう。。。 鳥取は、多いけど、島根は、少ないですしね。。。 浜田地震でも、そんなに被害出てないですし 東部、西部のほうが被害でそうですけどね。。。 島根は、活断層がなく、昔からの被害がないってことで、今後、遷都が予定されてるのに、、、 きっと、島根遷都に恐れる他の地方の陰謀か! 私や、元阪神タイガース福間納投手の実家のある長久町川北中のほうは、鳥井海岸に抜ける坂道があって そこは、舟越坂(ふねんごさか)ってのがあって、うちの家は、ふねんごの福間って言われてました。 ここは、昔の大地震で、大津波が起こり、舟が超えたという、言い伝えのある坂です。 実際には、どの地震での被害なんでしょうね。。。 東北の津波の時も、昔の石碑のところまで津波が来たってのもあって、石碑や地名、言い伝えは、なにか意味があるんですよね。。。 神戸の地震も、被害のあった場所の地名には、そのような意味のところが数多くありました。。。 中国地方の活断層地震 30年以内の発生確率50% 「非常に高い」と政府調査委 政府の地震調査委員会は1日、中国地方でマグニチュード(M)6.8以上の活断層による地震が発生する確率を地域別に示した予測を公表した。全域のどこかで30年以内に起きる確率は50%で、「非常に高い」として自治体の防災計画に活用するよう呼び掛けた。 全域のほか中国地方を3区域に分けた確率も予測。鳥取県と島根県東部からなる北部が40%と高く、山口県周辺の西部は14~20%、岡山県と広島県にまたがる東部は2~3%となった。 北部は活断層は少ないが地震活動が活発で、未知の断層が地下に隠れている可能性も考慮して算出。西部は活断層が密集しており、活動性も高い。東部は地震活動が低いと評価した。 調査委は断層ごとではなく地域単位で確率を求める手法を平成25年に導入。中国地方は3番目の公表で、全域は九州地方の30~42%より高く、関東地方の50~60%に迫る数値となった。 長さ20キロ以上の主な活断層に小規模なものを加え計24断層を分析。各断層の確率や過去に起きた地震の頻度などから地域の確率を算出した。最大規模の地震は、山口県西部から日本海沿岸に延びる菊川断層帯の全域が連動した場合でM7.8~8.2以上。 中国地方の日本海側では平成12年の鳥取県西部地震(M7.3)、昭和18年の鳥取地震(M7.2)など規模の大きい地震が数多く起きている。四国沖の南海トラフからフィリピン海プレート(岩板)が沈み込んでいる影響で陸地が北西方向に押され、ひずみが蓄積しているためとみられる。 調査委の平田直委員長は「中国地方北部の確率は世界的にみても高い。東部も南海トラフ地震の影響が懸念される。全域にリスクがあることを認識し、防災に役立ててほしい」と話している。 島根県 島根県に被害を及ぼす地震は、主に陸域や沿岸部の浅い場所で発生する地震と、南海トラフ沿いで発生する地震と、日本海東縁部の地震です。 島根県とその周辺の主な被害地震 (図をクリックすると拡大表示) 島根県とその周辺の主な被害地震 歴史の資料によれば、880年に出雲で陸域の浅い場所で起きたと見られる地震(M7.0)が発生しています。この地震の発生源は、最近の研究によって、島根半島北東部にある活断層である可能性が指摘されています。 古代には現在の益田市の沖に鴨島という島があったが万寿の大波によって海中に沈んだ、という伝承があり、特に江戸時代の資料などに登場します。最近の調査の結果、鴨島が実在していたかは判りませんでしたが、11世紀頃に益田市の海から2km程度以内の限られた範囲に津波が遡上していたことを示す堆積物が見つかりました。しかし、その襲来範囲は伝承より狭く、局地的な津波だったと考えられています。またこの局地的な津波の原因は日本海の大地震ではなく、益田市沖合の海底地すべりと考えられています。 島根県西部の石見地方では、1778年にM6.5、1859年にM6.0~6.5の地震が発生し、局地的に被害が生じました。最近では、1997年6月に山口・島根県境付近で地震(M6.6)が発生し、小被害が生じました。 1872年に発生した浜田地震(M7.1)では、震源域が浜田付近の沿岸から日本海沖合にあったと推定されています。これは陸域の浅い場所で発生した地震と同じタイプの地震と考えられます。本震の約1時間前に、かなりの大きさの前震がありました。被害は資料によって異なりますが、当時の浜田県管下震災表によると、旧浜田県では、死者536名や家屋全壊4,000棟以上、旧出雲県で死者15名や家屋全壊450棟以上などの被害が生じました。また、この地震では海岸の昇降が見られたほか、小津波がありましたが、これによる被害は知られていません。 島根県では、島根県東部の鳥取県境近くと三瓶(さんべ)山付近から広島県にかけての地域などでM5~6クラスの地震が発生しています。両地域周辺には、顕著な活断層がなく、活断層との関連は不明です。 1943年の鳥取地震(M7.2)や「平成12年(2000年)鳥取県西部地震」(M7.3)、「平成13年(2001年)芸予地震」(M6.7)などのように周辺地域で発生した地震によっても被害を受けたことがあります。 島根県でも沖積層の厚い平野部では、南海トラフ沿いで発生した巨大地震によって、強く長い揺れによる被害を受けることがあります。1946年の南海地震(M8.0)では、出雲平野などで死者9名、家屋全壊71棟などの被害が生じました。また、1854年の安政南海地震(M8.4)でも、出雲地方で強い揺れによる被害が生じました。 1964年の「新潟地震」(M7.5)、「昭和58年(1983年)日本海中部地震」(M7.7)あるいは「平成5年(1993年)北海道南西沖地震」(M7.8)で発生した津波のように、日本海東縁部の大地震によっても、隠岐諸島や島根半島の沿岸域でかなり大きな津波被害を受けることがあります。「昭和58年(1983年)日本海中部地震」による津波では、県内で負傷者5名のほか、床上浸水や船舶の沈没などの被害が生じました。また、日本海南西部では1940年の隠岐島近海の地震(M6.6)のように、逆断層型の地震が浅い場所で発生することもあり、沿岸で津波による被害が生じる可能性もあります。日本海側の内湾に面した地域では総じて太平洋側より低い、海抜1m程度の高さから土地利用している場合もあります。日常使っている土地の標高をあらかじめ知っておくことも津波対策として重要です。 島根県には、宍道(しんじ)湖周辺に活動度の低い活断層が分布するほかは、活断層はほとんど知られていません。また、島根県周辺に震源域のある海溝型地震はありませんが、前述のように、南海地震や日本海東縁部で発生する地震で被害を受ける可能性もあります。 出雲平野周辺などでは、やや軟弱な地盤の影響で、地震が発生したときには、周辺の地域に比べて揺れが大きくなる可能性があります。 ○島根県に被害を及ぼした主な地震 880年11月23日(元慶4) 出雲 7.0 神社、仏閣、家屋転倒す。 1676年7月12日(延宝4) 石見 6.5 津和野城などに被害。死者7人、負傷者35人、住家倒壊133棟。 1707年10月28日(宝永4) (宝永地震) 8.6 出雲で住家倒壊117棟など。 1854年12月24日(安政元) (安政南海地震) 8.4 出雲杵築大社で潰150棟。 1859年1月5日(安政5) 石見 6.2 那賀郡、美濃郡で揺れが強く、波佐村、周布村、美濃村などで家屋倒壊56棟。 1859年10月4日(安政6) 石見 6.0~6.5 那賀郡で揺れが強く、周布村で家屋倒壊数戸。 1872年3月14日(明治5) (浜田地震) 7.1 死者551人、負傷者582人、家屋全壊4,506棟、同焼失230棟。海岸で海水の変動あり。 1946年12月21日(昭和21) (南海地震) 8.0 死者9人、負傷者16人、住家全壊71棟。 2000年10月6日(平成12) (平成12年(2000年) 鳥取県西部地震) →【地震本部の評価】 7.3 負傷者11人、住家全壊34棟。 2001年3月24日(平成13) (平成13年(2001年) 芸予地震) →【地震本部の評価】 6.7 負傷者3人。 鳥取県 鳥取県に被害を及ぼす地震は、主に陸域や沿岸部の浅い場所で発生する地震と、南海トラフ沿いで発生する地震と、日本海東縁部の地震です。 鳥取県とその周辺の主な被害地震 (図をクリックすると拡大表示) 鳥取県とその周辺の主な被害地震 鳥取県東部で過去に発生した地震としては、1943年の鳥取地震(M7.2)が知られています。これは鳥取平野のほぼ直下で発生した地震であり、鳥取市で震度6が観測され、大きな被害が生じました。この地震の半年前の3月4日、5日に鳥取地震とほぼ同じ場所で、いずれもM6.2の地震が発生しました。鳥取地震の後には、この震源域で1983年10月31日にM6.2の地震が発生し、鳥取市で震度4が観測されました。また、歴史をさかのぼると、この地域では1710年10月と1711年3月にそれぞれM6.5とM6.3の被害地震が発生しています。 鳥取県西部では、「平成12年(2000年)鳥取県西部地震」(M7.3)が発生しています。この地震は米子平野で発生し、境港市などで震度6強が観測され、多くの負傷者が生じました。それ以前の被害地震としては、1925年の美保湾の地震(M5.8)、1955年の根雨(ねう)地方の地震(M4.6)、1989年10~11月の地震活動(最大M5.5)があります。また、被害は生じなかったものの、1985年6月から12月にかけて大山付近で最大M4.9の群発地震活動がありました。 鳥取県では、1927年の北丹後地震(M7.3)などのように周辺地域で発生した地震によっても被害を受けたことがあります。 南海トラフ沿いで発生する巨大地震のなかで、四国沖から紀伊半島沖が震源域になった場合にも、地震の揺れによる被害を受けています。1946年の南海地震(M8.0)では、県内で死者2名や家屋全壊16棟などの被害が生じました。さらに、1964年の「新潟地震」(M7.5)、「昭和58年(1983年)日本海中部地震」(M7.7)あるいは「平成5年(1993年)北海道南西沖地震」(M7.8)で発生した津波のように、日本海東縁部で発生した大地震に伴う津波により、沿岸域で被害を受けたこともあります。 鳥取県には、県東部に長さの短い活断層が分布するほかは、活断層はほとんど知られていません。 また、鳥取県周辺に震源域のある海溝型地震はありませんが、前述のように、南海地震や日本海東縁部で発生する地震で被害を受ける可能性もあります。 鳥取市や米子市などの日本海沿岸部では、やや軟弱な地盤の影響で、地震が発生したときには、周辺の地域に比べて揺れが大きくなる可能性があります。 ○鳥取県に被害を及ぼした主な地震 1710年10月3日(宝永7) 伯耆・美作 6.5 河村、久米両郡(現東伯郡)で被害最大。倉吉・八橋町・大山・鳥取で被害。伯耆で死者75人、家屋倒壊1,092棟。 1711年3月19日(正徳元) 伯耆 6.3 因幡、伯耆両国で死者4人、住家倒壊380棟。 1854年12月24日(安政元) (安政南海地震) 8.4 南海沖の巨大地震。鳥取で家屋全壊10棟。 1943年3月4日 1943年3月5日(昭和18) 鳥取沖 いずれも6.2 両方で軽傷者11人、建物(含非住家、塀など)倒壊68棟。 1943年9月10日(昭和18) (鳥取地震) 7.2 鳥取市を中心に被害が大きく、死者1,083人、負傷者3,259人、家屋全壊7,485棟。 1946年12月21日(昭和21) (南海地震) 8.0 死者2人、負傷者3人、住家全壊16棟。 2000年10月6日(平成12) (平成12年(2000年) 鳥取県西部地震) →【地震本部の評価】 7.3 負傷者1 大田市周辺における万寿大津波に関する記載資料と現地視察報告 畑 和宏 1.はじめに 益田地域には、万寿3年の津波に関する文献記録が多数残されている。この津波の高さ は 10~20mとの記録もあり、このような規模の津波が、益田の沿岸部に襲ったのであれば、 益田から約 80 キロ離れた大田市周辺にも、大津波が押し寄せていても不思議ではない(図 1:昨年の東北地方太平洋沖地震による津波の規模と範囲,大船渡―宮古間、石巻―相馬 間はそれぞれ約 80 キロ)。 そこで、津波研究会のメンバーのうち、筆者ら大田市在住者を中心に、大田市周辺で、 万寿の大津波に関する記載が残っていないかを調べるとともに、研究会のメンバーと文献 資料に記載されていた場所を視察した。本稿では、これらの調査結果をご報告する。 大田市の沿岸部は、東から波根町、久手町、鳥井町、静間町、五十猛町、仁摩町、温泉 津町と続く。各町ごとに津波に関する記載の概要を以下に記す。 ●波根町-----津波に関する記載は、いまのところ確認できていない。 ●久手町-----苅田神社(建立 895 年以前)の記録において、万寿 3 年の寅の大洪水(大 水害)で山は崩れ、谷は裂け、当社の本殿、・拝殿・楼門・回廊・末社等が 漂流とある。 ●鳥井町-----鳥井町誌には、万寿 3 年(1026 年)石見海岸を襲う大津波があり、鳥井の 惨害は実に甚だしいものがあったとあり、その時、静間川は川尻を流止(現 在の河口から約 2 キロ西)から鷺巣海岸(現在の河口から約1キロに西) へ変えたとある。また、津波が押し寄せたとき、鳥井にあった舟が長久町 境界部の峠道を越えたため、その坂を舟越坂(ふねんござか)と呼ぶよう になったと伝えられている。 ●長久町-----舟越坂(ふねんござか)の記載はある。 ●静間町-----万寿 3 年の津波の記載はない。ただし、「静の窟」の案内板には、江戸初期、 この洞窟あたりには、滝の前千軒という集落があったが、1656 年に大津波 があり、一瞬にして海中に没したと記されてある。 また、式内社調査報告(式内社研究会編)には、静間神社(886 年建立) が 1674 年 6 月 27 日の大洪水のため、山崖崩壊し、社殿破損の故に五町ば かり離れた現社地(高台)へ再遷座したとある。 ●五十猛町---万寿 3 年(1026 年)大波が大屋辺りまで押し寄せ、地名に小鯛ヶ迫(小さな 鯛が津波で押上げられていた)がある。 ●仁摩町-----町誌には津波に関する記載はない。津波に関する言い伝えもない。 ●温泉津町---町誌には津波に関する記載はない。津波に関する言い伝えもない。 以上のように、大田市周辺でも、津波、洪水、水害など表現は異なるが、万寿 3 年に 水に関する自然現象で、建造物や地形に異変が生じたことを記す資料が存在することは 判明した。ただし、温泉津町、仁摩町などの沿岸部では津波、水害などの記載がないこ と、静間町では、万寿3年(1026 年)の記載ではなく、それとは別に 1656 年の津波と か、1674 年の大洪水の記録が残っているなど、記載の有無、記載の相違、そして、記載 内容にも地域差があることが判明した。 3.現地視察及び聞き取り調査結果 前述の記載資料の中から、「静之窟と静間神社の移築」、「舟越坂や小鯛ヶ迫という地名」、 「静間川の河口の変化」、「苅田神社の移築」に関して、現地視察及び聞き取り調査を行っ た。その結果を以下に整理する。 ■静之窟と静間神社 現地視察では、静間神社の総代長であり郷土史家の石川勝典氏に同行いただき、解説を 頂いた。 石川氏曰く、静間神社(886 年建立) は、1674 年まで魚津の浜辺近くにあった。 しかし、1674 年 6 月 27 日の大洪水で、山崖崩壊し、社殿が破損したため、その 後、現社地へ再遷座したとのことである。 神社の記録や伝承には、万寿 3 年の津波のこと、案内板にある 1656 年の大津波 のことは記載されていないとのご説明があった。 今の魚津地区は、背後に急崖が迫った 地区である。もし、1026 年に大津波が押し寄せていたら、津波高さに加え、その 遡上高さは著しいものとなり、建造物は壊滅的な打撃を被ったものと考えられる。 にもかかわらず、魚津の浜辺にあった静間神社には、その記録が残されていない のはなぜだろうか。 なお、案内板にある、滝の前千軒という集落について、石川氏は、1656 年に集落に何か が起こったとするならば、それは大津波ではなく、大しけや高潮もしくは山崩れなどの影 響ではないかと述べておられた。 ■舟越坂や小鯛ヶ迫という地名 五十猛町の「小鯛ヶ迫」という土地は、図 4 の写真の位置にある。「迫」は谷の行き詰 まりの地形をさすが、当該地も海岸に近くの奥行きの浅い谷で、側部そして、谷の行き詰 まりに小さな段丘状の土地が点在している(標高 5m~8m の位置)。五十猛の歴史と民話 (林正幸著)には「万寿 3 年(1026 年)大波が大屋辺りまで押し寄せ、地名に小鯛ヶ迫(小 さな鯛が津波で押上げられていた)がある」と記載されているが、津波によって、そのよ うなことがおこりうる地形ではある。ただし、大屋(大田市)辺りまでとなると、五十猛 と大屋の境界で地形標高 50m の高さに達するため、「辺り」がどこをさすのか、その点が 不明である。 「舟越坂(ふねんござか)」と言う地名は、図 5に示す鳥井町と 長久町との境に位置する峠坂をさす。この地名は、大田に暮ら していると、よく耳にする地名ではあるが、万寿の大津波によ って舟が峠を越したという言い伝えがあることを知っている人は少ないようである。現在 は、切土による県道が整備されており、県道の頂部の標高は約 40mである。また、海岸か ら頂部までの距離は約1キロである。 ほんとうに、舟が峠を越したのか、それとも、鳥井側の峠のふもとまで流されてきただ けなのか、定かではないが、現地の地形を見る限り、もし、峠を越えたのであれば、巨大 な津波であったといえよう。 なお、図5に図示した長久町側に野井神社(792 年建立)がある。1026 年に峠を舟が越 すような津波が押し寄せたなら、神社にもなんらかの影響がなかったものかと、朝倉績氏 (宮司)に聞いてみたが、そのような記録は残されていないということである。 図 5 舟越坂周辺の空中写真(島根 GIS) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jul 1, 2016 08:29:21 PM
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