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カテゴリ:レース
今日は沼田 憲保さんの命日ですね。もう、13年ですか。。。
Suzuki乗りの私にとって、ガンマでの優勝は、本当に嬉しかった。 ずっと、心の中のヒーローです。 私が沼田さんの訃報を聞いたのは、二日後でした。そのときのブログ記事です。 このさらに二日後、SUZUKI MEETINGで、GK71B CLUBのクラブ紹介のときに、沼田さんの訃報を紹介し、沼田さんがどれだけ偉大なSUZUKI乗りだったかを、紹介させていただき、皆で御冥福を祈りました。 Sep 6, 2007 追悼沼田憲保さん 愛知のひろゆきさんと電話でお話していて教えていただきました 元全日本250チャンピオン、SUZUKI Γでの全日本連覇を勲章に250cc参戦していなかったSUZUKIでのWGP参戦 最近はYAMAHAでのエントリーが多かったですが、鈴鹿8耐や、全日本600での健闘を目にしたばかりでした この前の日曜日もケーブルの全日本で元気な姿を見て、岡田さん、イトシンだけでなく バイクブーム時代のチャンピオンが、まだまだがんばってるなと、応援しておりました。 SUZUKI大好きな私のなかでは、Γで世界に出て行く日本人という、レース史の中でも 非常に印象に残る方で、尊敬しておりましたし、ヒーローでした 明日お通夜、スズキミーティングのある9/8に告別式とのことです ご冥福をお祈りいたします 練習中 二輪プロレーサーが事故死 4日午前10時50分ごろ、岡山県美作市滝宮の岡山国際サーキットで、練習走行中のプロレーサー沼田憲保(本名高橋憲保)さん(41)=千葉県流山市松ケ丘4丁目=のオートバイ(600CC)がタイヤバリアーに衝突。沼田さんは胸を強く打ち間もなく死亡した。 美作署の調べでは、沼田さんは午前9時すぎから走行。ヘアピンカーブを曲がりきれず、壁のように積み上げられたタイヤに衝突した。 サーキットは1周約3・7キロで、事故当時は沼田さんを含め10台ほどが練習中だった。 沼田さんは29日から同サーキットで開かれる全日本ロードレース選手権シリーズ第6戦に参戦予定だった 沼田 憲保(ぬまた のりやす、1966年4月26日 - 2007年9月4日)は、茨城県日立市出身のモーターサイクル・ロードレースライダー。雨天でのレースに強く、「雨の沼田」の異名をとった。 デビュー~全日本時代 1988年にSP250クラスでデビュー。ノービス時代は、ミラージュ関東に席をおき、1990年のSUGO選手権では3クラスでチャンピオンを獲得した。翌年に特別昇格で国際A級ライセンスを得ると、スズキワークスのRGV‐Γ250開発兼任で全日本ロードレース選手権250ccクラスにフル参戦を開始した。原田哲也・岡田忠之・青木宣篤ら強豪がひしめく中、まだポテンシャルの低かったマシンで苦戦を強いられ、初表彰台(3位)に立ったのは1992年第3戦だった。 原田らがロードレース世界選手権に進出した1993年には第9戦で初優勝するも、マシンの性能差や宇川徹の台頭などがありランキング5位で終わる。1994年にはランキング2位、1995年には翌年ロードレース世界選手権参戦が決定していた宇川を退けクラス・チャンピオンの栄光を掴んだ。1996年には、加藤大治郎や芳賀健輔との争いを制し連覇を成し遂げた。 世界グランプリ時代 スズキは1997年からロードレース世界選手権GP250での参戦を決定し、アリー・モレナー・レーシングのエースライダーとして沼田もフルエントリーされた。サーキットのデータ不足やマシンの性能差は彼を苦しめ、2年で沼田は撤退。 再び全日本へ 1999年、活躍の場を4ストマシンに切り替えた。同年から5年連続で鈴鹿8時間耐久ロードレースにエントリー。2004年から全日本ロードレース選手権ST600クラスにフル参戦し、第3戦では雨の筑波を制して8年ぶりに優勝。 後進の育成にも積極的で、ライディングスクールの講師役なども務めていた。 2007年9月4日、岡山国際サーキットで練習中にタイヤバリアに衝突、胸などを強く打ち胸部破裂で急逝した。41歳没。 孤高の戦士 沼田憲保(ぬまたのりやす)は2年連続全日本チャンピオンのガンマ使い! スズキの至宝!沼田憲保はΓ使いの本格派 沼田 憲保(ぬまた のりやす、1966年4月26日生まれ) 茨城県日立市出身のオートバイレーサー。 沼田選手は、1995年、1996年と2年連続の全日本ロードレース国際A級 GP250ccクラス全日本チャンピオンです。 スズキのマシンRGV-Γ250を駆り、全日本を暴れまわりました。 沼田憲保選手について ミラージュ関東出身。 雨天でのレースに強く、「雨の沼田」と呼ばれました。 1988年 ロードレースデビュー 22歳なのでまわりとくらべると遅いスタートでした。 参戦クラスはSP250。 1990年 SUGO選手権で3クラスを制する3冠チャンピオンとなる。 1991年 国際A級に特別昇格 全日本GP250ccクラスへフル参戦 この年からスズキワークス入りの大抜擢 RGV-Γ250の開発兼ライダーとなる その後、1992年 初表彰台、1993年 初優勝、1994年 ランキング2位と着実にステップアップしていき、1995年にはついに全日本チャンピオン、1996年も2連覇を成し遂げます。 1996年からは世界グランプリに舞台を移しますが……。 沼田選手の主な戦績 戦績 1990年 SUGO選手権でSP250、NB-F3、NB250の3クラスでチャンピオン 1991年 全日本選手権 GP250 ランキング14位 1992年 全日本選手権 GP250 ランキング9位(初表彰台) 1993年 全日本選手権 GP250 ランキング5位(初優勝) 1994年 全日本選手権 GP250 ランキング2位 1995年 全日本選手権 GP250 全日本チャンピオン 1996年 全日本選手権 GP250 全日本チャンピオン(2連覇) 1997年 世界選手権 WGP250 ランキング12位 1998年 世界選手権 WGP250 ランキング16位 1999年 世界選手権 WGP500 ランキング29位 Muz Weber 8時間耐久に参戦 2000年 スーパースポーツ世界選手権 ヤマハ 8時間耐久に参戦 2003年 スーパーバイク世界選手権 ドゥカティ 8時間耐久に参戦 2004年 全日本選手権 ST600 ランキング4位 8時間耐久に参戦 2005年 全日本選手権 ST600 ランキング6位 8時間耐久に参戦 2006年 全日本選手権 ST600 ランキング23位 2007年 全日本選手権 ST600 ランキング11位(第5戦終了時) RGV-Γ250で闘う沼田憲保選手(動画) ▼▼▼1994年SUZUKI全日本ロードレース情報(RGV-Γ250) ▼▼▼1994年の全日本GP250ccクラス第10戦 菅生サーキット ▼▼▼1996年の世界選手権日本GP鈴鹿ROUND 沼田選手はゼッケン#52のラッキーストライクスズキ号です。 削除されていたらごめんなさい。 孤軍奮闘 スズキのマシンRGV-Γ250での参戦は、開発とレースの同時進行。 沼田選手はその両方を一手に任されて、孤軍奮闘の様子でした。 しかも当時のライバルたちの顔ぶれときたら…… マシンで言うなら、NSR250、YZR250。 ライダーで言うなら、宇川徹や加藤大治郎、芳賀健輔といった強者達を退けてのチャンピオンには相当な価値があるように思います。 世界選手権参戦の苦労 アリー・モレナー・レーシングチームのエースライダーとして、世界選手権のワールドグランプリに行ってからも、ますます苦労されていたように思います。 マシンの開発や熟成度の差だけではなく、ホンダNSR250やヤマハYZR250には長年積み上げてきたデータなどもあり、セッティング出しなどについてのアドバンテージも相当大きかっただろうと思います。 若井伸之選手が生きていたら随分違ったのかもしれません。そう思うと、もっと活躍して良かった選手なのだろうと思います。 全日本復帰後の沼田選手 2004年からロードレース全日本選手権に復帰。 しかし、2007年9月4日、岡山国際サーキットで練習中にタイヤバリアに衝突、胸などを強く打って急逝した。享年41歳。惜しい人を亡くしました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Sep 4, 2020 07:06:35 AM
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